斎藤孝『理想の国語教科書』―「名文崇拝」への疑問

 

小学校の中高学年生を対象に、「最高レベルの日本語の散文に数多く」触れさせることにより「言葉の力、文章の力をからだの奥にまで染み込ませ」「日本語力、教養、倫理観など」を鍛えることをねらいとする本書には、著者の斎藤氏が「これまでの人生で出会い『感動』を受けた」「すごみのある名文」、「他者に対する想像力を育て、感情を豊かにし、生きる勇気を鍛えてくれる」「本物の迫力ある名文」31編が収められている(以上P. 8、11、318、322より)。

しかし、そのすべてが「すごみのある名文」であるとは、どうも思えない。中島敦「名人伝」、太宰治「走れメロス」、幸田文「鉈」などは確かにすごみ、迫力を感じるが、たとえばラッセル「幸福論」、宮本常一「家郷の訓」、「レオナルド・ダ・ヴィンチの手記」などは、そういう種類の文章ではないような気がするのだが。それから、宮沢賢治「学者アムラハラドの見た着物」や森鴎外「杯」の解説で主張されている教育論やいじめ対策などは、あまりに単純すぎるのではないか。

それはともかく、国語(母国語)教育の第一の目的は、コミュニケーションの道具としての言葉(言葉の機能はもちろんこれだけではないが)を理解し操る能力を身につけることであると考える筆者は、斎藤氏の単純な「名文」崇拝に強い疑問を感じる。

「他者に対する想像力を育て、感情を豊かにし、生きる勇気を鍛えてくれる」文章は確かに存在するし、また、想像力を育て感情を豊かにすることは、成長期の人間にとって必要なことでもある。しかし、「言葉の力を教えるのが国語の最重要課題」(P. 329)というのは、どうだろうか。筆者は、いわゆる「名文」なるものをあまり信用しない。「力のある言葉」「すごみのある文章」などといわれると、むしろ警戒心が先に立つ。ヒトラーの演説は大衆を動かし、歴史を動かした。シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』にあるアントニーのシーザー追悼=民衆煽動演説や、本書に収められた『マクベス』の夫人による殺人教唆なども、またしかりだ。「言葉の力を教えるのが国語の課題」なら、言葉が凶器となりうることも同時に教える必要があるだろう。

ところで、斎藤氏が「名文」にこだわる理由は、彼が「生の美意識=倫理」と考えていることと、どうも関係がありそうだ。「たとえば、道ばたに唾を吐くことは、それがマナーに反することだとされているからしないというのではなく、自分の生の美意識に反するからしないというときに、真の倫理となる」(P. 323)。しかし、このような考え方は倫理に関する議論を拒絶する態度につながるだろう。倫理とは、美意識の問題ではなく、善悪の価値判断である。「マナーに反することだとされているからしない」というだけでなく、なぜマナーに反するとされているのかを考えることが大切なのである。

しかし、斎藤氏は子どもたちに、どこまで考えさせているのだろうか。例として挙げられた「これからは人をそそのかして物を盗ませたりしちゃいけないよ。どうしても悪いことをせずにいられなかったら、人を使わずに、自分一人でやれ。善いことも悪いことも自分一人でやるんだ」という坂口安吾の「教え」は、斎藤氏によると「子どもたちにもよくわかり、人気が高かった」「子どもたちの心の琴線に触れた」そうだが(P. 56、324)、この「教え」に疑問を抱く生徒、何か心に引っかかりを感じる生徒は、ほんとうに一人もいなかったのだろうか。質問できるような雰囲気ではなかった、ということでなければいいのだが。斎藤氏が主宰する音読教室では、子どもが重要と思う個所に自由に線を引かせるがその理由は問わず、一方、その中で斎藤氏が最も重要と思った個所には全員に線を引かせるらしい。子供に思考停止を奨励する(迫る?)ような指導法は、斎藤氏の倫理観と相通じるものだろう。

いつの時代にも「力のある言葉」で「感動」や「勇気」や「正義」を語る「指導者」は人気がある。子どもたちには生の美意識よりも、言葉の力に惑わされない粘り強い思考力と冷静な判断力をこそ、身につけさせるべきだと思う。

ついでに言わせてもらえば、本書の著者名は「斎藤孝」ではなく「齋藤孝」となっているが、『理想の国語教科書』では正字体(いわゆる旧字体)も教えるのだろうか。

 

(2003年12月25日)