『沈黙の宗教―儒教』と宗教の本質

 

日本人の宗教感情と死生観

中国哲学史家、加地伸行氏の『沈黙の宗教―儒教』(筑摩書房、1994)は、儒教とは何かという問いに的確に答えてくれる好著である。まず、彼の儒教理解を紹介しよう。

日本人の死生観の中心的な部分は、通常は仏教の教義に由来していると信じられている。しかし、加地氏によればそれは間違いである。

たとえば、輪廻転生を信じるインド仏教では葬儀を行わず、魂が離れた死者の体はもはや不要として、死体は焼いて骨と灰は川へ捨てるので、墓がない。また、転生とは魂が再び身体をもった存在となることなので、死者の魂(霊)がいつまでもこの世の人間と関わりをもち続けるということもない。死者と生者は、四十九日が過ぎれば縁が切れるのだから、先祖祭祀も不要だ。そもそもインド仏教では、この世は生・老・病・死の苦に満ち満ちているので、転生しても再び人間として生まれることを必ずしも期待しないし、第一その確率は低い。輪廻転生自体が永遠の苦悩であり、解脱して成仏するまでは、魂は休まる暇がない。そして、成仏するとは、この世からは十万億土も離れた極楽浄土へ往くことである。

これらはすべて、平均的な日本人の死生観とはかなり異なる。われわれは、死者の魂はこの世のしがらみから解放されれば一応成仏したというが、その後も定期的にこの世へ戻ってくる(あるいはわれわれが招き寄せる)と考え、その時に備えて死体の一部を墓に納めて管理し、招かれた魂と死体が依りつけるようにと位牌を用意する。そもそも丁重な祖先祭祀の出発点として、盛大な葬儀を催す。

これだけでも仏教との違いは決定的だが、加地氏によればわれわれ日本人の時間・空間認識も人生観も、仏教のそれとは大きく異なっている。こうなった原因は、仏教が中国・朝鮮半島へ伝播したときに儒教思想を大幅に取り入れたのだが、それが日本へ到達したときにさらに日本的儒教の影響を受けたためであるという。

儒教とは何か

すぐれた宗教とはすぐれた死生観(宗教性)を土台にした道徳思想である、というのが加地氏の宗教理解で、儒教はこの基準をよく満たしているとされる。死生観が「すぐれている」とは、土地の気候風土などの自然条件や歴史的条件によく適合し、その土地・社会の人々の心性に合致していることであるが。

日本人の宗教感情は今も昔も、仏教の教義と儒教的死生観が合体し、それに神道的アニミズムが付加されたものである。しかし、儒教には明確な教義体系がなく、教団も宣伝組織もない。いわば「沈黙の宗教」である。だから、ふだんわれわれは儒教の存在を意識することはない。それどころか、儒教というのは「孝」を押しつける古い考え方で、すでに廃れてしまったものだと考えているし、先祖供養という行事さえ、もともと仏教のものだと思いこんでいる。しかし、儒教は廃れていない。「家の宗教」として、各家庭に存在し続けている。

儒教思想の核心は「孝」だとよくいわれるが、その意味はよく誤解されるような親孝行という狭い道徳的規範にとどまるものではなく、「生命の連続性の自覚」である。つまり、先祖あっての自分であり、子孫あっての自分(子孫が栄えてこそ自分の思い出が末長く語りつがれ、またときどき自分の魂をこの世に呼び戻してもらえる)という認識である。そこで孝の実践的要請は、祖先祭祀(先祖供養)、父母の敬愛、子孫の繁栄の3つである。ここに、家族とくに親子関係を基軸とする、儒教独特の家族主義的道徳体系が成立する。

このような分析に基づいて加地氏は、「沈黙の宗教」「共生の幸福論」としての儒教思想が、いかに現代日本人の心の世界を規定しているかを論証していく。日本人論、日本文化論に一石を投じる、優れた論考である。さらに著者は、臓器移植、靖国神社、女性の地位と権利、官僚と政治家といった現代社会のさまざまな問題に関して、儒教的立場からの発言・提言を試みているが、その主張は妥協を許さぬ明快な論理に貫かれている。

しかし筆者は、2つの点で本書に大きな疑問をもつ。一つは著者の宗教理解であり、もう一つは社会の諸問題を儒教的観点から解決するべきだという主張である。

宗教における「超越」への依存

まず、「宗教とは死生観に基づく道徳思想である」という、加地氏の宗教観について。

一見したところこの宗教理解は、ごく自然なもののように思われる。しかし、たとえばキリスト教やイスラム教などに目を向けると、重要なものが抜けていることにすぐ気が付く。それは「超越」ということである。唯一絶対の人格神を否定する仏教も超越的存在を否定しているわけではなく、「成仏」とはいわば超越的存在者になることであろう。これらの世界宗教のみならず、さまざまな部族・民族の宗教においても「超越」的な存在や力への依存は広くみられる現象だ。

また、とくにキリスト教を単純に「道徳思想」だというのは間違いで、「道徳主義」を根底的に覆したところにキリスト教の最大の意義がある。さらに、「死生観」といえばすなわち「あの世」をどう捉えるかだが、来世信仰を持たない宗教も少数ながら存在する。そうでない宗教の場合も、「救いを求め」て接近する人間にとっての最大の関心事が来世とは無関係であることも多い(朝日新聞社の1995年9月の世論調査では、特定の信仰を持つ人のうち「死後も魂は残る」と思う人は、なんと58%しかいない)。

したがって、加地氏の宗教観はきわめて一面的であるといえる。そこで、あらためて宗教とは何かという問題を、われわれが宗教に何を求めるかという観点から考えてみよう。

宗教の発生には、おそらく集団の成員にとって共通の課題が背景として存在したと考えられる。原始的社会では、成員の生存と日々の生活は自然環境に厳しく規定され、それはたいてい人間の力ではどうにもならないものである。人々は生き延びるために、人間の力を超え、あるいは自然の力をも超えた、神秘的な力に依存しようとする。そのような信仰を確立した集団は、そうでない集団に対して、集団の生き残りという点で有利だっただろう。信仰により得た「力」は所詮まやかしの力であり、人間は本当に自然を乗り越えることはできない(例えば病気や死を克服することはできない)が、それでも自然を乗り越えたと錯覚することはできる。

やがて集団は大きくなり、部族社会が形成され、さらに文明が誕生して国家が成立する。このように大きな社会には必ず統治権力が目に見える形で存在する。権力は、社会が大きくなったことにより、また権力が存在することにより発生する様々な社会的対立・矛盾の解決を迫られるが、解決が困難である場合や、解決が権力にとって不都合である場合には、人々の目を対立・矛盾から逸らせ、そもそも対立・矛盾などないかのように見せようとするだろう。そこで宗教が利用される。

人間の社会的活動により引き起こされた社会の対立・矛盾は、人間的な努力や社会的連帯の力によって解決を図るべきであるのに、社会とは切り離された個人の心の領域に問題を置き換えることにより、それをものの見事に解決(されたことに)してしまうのが宗教の役目だ。これこそ、宗教の本質に由来する、宗教の最も暗い部分である。

加地氏のように、宗教を単に「死生観に基づく道徳思想」と規定することは、このような「民衆の阿片」としての宗教の本質を覆い隠すことになる。と同時に、図らずも加地氏の主張は、儒教は宗教ではないという、広く一般に受け入れられている考えが正しいことを示している。

再び「政教一致」か

次に、儒教的立場からの発言について。

人は誰でも自己の属する社会の問題に対して発言する権利がある。その時に己れの思想的立場を明確にしておくことはむしろ誠実な態度であるし、無用な誤解や無駄な議論を省くことにもなるだろう。したがって、儒教的立場から現代の諸問題に発言すること自体は、悪いことではない。儒教に限らず、仏教やキリスト教の立場からの発言も、また非宗教的な立場からの発言もすべて同様であり、同等である。

しかし、本書における著者の立場は、このような一般論には解消できない問題を含んでいる。加地氏は、儒教は数千年の昔から東アジアの人々の心の底に脈々と生き続けてきたという。そこまではよい。だが、だから現在も、そしてこれからも、日本社会はあらゆる問題を儒教の教えに基づいて考え、解決していくべきである、そうすれば必ずうまくいくはずだ、との主張には首をかしげざるをえない。しかもそれが、法律や国家の政策という形で提案されるのである。

筆者はあいにく儒教的死生観を持ち合わせていない。それがどんなに東アジアの自然条件と歴史環境に適合しているといわれても、霊魂不滅や先祖の霊との再会を信じることはできない。もちろん、必要に迫られて信じている振りをすることもあるが、その場限りのことと割り切っている。これができるのは、現代の日本の社会が、霊魂の存在を信じない人間の存在を許容する度量をもっているからだ。もしそうでなかったら、筆者はこの国から逃げださざるをえない。ところが加地氏は、日本人は皆霊魂不滅を信じて、先祖(血のつながり)を大切にしろという。

筆者個人のことはどうでもよいが、現代社会は複雑で多様である。儒教的死生観(加地氏に言わせればわれわれはそれを仏教的死生観と勘違いしているのだが)を丸ごと素直に受け入れている日本人は、それほど多くないだろう。仮に8割の日本人が信じているとしても、残りの2割は心底信じてはいないのだ。この2割の日本人が東アジアの環境に適合しているかどうかはともかく、生と死に関するような、現代社会でしばしば鋭く意見が対立する重要な問題の解決を、一部の国民が信じていない「死生観」に委ねるわけにはいかない。

いや、仮にすべての国民が同じ死生観を持っているとしても(在日外国人のことを考えると、このような前提は無意味であるが)、それを国家の政策の基礎とすることは、近代社会が苦労の末に曲がりなりにも確立した「政教分離」の原則に反する。もちろん、政教分離ができていればよいというものではなく、それはそれで宗教の暗い側面を隠蔽する一つの手段にすぎないが、それでも「政教一致」よりはまだましである。

まあ、加地氏がいくら頑張って主張しても、説得される読者は多くはないだろうから、それほど心配することもないだろうが。

(2003年8月15日)