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亜細亜新報
ASIA SHINPOU

創刊準備号イラスト


目次
 Contents

  1. はじめに

  2. 亜細亜山荘について

  3. 電脳!亜細亜山荘

  4. 特派員について

  5. バックナンバーについて

創刊準備号は期間限定公開です。ご注意ください。
なお、今後どのような形式にするかは今のところ未定です。
ご意見・ご感想お待ちしています。


はじめに

記念すべき亜細亜新報の復刊である。
復刊というのは、かつて90年代はじめに亜細亜新報という名のミニコミ誌が存在していたためである。
一応名前は残しているが、コンセプトは完全に別物だと言っていい。
ただ基本理念の一部は今も健在である。
それで、名前はそのままとなった。

亜細亜山荘について

亜細亜山荘1(1986〜1993)
かつて京都は東山の地に実在した家屋の名称。当時東アジアをフィールドとする学生達が多く住んでいたためにこう呼ばれた。築90年を超える古い町屋で、2階建て、庭付きの一軒家。ただし風呂はない。四畳半の部屋が三つ、九畳の部屋が一つ、三畳の空間が一つに台所があったから、けっこう広く感じられた。ちなみに家賃一月あたり二万円で敷金礼金なし。三人と居候一人で住んでいたときは家賃は一人あたり五千円だった。それでもみんな貧乏だったのはどういうことだったのだろう。みんな信じられないくらいお金を持っていなかった。
「亜細亜山荘」2
実は亜細亜山荘にはもう一つの側面がある。下宿の名前であると同時に草の根国際交流活動を行う集団の名称でもあった。この二つの位相のずれが亜細亜山荘解散の原因でもある。ともあれ、この「亜細亜山荘」の活動は地球の反対側にまで及び、その残党の一部は今もブラジルに住む。ちなみに「亜細亜新報」とは「亜細亜山荘」が発行していた月刊の会誌の名称であった。
亜細亜山荘住人
亜細亜山荘第3期(前期・後期)の住人たち。
  • 佐藤徹
  • 河竹康之
  • 松谷淳司
  • 渡辺亮一郎
  • 吉田多軌(まはんごちゃ)
  • 船阪美佐子(ふみの)
「亜細亜山荘」メンバー
国際交流集団「亜細亜山荘」のメンバーたち。しかしながら、新報編集委員とイベント会員と単なる僕の友人達の区別が曖昧で、判別することは困難だった。
  • 根川幸男(主幹)
  • 田中敏郎(副主幹)
  • 下出益也
  • 門田晶
  • 中川俊彦
  • 大西鉄弥
  • 松井千世(初代新報編集長)
  • 橋本京介
  • 西川光子
  • 美代賢治
  • 児玉充弘
  • 田口義博
  • 松本くん
  • その他、もう名前も思い出せない数多くの友人達

小説版「亜細亜山荘」(連載第1回)

0.

かつての亜細亜山荘について簡単に記しておこうと思ったが、思い入れが強すぎて簡単に描くのは難しいことに気づいた。つい書き込んでしまうのだ。仕方がないので、小説風に順を追って書くことにした。
けれども僕のことだからいつ終わるともしれない話になってしまいそうで、先に概要だけ上に述べておいた。ただどちらにせよ客観的に書く気もなければ、事実関係を明らかにする気もないことだけは言っておこうと思う。描かれるのは僕の記憶の中にある架空の亜細亜山荘である。
だから苦情は一切受け付けない。
「俺はもっといい男のはずだ」と主張されてもかまわないが、これはあくまで仮構の物語なのである。

1.

 京都の東山にあった古い町屋に亜細亜山荘という名前をつけて、学生達が住み始めたのは僕の住み始める何年も昔のことだから、80年代の後半くらいからだろうか。
 バブルの時代によくもまぁこんな家を見つけたものだというくらいのぼろ屋であった。曲がりなりにも一軒家であったので、古いことにさえ眼をつぶれば案外気楽さゆえの快適さもあったのだろう。ただ、それが尋常じゃないほど荒れていたのも確かである。
 家自体がもはやそれ単独では建っていられないほどに傾いていて、路地の上に張り出した二階部分などは外からもはっきりとわかるぐらい下方にしなり、今にも落ちそうに垂れ下がっていた。
 引き戸のたぐいは当然そのままでは枠にはまるわけもなく、くさび形のベニヤ板をかませて、かろうじて長方形を維持したなかにはめ込まれていた。
 住民が根本的な解決をあきらめてから、相当の年月がたっているらしく、場当たり的な応急処置もその限度を超えて、いくつかある部屋の内、一階と二階のそれぞれの奥の部屋だけがまだかろうじて人の住める空間を提供しているのみである。しかしながらそれも時間の問題で、じき廃屋になることが避けられないものであることは誰の目にも明らかだった。

 三島由紀夫を崇拝する演劇青年であった寺崎君の紹介で、僕がその家の当時ただひとりの住人であった根川幸男さんに会ったのは大学二回生の終わりだったから、1990年の暮れだったように思う。そのしばらく前に僕が懇意にしていた人類学の先生を紹介したお礼という奇妙な論理で紹介してもらったのだ。面白い人物だから是非会わせたかったといっていたところをみると、彼はどうも面白い人物リストとでもいうべきものを胸の内に持っていて、それを充実させてくれたことに対するお礼のつもりであったらしい。
 それが根川さんとの出会いで、それがためで以後数年間、僕はこの人と共に疾風怒濤の時代を送ることになったのだ。

 最初の印象は今でもよく覚えている。後から考えるとちょっとイメージがずれていておかしいのだが、当時は情熱を内に秘めた学究の徒というのがあてはまると思っていたものだ。
 人が住んでいるとは思えない廃屋の奥まった一室で彼は机に向かっていて、その周囲には読みかけの本が堆く積み上げられていた。本棚の大半は柳田国男と折口信夫の全集で占められていて、貧乏書生風の部屋にはちょっと似つかわしくないほどの威容を誇っていた。
 高校の非常勤講師だと名乗ったあと、初対面の学生に向かって自分の研究テーマについて滔々と論じた姿がおそらく最初の印象を形成したのだろうと思う。いずれにせよ、その下宿は瞬く間に僕の学校からの帰り道に立ち寄る場所となり、その次の年には彼は路地の奥の、多少手狭ではあるけれども造りとしては幾分ましな長屋に引っ越して、その後がまに僕が座ることになってしまった。

つづく


電脳!亜細亜山荘

基本的には電脳上の亜細亜山荘はかつての「亜細亜山荘」とは別物である。しがらみもごたごたも引きずるつもりはない。
おそらくは関わった人間の数だけ存在するそれぞれの思い入れも考慮しない。
引き継ぐのは一部の人間関係だけである。
そしてかつて目指した理念だけ。
情報や技術の共有と、それを可能にする出会いの場の構築が、目指したものであった。
けっきょく、実現させることができなかった場であるからこそ、形をかえてやり直したかったのだと思う。
その意味ではインターネットとは、うってつけの空間である。
自分の生活を犠牲にする必要もなければ、打算や嫉妬もない。有用な技術や情報がそこにあって、それに対する興味と関心があれば、この場は成立し、続いていくだろう。
自分自身に提供できるものがなくなれば終わりだけれども、僕一人だけが提供できるものなんてたかがしれている。みんなでいろんなものを持ち寄れる場をつくろうと思う。

そういうわけで皆さん、是非遊びに来てください。

特派員について

  • 亜細亜山荘の提供するのは場所だけです。器しかないので、中身はみんなで持ち寄ってください。
  • 特派員の方々は今のところ筆者の知り合いが中心です。今後は徐々に増やしていきたいと考えています。
  • 特派員には誰でもなることができます。現時点では一時的な旅行者であってもかまいません。リアルタイムの情報を求めています。

バックナンバーについて

バックナンバーの記事については徐々に再録していきます。
今では有名作家になってしまった亜細亜山荘OB、デビッド・ゾペティ(すばる文学賞受賞作家、代表作『いちげんさん』)による署名記事なども、許可のとれ次第、順次掲載する予定。
おたのしみに。


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