困ったことに、ピアノの前身楽器が何であるかについては、音楽関係者の間に真っ向から対立する二つの考え方があります。それらの見解が因って立つ根拠を明らかにし、このような事態に至った背景を考えてみました。
ピアノの歴史について書かれた本や事典の解説などには、1700年頃にイタリア人のバルトロメオ・クリストフォリがピアノを発明したことが書かれています。クリストフォリはチェンバロ(英語ではハープシコード)を中心とする有弦鍵盤楽器(発音体が弦である鍵盤楽器。有鍵弦楽器ともいう)の製作家でした。
チェンバロはキー(鍵)を押すと、プレクトラム(鳥の羽軸から作られた、爪のようなもの)が弦をはじくことによって音がでます。プレクトラムはとても小さく、移動する距離はきわめて短いので、キーを指で押す力が強くても弱くても、スピードが速くても遅くても、音の大きさはほとんど変わりません。つまり、チェンバロは基本的にキータッチによっては音量をコントロールできない楽器です。
創意工夫に富むクリストフォリはあるとき、弦をプレクトラムではじく代わりにハンマーで叩くことを思いつきました。もちろん、単純にプレクトラムの位置にハンマーを取り付ければいいというものではなく、発音機構を一から設計し直す必要がありました。
クリストフォリが苦心の末に完成させたのは、キーを押す力の強さによって音量を連続的に変化させることができる、画期的な楽器でした。ふつうのチェンバロよりも弦を太く、そして張力を強くしなければならなかったので、本体はかなり頑丈に作られていました。しかし、きわめて複雑な発音機構と本体内部の補強材を別にすれば、楽器全体の形や大きさから個々の部品の形や材質に至るまで、基本的にいままでのチェンバロとほとんど変わらず、外見からは見分けがつきませんでした。
![]() クリストフォリ作のピアノ |
![]() 1700年頃のイタリアのチェンバロ |
そういうわけでこの新しい楽器は「ピアノとフォルテを伴うチェンバロ」とか「小さなハンマー付きのチェンバロ」などと呼ばれることもありました。とはいえ、これらはまだ新しい楽器名といえるほどのものではありませんでした。おそらくクリストフォリ自身も特に新しい名前を付ける必要を感じなかったのでしょう。実際しばらくの間は「新しいチェンバロ」、または単に「チェンバロ」と呼ばれることが多かったようです。
初めのうち一部のかぎられた人たちが注目しただけだったこの「新しいチェンバロ」は、その後ドイツ語圏の楽器製作家たちがいくつかの改良を加えたことによって、誕生後、半世紀以上経ったころからようやく少しずつ普及しはじめました。それに伴って、当初の呼称の一つだった「ピアノとフォルテを伴うチェンバロ」の一部である「ピアノとフォルテ」または「ピアノフォルテ」や「フォルテピアノ」などの言葉が新しい楽器名として定着していったようです。おそらく、いままでのチェンバロとは明確に異なる別の楽器であるとの認識がしだいに広まり、混乱を避ける必要が生じたのでしょう。この「ピアノフォルテ」を略した「ピアノ」が今日この楽器の名前として広く使われていますが、現在でも「ピアノフォルテ」が正式な楽器名とされています(スラブ語圏では「フォルテピアノ」が正式名称)。
「前身」という言葉を辞書で引くと、「団体・組織などが現在のようになる前の形や状態」「団体や組織などが発展変化する以前のもの。母体」などといった説明が載っています。この意味での用例としては、「東京大学の前身は東京開成学校である」「気象庁の前身は中央気象台である」などがあります。また、東京芸術大学のウェブサイトには「本学の前身であった東京美術学校、東京音楽学校は・・・」と明記されています。
これらの用例からも明らかなように、「前身」は「母体」とほぼ同義であり、ある団体や組織の基本的な構成や活動内容などが現在のようになる以前のものを指すのに使われます。細部の変更や表面的な違いではなく、かなり大きな、根本的な改変が行われる前です。もう一つ重要なのは、名前も異なるということ。「大学院併設前の東京芸術大学は大学院併設後の東京芸術大学の前身」などという言い方はしません。中味がどんなに違っていても、名前が同じならそれは同じものであって、前身ではないのです。
「前身」は団体や組織だけでなく、人間の社会的活動や制度、文化的行為や創造物についても使われています。たとえば「紅白歌合戦の前身」「動物愛護法の前身」「大阪城の前身」「広辞苑の前身」「インターネットの前身」。さらには、このようなある特定の(世の中に一つしか存在しない、あるいは固有名詞で呼ばれる)対象ばかりでなく、身の回りのありふれた道具や商品、制度、文化現象など、広く人間が創りだしたさまざまなものにも使われます。たとえば「電卓の前身」「冷蔵庫の前身」「エアコンの前身」「クレジットカードの前身」「油絵の前身」「柔道の前身」「歌舞伎の前身」など。
「前身」のこのような拡張された意味・用法はふつうの中規模以下の辞書には載っていません。しかし、たとえば『日本国語大辞典』(小学館)には「変化する前の物や状態など」と記載されています。要するに、「あるモノが、それになる前は、何だったのか」ということで、基本的な意味と用法は団体や組織の場合と同じといっていいでしょう。そうでなければ意思の疎通が困難になるはずです。
楽器についても「前身」は同じ意味で使われなければなりません。ある楽器の基本構造を変えたり、構成要素の一部を改変したり他のものに置き換えたり、または新しい構成要素を付け加えたりすることによって、楽器としての性格や特徴が大きく変わり、もはや元の楽器とは別のものになったと認識され、そして新しい名前で呼ばれるようになったのなら、その新しい楽器に対して元になった楽器が前身です。
広く西洋の楽器を見渡すと、おおよそ16世紀頃までに登場した楽器のほとんどは起源が不明であり、前身とされる楽器がある場合でも、その説明は推測の域をでません。しかし、比較的近年に誕生したピアノは、前述のとおり発明の経緯がよくわかっているので、前身も明確です。チェンバロを母体として、その発音原理を変えることによって、ピアノという新しい楽器が生まれたのですから、チェンバロがピアノの前身であることに疑問の余地はありません。コンサート会場などでチェンバロを初めて見た人は誰でも「これはピアノの前身だろう」と思うはずで、この〈素人の直感〉は間違っていないのです。
でも、ちょっと待って。前身とそれから生まれた新しいもの(後身)とは名前が同じであってはならないとすると、クリストフォリが発明した楽器は初めのうち「チェンバロ」と呼ばれていたのだから、その前身がチェンバロだというのはおかしいではないかって? たしかに新しい楽器は初めのうち「チェンバロ」と呼ばれていました。でもそれは、おそらくいくつかの事情が重なったためと思われます。まず、クリストフォリ自身が新しい名前を付けなかったこと、また実際に外見ではふつうのチェンバロと見分けがつかなかったこと、さらには、音楽演奏における楽器としての役割がいままでのチェンバロとほとんど変わらなかったこと。そして何よりも、時代を先取りしすぎたこの楽器の潜在的可能性が広く認識されて普及しはじめるまでに、とても長い年月がかかったことです。仮に発明されたのが半世紀以上遅かったとしたら、おそらくより速やかに普及して、従来のチェンバロとの混同を避けるために新しい名前が必要になるまでの期間もずっと短かったでしょう。
だから、やはりチェンバロはピアノの前身といっていいのです。それどころか、この新しい楽器がしばらくの間は「チェンバロ」と呼ばれ続けたという事実は、むしろその前身がチェンバロであることを雄弁に物語っているといえます。実際に、チェンバロはピアノの前身であるという説明、またはそのような趣旨の説明は、多くの書物や雑誌記事、各種パンフレット、さまざまな団体・会社や個人のウェブページに書かれています。
ところが、・・・
驚くべきことにウェブページの中には、これとは異なる主張も数多く見つかります。ウェブの世界だけでなく、一般向けの本や雑誌、新聞の記事などにも散見されます。また、コンサートやテレビ・ラジオの音楽番組などにおける楽器の紹介でも、そのような説明が行われています。そして、しばしば「チェンバロはピアノの前身ではない」とか「・・・前身とはいえない」といった表現がなされ、「ピアノの前身はチェンバロ」という〈定説〉や〈素人の直感〉を否定しようという意図が明らかです。
チェンバロはピアノの前身ではないとされる場合、その理由はほぼ例外なく、チェンバロは撥弦楽器だけどピアノは打弦楽器、つまり両者は「発音原理が異なる」ということです。もちろん、これ自体は正しい指摘です。しかし、発音原理が異なるから前身ではないという理屈は、「前身」という言葉の意味や使い方についての誤解にもとづくものです。「ピアノの前身」とは、「ピアノはどの楽器からその発音原理を受け継いだのか」という意味ではありません。「東京芸術大学の前身」が「東京芸術大学はその建学の精神や大学としての理念を何から受け継いだのか」という意味ではなく、エアコンやクレジットカードや柔道などの前身というときにそれらの原理や本質が問題にされることはないのと同じです。辞書における「前身」の説明にも、「原理」とか「本質」とかいったことはいっさい書かれていません。「前身」という言葉を、ピアノの場合に限って、通常は用いられることのない特殊な意味で用いることは、無用の混乱を招くだけです。
チェンバロはピアノの前身ではないという見解は、音楽の歴史に詳しくない〈素人〉よりも、むしろ古楽器演奏家、古楽器製作家、ピアニスト、ピアノ教師、音楽学者、音楽評論家など、ピアノ誕生の経緯をよく知っているはずの専門家たちのあいだに、比較的多く見受けられます。それはなぜでしょうか。
現代の楽器分類学において最も重要な分類基準は発音原理です。音楽の専門家なら、ある楽器の前身が当の楽器とは発音原理が異なる、つまり別の分類群に属するということは、理論的にも感覚的にも受け入れ難いのかもしれません。じつは、現代の標準的な楽器分類法であるザックス=ホルンボステル分類において、チェンバロとピアノはどちらも「3:弦鳴楽器群」の中の「314:平板型ツィター類」、さらにその下の「314.122:共鳴箱式の本来的平板型ツィター類」に属します。弦を叩くかはじくかはその先の枝番号の違いにすぎず、それよりもどのような形の物に弦をどのような向きに張ってその振動による音を何で増幅するかということが重視されているのです。とはいえ、発音原理はいわば楽器の魂であり、発音原理の違いは単なるメカニズムの相違を超えて、表現できる音楽の性格の違いとなって現れます。とくにチェンバロはピアノとは音響特性があまりにも違うので、ピアノの前身とされることには違和感が大きすぎるのでしょう。では、他の楽器の場合はどうなのでしょうか。
ピアノ以外の西洋の主要な楽器の中で、その前身が確立されているものはそれほど多くありません。いわゆる打楽器を別にすれば、明確なのはオーボエとクラリネットくらいではないかと思われますが、多少の議論はあるものの、ファゴットとチューバ、さらにトロンボーンを加えてもよいかもしれません。これらはいずれも、たしかにその前身楽器と発音原理が同じです。しかし、それぞれの前身はあくまでどの楽器を改変したのかという基準で特定されているのであって、発音原理が同じだから前身とされているわけではないことは、音楽史を紐解けば明らかです。発音原理が同じであることは発音機構に根本的な改変を加えなかった結果にすぎず、したがって発音原理が変わってしまったら前身ではなくなるということもありません。
「ある楽器とその前身楽器は発音原理が同じでなければならない」という前提は、「前身」の辞書的な意味からの逸脱であるだけでなく、音楽学における一般的な用法とも相容れないのです。
チェンバロはピアノの前身ではないという主張の背景には、おそらく発音原理への固執とは別の心理的要因もあると思われます。ピアノ発明の経緯についての説明で、チェンバロはキータッチで音に強弱の変化をつけられないことが強調されるのはやむをえません。しかし、そのためにチェンバロには、ピアノの前段階の「未完成」の楽器とか、表現力においてピアノに劣る「格下」の楽器といったイメージがつきまといます。チェンバロの音や響きに完成された様式美を見いだし、また音量コントロール以外のさまざまなテクニックで多様な表現を生み出しているチェンバロ奏者なら、こういった負のイメージを喚起、あるいは増幅しかねない「ピアノの前身」という言葉でチェンバロが説明されることに、大きな抵抗があると想像されます。
では、ちょっと視点を変えてみましょう。クリストフォリの新しい楽器は音量の自在なコントロールが可能になったことの代償として、チェンバロの明るく澄んだ音、明確な音の立ち上がりと深い余韻、倍音に富む華やかな響きを失いました。そのため、当時のピアノは音がそれほど明瞭には聞こえず、単純に音量だけを比較すればチェンバロよりも小さな音しか出せませんでした。18世紀を通じて行われたピアノの発音機構の改良は、音がはっきり聞こえるように音量をより大きくするための一連の努力だったのです。そうであれば、チェンバロがピアノの前身であることを認めるのは、チェンバロの価値を下げることにはならず、むしろそれをより高めることになるのではないでしょうか。
さて、チェンバロはピアノの前身ではないと主張する人たちはたいてい、その代わりとしてピアノの前身と考える楽器を挙げています。また、チェンバロにはまったく触れずに、単にピアノの前身として他の楽器が言及されるだけのこともあります。いずれにしてもそれらの楽器は、当然のことながらピアノと発音原理が同じか、または少なくとも音量を自在にコントロールできる楽器です。
チェンバロの代わりにピアノの前身とされることの多い楽器は、まずクラヴィコードです。クラヴィコードもピアノと同様、キータッチによって音量を連続的に変えることができます。ただし、厳密にいうとその発音原理はピアノと多少異なります。クラヴィコードでは弦を叩くというよりも、タンジェント(マイナスドライバーの先端のような金属片)が弦を突き上げ、それによって2分割された弦の片側だけを振動させることによって音が出るからです。キーを押している間はタンジェントが弦を突いた状態が維持され、その間だけ音が持続するという単純な原理なので、発音機構もかなり単純で、その部分の構造はチェンバロ以上にピアノと大きく異なっています。
![]() クラヴィコード |
クラヴィコードがピアノの発明にヒントを与えた可能性はありますが、ピアノはチェンバロのプレクトラムをハンマーに置き換えることによって誕生したのであり、クラヴィコードのタンジェントをハンマーに置き換えたのではありません。この事実を知りながら、発音原理が同じという理由のみで「ピアノの前身はクラヴィコードだ」と主張するならば、同じ理屈で「ギターの前身はリュート」も「ヴァイオリンの前身はヴィオラ・ダ・ガンバ」も「オーボエの前身はファゴット」も「サクソフォンの前身はクラリネット」も、すべて正しいと認めなければなりません。
では、なぜ「ピアノの前身=クラヴィコード」説が根強く支持されるのでしょうか。両者の間に発音原理が同じということ以上の、あるいは発音原理が厳密には同じではないということを補って余りある、情緒的な面でのつながりが感じられるのかもしれません。クラヴィコードは音量の自在なコントロールのみならず、キーを押した状態での指の動きによってビブラートをかけることも可能です。構造が単純であるだけに、指で弦を直接振動させているような感覚があり、そのため当時から表情豊かな「歌唱様式」による演奏が可能な楽器だと考えられていました。クラヴィコードをよく知る人なら、「歌うように弾く」ことを常に求められるピアノはクラヴィコードの精神を受け継いだ楽器だと思いたくなるでしょう。
発音原理が同じ楽器のあいだで音響特性や表現能力に共通点が多いのは当然ですが、これらの共通性の評価には客観的な基準を設けるのが難しく、判断は恣意的になりがちです。音楽学における「前身」の習慣的用法を無視して、その代わりに音響特性や表現能力(楽器の精神)の連続性を重視するというのは、合理性に欠ける考え方です。
クラヴィコードと同じくらいかそれ以上にピアノの前身とされることが多いのは、フォルテピアノです。クリストフォリが発明した新しい楽器は、普及しはじめてからも、長期にわたり多くの人の手によって改良が加えられたため、外観も細部の構造も少しずつ変化しましたが、おおよそ19世紀半ば頃には現代のピアノとほとんど変わらないものになりました。そこで今日では、現代のピアノとはさまざまな点で異なる初期の楽器を、当時の呼称の一つを借りて、「フォルテピアノ」と呼んでいます。このフォルテピアノがピアノの前身だという説明は、今日のピアノに直接つながる楽器であるだけに、クラヴィコードよりももっともらしく聞こえるかもしれません。
しかし、「フォルテピアノ」は初期のピアノを現代のピアノから区別するための便宜的な呼称にすぎず、しかも両者の境界は曖昧で、どの時点までの楽器を「フォルテピアノ」と呼ぶかが決まっているわけでもありません。そもそも、外見や構造・材質など多くの点で違うとはいえ、両者は別の楽器ではなく同じ楽器であり、だから名前が同じなのです(前述のとおり、初期のピアノは「ピアノフォルテ」とも呼ばれ、スラブ語圏では今日でも「フォルテピアノ」が正式名称。前述のザックス=ホルンボステル分類においても初期のピアノと現代のピアノは区別されていない)。「ピアノの前身はフォルテピアノ」という主張は、言い換えると「ピアノの前身は初期のピアノ」となり、たとえば「電卓の前身は初期の電卓」「歌舞伎の前身は初期の歌舞伎」などと同様に、無意味です。フォルテピアノはピアノの前身ではなくピアノそのものであり、クリストフォリはフォルテピアノを発明したのではなくピアノを発明したのです。
ピアノの歴史は絶えざる技術革新の歴史であり、とくに初期の百数十年間の変化は激しかったので、クリストフォリの楽器と1820〜30年代の楽器との違いは、後者と現代のピアノとの違いよりもはるかに大きいといっていいでしょう。「ピアノの前身=フォルテピアノ」説は、一方でクリストフォリから19世紀前半までの発展段階がさまざまに異なる楽器すべてを一つにくくりながら、もう一方でその最後の時代の楽器とそれほど大きくは違わない現代のピアノをそれらとは別の楽器とみなすという、とても不自然な考え方です。
「ピアノの前身はフォルテピアノだ」と主張するなら、全く同じ理屈で、たとえば「オーボエの前身はバロック・オーボエだ」と主張しなければなりません。しかし、「バロック・オーボエ」もまた初期のオーボエを現代のオーボエと区別するための便宜的な呼称です。両者はどんなに外観や構造、性能や音色が違っていても、別の楽器ではなく同じ楽器です(フルートとバロック時代のフルート〔当時の言葉でフラウト・トラヴェルソ=横のフルート〕も同様)。前者が後者の前身なのではありません。フォルテピアノと現代のピアノの関係も同じです。
それにしても、なぜこれほどまでにフォルテピアノとピアノが峻別されるのでしょうか。ここにもまたいくつかの心理的要因が潜んでいると思われます。フォルテピアノ(とくに18世紀のモデル)について詳しい専門家や実際に楽器に触れたことがある音楽関係者は、現代のピアノとのあまりにも大きな違いをよく知っているので、両者は「まったく別の楽器だ」と主張したくもなるでしょう。少なくとも〈素人〉への説明ではそのように強調したほうが事実をより正確に伝えられる、あるいはより理解してもらいやすい、と考えるのもわかります。フォルテピアノ奏者であれば、両者の区別は自身の演奏家としての立ち位置を明確にするためにも必要なことでしょう。これらすべての背景にはさらに、フォルテピアノを現代のピアノに至る前の「未完成品」とみられたくないという意識があるのかもしれません。そうだとすると、奇妙なことに、チェンバロはピアノの前身ではないと主張するときの「前身」と、その代わりにフォルテピアノがピアノの前身(現代のピアノとは別の楽器)だと主張するときの「前身」とでは、その価値のベクトルが正反対ということになります。
なお、ピアノの前身をクリストフォリの楽器のみに限定している例もあります。「ピアノの前身=フォルテピアノ」説の一変種ともいえますが、むしろ「前身」の意味を「嚆矢 (こうし)」と取り違えているのでしょう。クリストフォリの楽器については「ピアノの原型」という説明もよくなされます。「原型」は一般に「基準となる形」「元となる模型」「参照されるべきモデル」といった意味ですが、「ピアノの原型」の場合はおそらく「原初のピアノ」の意味でしょう。そうだとすると、こちらは「原型」を「嚆矢」と取り違えていることになります。
ちなみに、英語のウェブサイトを「ピアノの前身」で検索してみると、日本語の場合と同様、harpsichord と fortepiano、clavichord が同じくらいあるようです。ただし、キーワードにした ancestor、antecedent、former、precursor、predecessor はいずれも日本語の「前身」と意味範囲が同じではないので、「ピアノの前身」の意味でこれらの楽器が挙げられているのかどうかは不明です。
クラヴィコードよりも古くからある打弦楽器のダルシマー(正式にはハンマード・ダルシマー)がピアノの前身だという見解もしばしば見かけます。ダルシマーは映画「第三の男」で有名なチロル地方のツィターや、ハンガリーの民族楽器ツィンバロムと同系で、ツィターが親指に付けたプレクトラム(=ピック)で弦をはじくのに対して、ダルシマーは手に持ったハンマー(ばち)で弦を叩いて音を出します。
![]() ダルシマー |
ピアノはダルシマーに鍵盤を組み込むことによって誕生したわけではないので、ダルシマーもピアノの前身ではありません。とはいえ、ダルシマーはピアノと発音原理が完全に同じなので、クラヴィコード以上にピアノの発明に影響を与えた可能性はあります。それで「ピアノの先祖」と呼ばれることもありますが、このこと自体にはとくに問題はないでしょう。ただし、「ピアノの先祖」と呼ばれるための資格要件を「打弦」という発音原理のみに限定することに合理的な理由はないので、たとえば、オルガンは鍵盤を有するという点で、ハープは個々の音に対応する多数の弦があるという点で、同等の資格があるといえます。
また、クリストフォリの発明に先立つ、弦を叩いたり擦ったりして音の強弱をコントロールしようと試みたさまざまな鍵盤楽器(ドルチェ・メロス、ガイゲンヴェルクなど)も、クリストフォリへの影響の有無にかかわらず、「ピアノの先祖」といえます。お望みなら、そこにクラヴィコードと、さらにはチェンバロを加えてもかまわないでしょう(前身も先祖の一員)。「先祖」はこのように幅広く、曖昧な概念です。ただし、もちろんフォルテピアノはピアノの先祖ではありません。
ここまで詳しくみてきたように、ピアノの前身についての〈定説〉や〈素人の直感〉を否定する立場には、いくつもの難点があります。まず、「チェンバロはピアノの前身ではない」という主張は、チェンバロの発音機構の改変によってピアノが誕生したという事実を無視しています。そして、この主張は「ある楽器とその前身楽器とは発音原理が同じでなければならない」という「楽器分類学的?」な前提を根拠としていますが、これは「前身」という言葉の辞書的な原義からも、音楽学における習慣的用法からも逸脱しています。
ピアノの前身がチェンバロであることを否定したら、代わりに他の楽器をピアノの前身とする必要が生じます。ピアノの前身=クラヴィコード説に立てば、ある楽器の前身は発音原理が同じ先行楽器ならどれでもよいことになりますが、たとえばギターに対するリュートのように、系統が異なるものの発音原理はまったく同じという先行楽器が存在する例はいくらでもあります。
ピアノの前身=フォルテピアノ説は「ピアノ」と「フォルテピアノ」が元来同じ楽器の名称であることを忘れ、また、オーボエやフルートなど他のいくつかの楽器も、その歴史においてピアノと同様に外観や細部の構造が大きく変わり、性能や音色も変わってきたことを忘れています。フォルテピアノと現代のピアノは別の楽器だと主張するなら、これらの楽器も同様に2つか3つの楽器に分割する必要があります。
音楽の教科書や参考書などでは、ピアノの前身としてチェンバロとクラヴィコードの両方、あるいはこれらに加えてダルシマーやツィンバロムなど、いくつかの楽器が言及されることもあるようです。なんらかの意図があるのだろうと思われますが、無用の誤解を避けるため、クラヴィコードやダルシマーなどについては「ピアノの発明に影響を与えた可能性がある楽器」といった表現に留めるべきでしょう。
ピアノの前身について論じる際は、「前身」という言葉の本来の意味と音楽学における通常の用法に立ち帰り、また専門家としての立場や心理的要因から自らを解放して、客観的事実を冷静に見つめる必要があります。「ピアノの前身」とは、発音原理や楽器分類法などとは関係なく、「ピアノはどの楽器に改変を加えることによって誕生したのか」という歴史の事実に関する問いであり、「チェンバロ」が唯一の正しい答えです。撥弦楽器であるチェンバロの発音機構を別のものに置き換えることによって、打弦楽器であるピアノが誕生したからです。「チェンバロはピアノの前身ではない」という主張は、どのような意図や背景要因があるにせよ、この歴史的事実を否定することであり、ひいてはクリストフォリの偉大なイノベーションの軌跡を歴史から抹殺してしまうことになります。
本稿で提起された問題は「前身」という言葉の意味や使い方に関することで、音楽そのものの問題ではないのだから、音楽関係者にとってはどうでもよいことだ、と思われるかもしれません。しかしながら、これはピアノとチェンバロの歴史的関係の理解にもかかわることです。影響力の大きい専門家たちによって繰り返される不適切な説明が、多くの音楽愛好家たちと楽器の歴史や古楽器にあまり詳しくない音楽関係者たちに誤った知識や概念を広め、また教育現場にも混乱をもたらしているのではないかとの危惧を禁じえません。専門家諸氏には、この問題について熟慮のうえ、慎重に発言されることを切望します。
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ピアノと初期鍵盤楽器の歴史については、渡邊順生『チェンバロ・フォルテピアノ』(東京書籍、2000)、村田千尋『西洋音楽史再入門』(春秋社、2016)などを参考にしました。個々の記述内容には誤りがあるかもしれません。お気づきの点がありましたら、お知らせいただければ幸いです。なお、本稿は2019年の公開後に何度か改訂を行っています。
(2019年5月25日)
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