近況報告

2001年8月

主な出来事

コバン暴動 |キリグア遺跡とリビングストン(イザバル方面旅行) | 隊員総会 |


2001年08月01日 水曜日

 今日はコバンの守護聖人のお祭りで、事務所は休み。グァテマラにはたいていどの町にも守護聖人がいて、年に一回のそのお祭りには多くの露天が立ち並び、時には移動遊園地もやってくる。

 付加価値税の値上げ反対の全国ストライキで、ほとんどの商店は休み。交通機関も麻痺状態。JICA事務所からの連絡で、首都および一部の都市でデモがあることが予測され、隊員は自宅待機だそう。
 どうせ休みだから関係はないのだけれど。
 仕事がたまっているのになぁ。 でもとりあえず一日仕事のことは忘れて、ゆっくりすることにした。先月末の教員研修プロジェクトで疲れていたしね。

 久しぶりに部屋の掃除をする。天気はいいし、健全な休日という感じ。

2001年08月02日 木曜日

コバン暴動顛末記その1

 朝、いつもどおりに事務所に出かけたら、しばらくして同僚のマリセラが窓を閉め始めた。ちなみに1909年に建てられたこの建物は、窓ガラスの内側に木製の扉がついている。彼女が閉めようとしているのはこの扉である。
 「なにしてんの」
と聞くと、もうすぐ大規模なデモが始まるので、危ないから閉じるのだという。商業の中心である隣町のサン・ペドロ・カルチャからデモの参加者たちがこの建物を目指してやってくるのだ。あわてて家に帰る。
 昼ご飯時、家人の話ではデモ鎮圧のため警察が催涙弾を打ち、けが人が出ているらしい。とりあえず、自宅待機。
 午後に同じ職場の早川さんから電話があり、状況を教えてくれた。なんでも教育事務所の窓ガラスはすべて割られ、暴徒が進入したらしい。現在は軍が建物を守っているらしいが、中の状態が心配。
 
  つい先ほど、ソロラから電話があった。ラビン・アハウの会場で友達になったフランシスコから、コバンの状況を心配して電話をくれた。友達になったばかりなのに、なんだかすごく気にかけてくれていたようで、うれしく思う。グァテマラ人のこういうところはとてもいいなぁと思う。
 
 5時頃になって、職業訓練校で働くコータが連絡をくれた。一連の騒動は収まったが、軍の大半が引き上げたため、教育事務所の警備が手薄になり、中をうかがう人が増えてきているとのこと。身分証明書を首から提げて、様子を見に出かける。ひどい有様だった。正面入り口は燃やされたうえ、たたき壊され、すべての窓はたたき破られていた。中に進入した暴徒は入り口付近のパソコンや電話機などを壊し、ちょっとしたものを持ち去ったようだった。幸い僕の所属する教育開発局は、若干あらされた程度ですんでいたが、かけつけた同僚は電子計算機を持ち去られたと怒っていた。

 そうこうしているうちに雨がぽつぽつと降り出したかと思うと、いきなり土砂降りとなり、あつまった野次馬たちは散り散りになった。道路に雨水があふれ、焼かれた痕跡を黒い灰とともに押し流していった。

破壊された公衆電話機

燃やされ、壊された正面入り口。警戒しているのは軍(迷彩服)と国家市民警察

叩き破られた窓。ちなみに左の窓の陰が僕の机。
 夜になり、テレビ報道によって一連の経過がわかった。
 当初カルチャから行進してきた農民を中心とするデモ隊は、コバンに到着の後、中央公園に集まり、県庁に向けて付加価値税がいかに人々の生活を圧迫するものであるかを訴え、増税反対の気勢を上げていた。しばらくは演説やタイヤを燃やすなどの示威行動を行っていたが、そのうち次第に行動がエスカレートしていった。一部のグループは市街に散らばって、バリケードを築き、商店や露天商を襲いだした。また県庁前に集まったグループは正面玄関にガソリンを撒いて火をつけると同時に、県庁と警備の警官に向かって投石を開始した。さらに一部は強引に県庁内に侵入し、暴れ始めた。
 このころに国家市民警察の応援が到着し、催涙弾を撒き始めた。これと前後し、軍が出動。暴徒と化した群衆の鎮圧に向かった。
 僕が教育事務所の様子を見に行ったのは一連の騒動が鎮圧されてから後のことである。

 しかしながら、デモはこれで終了したわけではない。明日はさらに大規模なデモが予定されている。教育事務所は現在、国家市民警察が警備してはいるが、さらに大規模なデモが行われた場合、扉も窓も破られたままの今の状態は、あまりに無防備である。放置されたままになっているコンピュータや印刷機などを守る手だてを考えなければならない。明日は早く起きて持ち出せるものは持ち出して隠した方がよいかもしれない。

2001年08月03日 金曜日

コバン暴動顛末記その2

 結局起きたのが遅くて、いつもどおり8時に事務所に行くと、みんな事務所の外に集まっていた。中には入れないのだという。
 デモ隊は朝5時に出発してこちらに向かっているとのことだが、いっこうに姿を現す気配がない。どこから来るのか聞くと、チセックだという。えーと、チセックからここまでゆうに100km以上あるんだけれど・・・・。ほんとに来るつもりなのだろうか。いまいちグァテマラ人の考えることはよくわからない。

 しばらく事務所の周りをうろうろしていたが、結構人々が集まってくる。昨日のTVでデモ隊の中に姿を見かけた人もけっこういる。昨日の高揚感がまだ収まっていないのだろうか。なにかを期待しているようにも見える。県庁前には国家市民警察の武装警官が整列し、妙な緊張感が漂っている。守護聖人の行列(プロセシオン)が県庁前の道路を静かに通り過ぎていくが、いつもと違って誰も付き従おうとしない。ただ、そんな空気とは別に人々は日々の生活に戻りつつある。バスなどの公共交通機関もいつもどおり走っているし、市場に買い物に来る人も徐々に増えてきているようだ。あたりを見て回っても、昨日の痕跡はほとんど見られない。ただ、県庁の破れた窓や扉と周囲を徘徊する武装警官が、昨日の暴動のなごりを残しているだけである。
 一度家に帰り、昼食後にもう一度くると何人かの同僚が壊れた窓の内側から板を打ち付けているところだった。その作業が終わると今日一日の仕事は終わり。僕も必要な書類だけを持ち出した。
 そのころには人々の生活はもういつもの日常に戻っているようだった。公園ではいかがわしい薬売りが声を張り上げて口上を述べているし、露天商も道ばたに商品を広げている。靴屋に行くとバーゲンセールで人がごった返していた。ほしかった編み上げ靴をQ120($16弱)で買って、家路につくと家のおばあちゃん、エルダが孫のホスエをつれて帰る途中だった。ホスエはあいかわらずわがままだし、エルダはいつもどおり優しげに孫をたしなめている。コバンの祭りは来週も続くが、なんとはなしに、もう祭りは終わったのだなあと思った。


 この話には、ちょっとした後日談がある。
 コバンに向かっているというデモ隊の話だが、そんなものは実際には存在していなかったのだ。だれに聞いても話の内容が同じだったので、てっきり事実だと思っていたが、単なるうわさ話であった。一説によると5000人のデモ隊が向かっているとの話なので、けっこうおびえていたが、どうもデマだったらしい。

 それから人々の合意形成の早さにもちょっとおどろいた。何が悪かったのか、みんないろんな場所で話し合ったらしく、夜には結論がついていた。結局デモ隊の目的は政府の代表者である県知事と話しあうことであり、彼が県庁に隠れて出てこなかったので、県庁に対する攻撃となったのである。彼の行動は賢かったともいえるが、責任は彼にあるというのが、町の人々の言い分である。夜にはどこにいっても同じ意見を聞かされるはめになった。



 金曜日にデモが行われなかった理由は週明けに判明。デマだったわけではなく(チセックは眉唾物だったが)、デモ隊のリーダーがTVなどで中止を呼びかけたためとわかった。隣町のカルチャなどで一部デモが行われたようだが、とくに何事もなく解散したと聞いた。
 ともあれ、こうした状況ではいろんな情報が乱れ飛ぶので、信頼できる情報源の確保が重要なのはどこでも同じだと思った。外国人はこういったとき、どれだけ現地の人との良好な関係を築けているかが問われるのかもしれない。
経緯など詳細はこのページ

2001年08月04日 土曜日

鶏肉の照り焼き

 グァテマラで一般的に食べられる肉というのは、たいてい鶏肉である。どんな田舎町でも市場に行けば、もうすっかり茶色くなってしまった使い古しの油で揚げたフライドチキンが売られている。
 あるいは百歩譲って薄くて堅い牛肉である。どこの街角でも夕方になれば、炭火で焼いたこの匂いに出会うことになる。

 グァテマラに来てから、あまり肉をおいしいとは思わなくなってきていたが、チエゾーが照り焼きを思いついた。試しに作ってみると、これがおいしい。鶏そのものの味は日本よりもおいしいくらいなので、かなりいける味になっている。懐かしい味が口の中一杯に広がって、その味を消してしまうのが残念で、しばらくはお茶も飲めなかった。
 
 ちなみに醤油はどこの街でもふつうに売られている。なぜかラベルには戦前の漫画に出てきそうな中国人が描かれている。

2001年08月05日 日曜日

キリグア遺跡
 ホンジュラスのコパン遺跡とほぼ同時代のマヤ後古典期の遺跡。バナナ農園のひろがるなかにポツンとある。
 あまりの暑さに一時間と我慢できず、そのまま足をのばして海まで出かけることにした。
 結局、いきついた先がリビングストン。カリブ海沿岸の街である。黒人系の住民が多数をしめるこの町は、話されている言葉まで違う。スペイン語と英語の混交といわれるガリフナ語である。
 夕暮れ時、波止場でぼんやり海を眺めていると、自分がグァテマラにいることが信じられなくなる。

2001年08月06日 月曜日

リビングストン
 夕べのにぎわいが嘘のように静まりかえった海辺の街を後にして、日常へと戻る。

2001年08月07日 火曜日

勤務再開

 火曜日になってようやく、勤務開始。
 窓は板を打ち付けられているので、昼でも薄暗い。少ない政府予算で窓ガラスが修理されるのはいったいいつの日だろうか。
 

2001年08月08日 水曜日

 山ほどメールを書いた。
 

2001年08月09日 木曜日

停電
 窓をすべてベニヤ板でふさいでいる状態で停電はつらい。夕方にならないと復帰しないらしい。仕事にならないので予定を繰り上げて、首都へ行くことにした。

2001年08月10日 金曜日

中間報告会
 

2001年08月11日 土曜日

一周年記念飲み会
 アンティグアで同期の仲間と一周年を祝う。
  

2001年08月12日 日曜日

韓国温麺

 韓国温麺を食べた。正式にはなんと呼ぶのかは知らない。奈良の実家のそばにある焼き肉屋のメニューには韓国温麺と書かれていたのを思い出して、とりあえずそう呼ぶことにした。
 首都のZONA9に韓国焼き肉屋があって、隊員はちょっと贅沢したいときに、「花鳥」という名前の、その店に行く。その店の向かいに、こんど新しく韓国温麺を食べさせてくれる店が出来たのだ。
 重症のラーメン中毒患者の僕としては、ラーメンが食べたいあまりに日本に帰りたいと思い、何度も夢にみたくらいだが、この店に出会ったおかげで、あと一年くらい日本に帰れないことを考えてもなんとも思わなくなってしまった。
 僕にとって日本という存在は、たかだか一杯のラーメンと同じくらいのものかと少し悩む。

2001年08月13日 月曜日

隊員会について

なんか変だぞと思った。
思ったのは先週の金曜日、中間報告会の会った日の夜の話である。


ことの起こりは結構前にさかのぼる。


2001年08月14日 火曜日

教育省広報局

昨日の話である。

2001年08月15日 水曜日

モデムケーブル

2001年08月16日 木曜日

停電再び
事務所は停電になると暗くて仕事にならない。
早めに首都に行くことにした。

2001年08月17日 金曜日

隊員会ふたたび
第2回中間報告会 

2001年08月18日 土曜日

 

2001年08月19日 日曜日

のんびり。
 

2001年08月20日 月曜日

 

2001年08月21日 火曜日

 

2001年08月22日 水曜日

 

2001年08月23日 木曜日

 

2001年08月24日 金曜日

多忙な一日
目が回るような忙しさとはこのことだった。
朝一番で病院へ行き、定期健康診断。
教育省広報局へ。情報の交換と今後の協力について話しあう。
教育分科会
予定では隊員総会の打ち合わせに出席予定だが、結局出来なかった。
治安対策協議会
13年度1次隊歓迎会
 

2001年08月25日 土曜日

午前中はフェアトレード分科会。

隊員総会
結果はあまり芳しくないものであった。

2001年08月26日 日曜日

韓国海鮮
首都のZONA10にある教育省本省の大通りを挟んだ向かい側あたりに韓国人の経営する海鮮料理屋がある。A専門家の帰国が迫り、グァテマラで一緒に食事をする最後の機会になりそうだったので、ここに行くことになった。
ちなみに昼食は韓国麺。韓国づくしの一日である。

2001年08月27日 月曜日

 

2001年08月28日 火曜日


午前中は前任者宛の近況メール(長文)を書いているだけで終わってしまった。
午後はEDECRI(特殊教育学校)で隊員によって実施されているパネルシアターの研修会に参加。カウンターパートも連れて行く。
 

2001年08月29日 水曜日

 

2001年08月30日 木曜日

 

2001年08月31日 金曜日

教育事務所通信9月号印刷。 


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