ベートーヴェンの耳

江時久 (ビジネス社、1994)

 

ベートーヴェンといえば、「耳が聞こえなくなった」音楽家で通っていますね。音楽家にとって耳が聞こえないということは、きっと想像を絶するハンディに違いありません。そのハンディを乗り越えたベートーヴェンは、だから偉大なのだ、というのは誰でも納得する話。

しかし、実はベートーヴェンの耳は晩年まで「聞こえていた」のです。もちろん健聴者と同じようにではありませんが、「聾」つまり全く聞こえなかったのではなく、「難聴」だったのです。難聴にもいくつかの種類があります。ベートーヴェンはおそらく「耳硬化症」という珍しい病気による特殊な難聴で、その症状は健聴者には理解しにくいそうです。本人や家族が気づくのはたいてい思春期。患者はコミュニケーションを阻害する障害を隠したがるので、患者と専門家以外にこの病気のことを知っている人はまずいないのです。いや、耳鼻科の医師でも知らないことが多い。

ところが、この特殊な難聴ということを前提にすると、ベートーヴェンの生涯を彩る数々のエピソードが実によく理解できます。そして、あのハイリゲンシュタットの遺書に至る青年ベートーヴェンの激しい苦悩も、その絶望を乗り越えた後の驚くべき創作力も、すべての鍵はこの難聴にあったのです。

本書は、ベートーヴェンと同じ(と想像される)障害を持つ著者が、天才の生涯と創造の秘密に迫った、衝撃の書。並行して語られる著者自身の人生は感動的です。同じ著者による『本当は聞こえていたベートーヴェンの耳』(NTT出版、1999)もあります。