Title: the fox and the wolf
Author: kujoshi
Rating: NC-17
Disclaimer: This is a work of fiction. I own nothing but the story line.



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その電話が鳴ったのは、立秋に入って数日経った昼下がりだった。
暦の上では秋でもまだまだ夏の日差しは強く、昼食の後には気だるさが襲ってくる、そんな陽気である。
「おーい、電話だよ…って、いないんだったか…」
事務所の机の前に座ってはいたが、頬杖をついて半分居眠りをしていた鳴海は助手の不在を思い出し、仕方なく自分で受話器を取った。
「はい、こちら鳴海探偵社…」
「狐、いる?」
鳴海の言葉にかぶさるように、せっかちな声が聞こえた。
いまだ声変わりをしていない、男の子の声だ。

(ん…麻布のお坊ちゃまか)
数ヶ月前に僅かの時間会っただけだが、一度声を交わした相手であれば鳴海は瞬時にその姿を脳裏によみがえらせることが出来た。過去に培った技術の一つである。
(悪魔憑きの笛を持ってた子だな)
表向きは探偵社の助手であり、裏では帝都を護るサマナーである少年が解決した任務の一つに関わった子供だ。
鳴海にはわからない理由で少年のことは疎んでいるようなのだが、たまたま同行していた、少年の影武者を務める化け狐の方は気に入ったらしい。
少年と区別するために「カゲ」とも呼ばれる狐の方はそもそも、図々しいくらいに人懐こいタチなので、事件解決後もちょこちょこ子供の住むお屋敷に勝手に遊びに行っているようだった。
帰りには必ず珍しい菓子などを土産にもらってくるので、それと知れる。
だがお坊ちゃまの方からこちらに来たことはないし、電話も初めてのことだった。

「ええと、うちの…助手の助手に、ご用でしょうか?」
「そうだよ。いるなら早く出して」
この横柄な態度は、やはり推測どおりの相手のようだ。
鳴海が会った時は育ちのいい美少年という印象しかなかったのだが、狐の話を聞くと実態はかなりわがままなお子様なようである。
「いや、昨日から助手ともども里の方に帰ってるんで…お盆ですから」
「ああ…。洋服着たりしてハイカラぶるなら帝都の暦に合わせればいいのに」
不満そうな声が返ってくる。
しかし旧暦でのお盆の方が元々の季節にも合っているのだから、旧弊な「里」で風習を変えるはずもあるまい。それも新参の都に合わせてなど…

「伝言があるのでしたら、伝えますが」
鳴海は一応メモ帳とペンを引き寄せながら言ってみた。
(どうせ、退屈だから遊びに来いとかいう用事なのだろうが)
別にいい、というような返事を期待していたのだが、子供はしばらく考えているのか、なかなか答えなかった。
「あの…?」
少し焦れて鳴海がもう一度聞き返すと、子供は今までよりも少し低めの声で、つぶやくように言った。
「…今朝、変な夢を見たんだ。狼が狐を追いかけて、食べちゃうんだ。なんだか嫌な気分だったから…気をつけた方がいいかも…」
「え?なに?狼?」
鳴海が聞き返した時にはもう電話は切られていた。

***

「狼…と言われてすぐに思いつくのは三峰ですが…」
ヤタガラスの使者は戸惑い顔で言った。
もっともその本当の表情は、鼻の頭までをすっぽりと覆っている頭巾のせいでわからない。そんな風に感じられる、というだけである。
あの後、子供の言葉が気になって家に電話をしてみたのだが、出たのは女中で、「皆様夏の別荘にお出かけです」というばかり。その別荘の電話や、所在地すらも教えてくれないのだった。
(これだからお偉いさんは嫌だよ)
しかし、別荘からわざわざ電話を寄越したということは、子供の言うことがただのイタズラではないということだろう。
あの子供には若干「魔」を見たりする力があるようだったのだから…
ヤタガラスの方から少年に警告を入れてもらった方がいいかもしれないと考え、鳴海は狛犬代わりのお狐様が迎えてくれる志乃田の神社に来てみたのだった。

「その三峰さんてのが狼憑きで、うちの書生を襲うのかい?」
鳴海の軽口に使者は眉をひそめ(たように鳴海には感じられた)、厳しい声音で答えた。
「無知な輩の言い草と見逃してくれるとよいのですが…三峰といえば、三峰神社。誇り高い修験者の祀るお社です。狐の眷属があまり好かれていないのは確かですが、このところ特に失礼をしたという話は聞いていませんし…」
「へえ、神社にもいろいろ派閥があるのか」
あまり信仰の深くない鳴海は妙なところに感心している。
「とにかく、里の方へは注意をうながしておきましょう。あなたも失礼な言動をしたりしないように願いますよ」
「へいへい、わかってます」
大仰に帽子を取って一礼すると鳴海は参道を門へと向かった。
探偵社の近所にあるのは多聞天だし、自分がその狼さんに出会ってヘマをやらかしたりする危険はあるまい。
里にいる少年はもちろん心得ているだろうし、化け狐だって同じ里の出なのだからわかっているだろう。
たぶん…。
鳴海はぶるぶると頭を振り、市電の停留所に急いだ。
さっさと筑土町に帰って多原屋のハヤシライスでも食って厄払いとしよう…

***

かすかな板の軋みが聞こえた。
誰かが自分のいる広間へと板廊下を歩いてくる。
洋装の靴の音だ。
(男一人。若く健康そう。所長より背は低いが体格はいい。敵意は感じられない…)
目下の作業を続けながら少年はそこまでを読み、後は本人が入り口に姿を現すのを待った。
「やあ、失礼。いやあ、下界の暑さを忘れるね、ここは」
気軽そうな声をかけながら、見知らぬ青年が入ってきた。
鳴海と同じような夏背広の上下に、革の靴。片手に帽子。鳴海のものよりは少しゆるやかに癖のついた茶色っぽい髪は、肩に触れるあたりまで伸びている。
目も少々色素が薄そうなのは、欧米あたりの血が入っているのかもしれない。
想像したとおり鳴海より背は低く、しかし肉の重みは多そうなことが体躯からうかがわれる。年は鳴海より二つ三つは下だろう。
少年は少し口元をゆるめた。
特に挨拶のつもりはなく、その足音から推測した姿が正しかったことに対する満足だったのだが、青年は自分への好意と受け取ったらしい。
「君がここの当代だね。それにしては、朝から掃除なんかするんだ?」
親しそうに話しかけてくる。
「修行のために使わせていただく場ですから、当然の務めです」
少年は手にしていた雑巾をバケツの水に浸して強く絞り、再び板張りの床を拭き始めた。

「おっと、折角綺麗にした床を踏んじゃ悪いな。じゃあまた後で」
青年は入り口へと取って返したが、思い出したようにふり向いた。
「そうそう、僕は山上っていうんだよ」
山上はまっすぐに少年の目を見つめ、にっこりと微笑んだ。
その瞬間、少年は自分の体の動きが止まるのを感じた。
(えっ…?)
「よろしくね、狐くん」
「……」
山上は微笑んだまま踵を返して去ったが、少年はしばらく動けなかった。
肉体の金縛りのようなものはすぐに解けたが、心の方がいわゆる「すくんだ」状態だったのである。
帝都を襲った数々の異形にすら感じなかったそんな感覚は、ずいぶんと久しぶりのことだった。
それまで感じられなかった広く天井の高い修験場の冷気がいきなり素肌に突き刺さってくるような気がした。

***

『おーい、こっちこっち』
『遅いぞー!体、なまってんな』
『人間とばっかり仲良くしてるからだぜー』
「うるさ…じゃなくてー」『うるさい!』
『はは、言葉も使えなくなってんのー、あ、いて!』
『油断するからだよ、あはは』

少年とともに里に帰った狐は、久々に本来の姿で仲間の狐たちと太陽の下、山野を駆け回っていた。
全員が人に化けるような力を持っているわけではないが、人の心をおぼろに読んだり、伝えたりするくらいの通力はあり、普通の野狐よりは体躯も大きめで、かなり長生きをする種族である。だが人間とやたらに親しく交わる習慣はなく、このカゲ狐のようなのは、まあ「変わり者」だった。
だからといって排斥されるわけでもなく、帰れば仲間としてつき合ってくれる。
そういう同族に混じって小さな虫や鳥を追ったり、じゃれ合うように転げまわったりする楽しさは、少年と一緒にいる時間とはまた違う種類のものだ。

(コーホといられるのはそりゃあ嬉しいけど、やっぱり人間が相手だとちょっと緊張したりもするんだよね)
少年や鳴海が聞いたら「あれで?」と聞き返されそうだが、狐としてはあれでも一応気を使っているつもりなのである。
(所長さんは呑気だからいいけど、コーホは、ちょっとしくじるとすぐ怒るからね)
あまりしゃべらず、表情もいつも同じに見える少年の僅かな気分の変化も、幼い時からつきまとっている狐には正確に読めるのだった。
それでも少年はつきあいも長いし、まだ互いに子供ということもあって多少のことは見逃してくれるが、里の大人たちは狐の正体を知っている分、礼儀作法などには厳しい。
だからこうして山に来て、遠慮のない仲間たちと心置きなく遊ぶのは何よりの安らぎだった。

(でも、だいぶ日が昇ってきたな。ちゃんとお手伝いしてるとこ見せないと、コーホの恥になっちゃう)
自分がさぼって怒られるのは構わないとしても、少年に「自分の責任です。申し訳ありません」と謝らせてしまうことになるのは嫌だった。少年はそういうことでは狐を怒ったりしないが、それでかえって狐は身の置き所がないような気持ちになってしまうのだ。
『ボク、そろそろ…』
言いかけた時、ぴたりと仲間たちの動きが止まった。もちろん当の狐もだ。
耳が伏せられ、素早く同じ方向を向く。
全員の目が注視しているのは20メートル程先の太い木である。
その陰に何者かが隠れている。
(風下から近づかれたんだ…だから今まで臭いに気づかなかった)
今はしっかりと捕えられるその臭いは、大型の獣のものだった。
それも、犬族だ。
(狼…?この里に、そんなものが?)
なんであろうと、その獣から伝わってくるのは凄まじい殺気だった。

存在を知られたことに気づいたのか、それは木の陰から悠々と姿を見せた。
狐たちの体毛がわっと逆立つ。
(狼…いやこれは、魔か?)
自分達よりも数倍は大きな、うっかりすると熊とも見まがいそうな体躯。
自然では見かけないような青白い皮毛は首の辺りが特に長く伸びている。
爛々と光る鋭い目に両の唇の間から覗く大きな牙。
荒い鼻息は疲れではなく、これから始める狩への興奮のようだ。
(ボクたちを捕まえて…食べるつもりだ)
狐たちは少しずつ後ずさりをする。
自分たちが優秀なファイターであるなどという自惚れはない。
強い敵に会えば、隙を見つけてひたすら逃げる。
狐は後退する仲間たちに、なるべく自分の後ろに移動するようにと尻尾で合図をした。
(あいつの死角に入るようにして、隙を見て一斉に逃げるんだ)
もちろん自分も戦うつもりなどはない。

(一か八か…はっ!)
仲間たちが全員、一応は安全と思われる距離まで下がったのを確認して、狐は少年の姿に化けた。
野生の動物にしろ魔にしろ、人間の姿を見れば一瞬ひるむだろうという計算である。
期待通り、怪物は息を止め、目を剥いた。
それを合図に仲間たちはさっと散開する。
(よし…)
狐はまっすぐ相手の目を見つめたまま、なるべく少年に似せた声を出す。
よく通る、堂々と落ち着いた声。
「おまえは何者だ。平和なこの里を侵すものは、許されまいぞ」
怪物の目がまた光ったように思えた。
大きな口が更に裂け上がり、笑いを浮かべたようにも見える。
いや、笑っているのだろう。欲望が満たされる期待への邪悪な笑みを。

「ほお…面白い」
怪物は人の言葉を発した。
(こいつ…。やっぱり、「魔」か)
「魔」と意を通ずることが出来る者以外にはただの唸り声としか聞こえない言葉だが、確かにそれは獣の言葉とは違った。
狐は相手の身体の毛の一筋の動きも見逃さないように注視しつつ、少しずつ後ろに下がった。
武器になりそうな枝でも手に触れぬかと、目は前方に向けたまま腕で探ってみる。
だが適当な枝があったとしても、狐の力ではそれを折っている間に怪物に喉元に噛み付かれているだろう。
(何か…目つぶしになるようなものでもあれば…)
狐の焦燥を知ってか知らずか、怪物は面白そうに語りかける。
「狐か、人か。どちらにしろその霊力、さぞや滋養たっぷりで美味であろうな…」

怪物はゆっくりと前足を折り曲げた。飛びかかる体勢だ。
(来る…)
必要なのは攻撃を見極め、避け、逃げること。
それのくり返し。そこにしか活路はない。
狐は極限まで意識を集中した。
と、頭上で空気が動くのを感じた。
目の前にすうっと落ちてくる「何か」が胸元を過ぎようとする瞬間、狐は最小限の動きでそれをつかみ、返し手で怪物にそれを投げつけた。
「うわっ?」
相手がひるむのと同時に、狐は後ろへ飛んで白狐の姿に戻り、そのまま一目散に駆けた。

(少しは時間が稼げたか?)
自分の投げつけたものが何だったのか、確認するほどの時間はなかったが匂いと手に触れた感触からは、山桃の房か何かのようなものだと思えた。
(汁がうまく目に入っていれば、石つぶてなんかよりは有効だ)
なぜこんな時にそんなものが都合よく?という疑問が心の隅に湧いたが、今はとにかく逃げるのが先だ。
「おまえ!絶対許さん!八つ裂きにしてやる!」
怒号と共に凄まじい殺気が後ろから突き刺さってくる。
その興奮が狐には有利に働いた。
怪物は何度も跳躍し襲いかかろうとしたが、あせりのせいか目測を誤ったり、狐にたやすく避ける隙を与える。
(この先の熊笹の茂みに入れば…)
怪物の目には盲滅法逃げ回っているように見えただろうが、狐には目論見があった。

「うわっ!なんだこれは!」
怪物の悲鳴のような叫びが聞こえた。
(やった!)
熊笹だけが茂っていると見えて、鋭い棘を生やした茨木が潜んでいる一角がある。
里に住む者は知っているが、はた目にはわからない。
狐は逃げつつその場所へと誘導し、飛び込むと見せかけ、寸前に脇に避けたのである。
血の臭いが漂った。
あの体躯と厚そうな皮毛で、たいした怪我は負わせていないだろうが、里まで逃げる隙はなんとか与えてくれるだろう。
だが、その先の崖が少し前の豪雨で流されていたことは、帰ったばかりの狐は知らないことだった。
(えっ?!)
まだ下は地面だと思っていた茂みに踏み込んだ瞬間バランスを崩し、狐の身体は渓流に向かって転がり落ちた。
落下の衝撃を防ぐためなんとか身体を丸めながら垣間見た青空を、一羽の黒い鳥が横切っていったような気がした。






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