7月28日(土) | ラビン・アハウ開催(コバン) |
2001年07月02日 月曜日
語学学校が僕にもたらしたもの 6月はいろいろあって、精神的にはどん底であった。直接的にはカウンターパートをはじめとする教育事務所の人たちに信頼感を持つことが難しいと感じたことによる。はたして誰のために自分は働いているのかという基本的な問いに答えることができなかった。自分の働きによって、向上しているものがあるのだろうか。受益者の顔が見えない。 体調を壊していたせいもある。水のような下痢便と卵の腐ったような味のげっぷ、くさいおならが数週間続いている。典型的なランブル鞭毛虫の症状である。 語学はなかなか上達しない。先月、近郊の隊員たちとはじめた単語の勉強会もなんだかほったらかしになってしまった。 ふと、誰かグァテマラ人との間に信頼できる関係を築いてきたかどうかを考えて、愕然となった。とりあえず、根本に横たわるのは語学の問題である。語学のレベルそのものよりも、スペイン語を話すことそのものを回避しようとする傾向が出てきている。 とりあえず、状況の改善のためになにかするべきだと考えた。グァテマラ人が誰も信用できなくなる前に、この国のすべてを嫌いになる前にである。 僕が選んだのは語学学校に通うことだった。赴任当初の語学訓練以来、短期では何度か受講してきたが、今回の目的は地元における人間関係の形成である。職場以外でいろいろ話せるグァテマラ人の知り合いがほしかった。表面的な人間関係を築くのはこの国では簡単である。そうではなく、まじめな話がしたかった。 一度、先輩隊員の紹介で個人教授を受けたことがあったが、先生をどうしても好きになれなかった。しばらくは我慢していたが、だめであった。遊び好きの女性で欧米志向が強すぎた。話し方や考え方も欧米流で、そのうえ授業時間もあまり確保できなかった。 一度この先生に誘われて、ヨーロッパ風のバーで飲んだことがある。このとき同席したオランダ人の太った若い援助関係者が、鼻持ちならない男だった。自分のキャリアアップのためにこの仕事を選んだということがみえみえであった。この種の功利的な人種はどうしても好きになれない。そんな人種と好んでつきあっている先生の交友範囲を考えると、この先生が語る援助のあり方などの考え方が嘘くさくしか思えなかった。 この日が新しい学校では初めてのスペイン語クラスである。目的が先生との良好な関係を築くことであったので、どんな先生か気になっていたが、まず合格。先生らしい先生でほっとした。 なんだかんだいって、僕は学校という場所が好きであるらしい。いわゆる勉強というものはあまり好きではないが、先生という存在も嫌いではない。自分が先生になって人にものを教えるのはもちろん大好きである。 かつて学校を避けていたのは、なぜかを考える。学校のある種の機能が僕は我慢ができなかったのだと思う。それは学ぶという行為を阻害するもののようにしか僕には思えなかった。それは一方的に評価され、選別されるということだったかもしれない。それは本来自分自身の手によってのみ行われるはずの行為である。イヴァン・イリッチの脱学校論に惹かれた理由も今ではよくわかる。 学習するという行為は本来、楽しくわくわくさせられるものである。その行為を共有することを通じて僕はこれまで周囲の人間関係を築き上げてきた。そのことを僕はこの国に来て忘れかけていたかもしれない。 |
2001年07月03日 火曜日
Aさんの話 先輩隊員であるAさんの任期が終わりに近づいている。彼女の職種は小学校教諭で、同じ教育事務所で主に理科分野の改善のために働いてきた。 仕事上の面で教科隊員がいるのといないのとでは、プログラムオフィサー系の隊員の仕事に大きな違いが出てくる。プログラムオフィサー隊員の仕事は調査や企画立案、プロジェクトの運営が主で、現場で実際に教員に指導するのは教科隊員になるからである。したがって、両者の連携がうまくとれれば、非常に効率よく業務を進めることができるのだ。 実際に彼女の仕事をそれほど手伝ってきたわけではないが、僕にとっては現場の話を彼女から数多く聞くことができたのは得難いものだった。 彼女の主な活動は、パイロット校で教員に対して研修を行い、そこで取り上げた実験方法をもとに、理科の実験ガイドをつくることである。彼女の実験はすべて身の回りのものでできるものだし、話が具体的でわかりやすく、いつも工夫を凝らしているので、明るくはきはきした彼女の性格もあいまって、研修授業はだいたいいつも好評である。 研修や授業は先月で終了しているので、ここしばらくAさんは家に籠もってガイドの原稿を執筆している。5日が彼女がコバンを去る日である。タイムリミットは近い。そんなわけで今日は彼女の仕事の手伝い。 近くの町に住むチエゾーも今日はコバンに出てきているので、彼女にも手伝ってもらい、算数・理科教材ガイドの印刷と製本。その間、Aさんは理科実験ガイドの原稿執筆。明日印刷と製本でぎりぎり間に合うか。 小学校の頃から夏休みの宿題は最終日になるまでやらなかったと彼女は笑うが僕だって似たようなものだ。結局出さずに終わったこともあったような気がする。 なんとか算数・理科教材ガイドの印刷はその日のうちに終わった。 この教材ガイドは、去年Aさんともうひとりの先輩隊員Hさんで企画、実施した図画工作展および算数・理科教材展で、集まった教員たちのアイデアをまとめ、ガイドとしたものである。本来これにAさんのアイデアを加え、一冊のガイドとしてまとめる予定だったのだが、凝り性のAさんは、それぞれのコンセプトが異なることもあって、結局2冊のガイドとした。締め切りが近づくと同時にさらに仕事が増えていくというのは、Aさんならではである。 「Aさん、教材ガイドの製本終わったけど、実験ガイドのほう、書き終わった?今何ページくらい?」 「えーと・・・。あ、だいたい60ページくらいかなあ」 「ああ、じゃあほとんど終わりだね。よかったよかった。」 「いや、それがね、書いているうちにどんどん枚数が増えていって、このままじゃ80ページくらいになりそうなんだよね」 「あうっ」 Aさん、たのむよ。締め切りが近づいてはしょる人は多いけれど、さらに増やそうって人は、あんまりいないよ。(笑) |
2001年07月04日 水曜日
Aさんの話ぱーと2 コバン隊員総出でA隊員の理科実験ガイドの印刷と製本。終わったのは深夜3時。以上。 くわしくは次の更新で。 |
2001年07月05日 木曜日
午後から教育事務所通信の印刷を開始。製本と配布用セットが終わったのは翌日の明け方だった。二晩連続して残業記録更新。 |
2001年07月06日 金曜日
参加できなかった教育分科会 仕事が終わったのが朝の7時で、そのまま一旦家に帰り、荷物を持って再び事務所へ戻る。カウンターパートに教育事務所通信の配布を頼んで、9時のバスで首都へ向かう。午前中にある教育分科会には間に合わないまでも、午後のプログラム・オフィサー分科会には出られると思ったのだ。今回は僕が発表者なので欠席するわけにはいかない。 隊員連絡所に着いたのは1時過ぎ。ぎりぎり間に合ったと思ったが、分科会は中止だという。午前中の段階で僕が居なかったため、間に合わないと判断したらしい。遅れたのは僕なので異議を申し立てるわけにはいかないが、そりゃないよ。 今回の教育分科会では、以前Aさんと考えたことを話したいと考えていた。帰国隊員の活動の成功した点、失敗した点などを事例として残し、経験を共有するためのプランである。そのために帰国隊員にアンケートをとったりしたかったが、いかんせん時間がなかった。 プランの内容は、以下を参照のこと。以前同系職種隊員に送ったメールから再録。 「教育行政というのは結局のところ、情報とノウハウの蓄積が非常に重要な部分を 占めていると思います。 研修ひとつにしても、パイロット校をえらんでやるのか、全県対象に行うのか、 それぞれにメリットや問題があると思います。 11−1の帰国で一気に5人もの隊員が抜けてしまいます。彼らの活動を事例として残していく必要があると思うのですが、単に文書で残すだけならあまり意味がないように思います。 それで、僕はいま教育分科会HPを作ろうとしています。 事例研究を中心としてページを構成し、ツリー状の掲示板で意見交換などをできるようにしようと考えています。HPをみれない隊員もいると思いますが、最近はメールで掲示板をチェックするソフトもありますし、メールさえ使えれば十分活用可能です。 また、基本的な情報を共有する意味でも役に立つと思います。基本的な指標データなどですね。 それから中央の情報を入手する上でも、たとえばアルファベタシオン(識字推進のための国家プロジェクト)の動きなどを掲載できたらいいと考えています。 できるだけTシニアとかも巻き込みたいけれど、算数プロジェクトで手一杯かな。新しく来られた専門家も話しやすい人なので、彼にも協力してもらえたらと考えています。 また、同時に、グァテマラ内だけでなく、中米各国に範囲を広げようとも考えています。そのことによって、わかっているだろうという暗黙の了解の元に情報が粗雑になることも防げるのではないかと思います。 また任国外研修をよりよいものにするためにもつかえると思います。 とりあえず、Aさんと協力して、基本的な試案を作っています。 意見などもらえたらありがたく思います。」 |
2001年07月07日 土曜日
この日の夕方に11年度1次隊の送別会が開かれる。 11年度2次隊が中心となって盛りだくさんのイベントが開かれた。楽しい送別会であった。 協力隊員有志によるチア・リーディングや、サルサの披露はレストランの従業員も目を丸くするようなレベルの高さだった。僕も驚いた。 同時に女装した司会の扮装も、違う意味で目を丸くするようなものだった。写真はあるけれど、公共の場に展示するのはちょっとはばかれるので、ここでは掲載を見送った。 |
2001年07月08日 日曜日
朝に病院に行く。 昼は図書室でギター講座応用編開催。僕が講師でみんなにギターを教える。初心者が対象ではないので、教えやすかった。 夜はY専門家宅でワインパーティ。食品加工隊員のコータが腕をふるってくれた。 |
2001年07月09日 月曜日
教育事務所通信添付アンケートについて 朝4時発の早朝バスでコバンに戻る。このバスだとなんとか始業時間に間に合うくらいにつく。 午後は教育事務所通信のアンケート整理。 毎月発行している教育事務所通信には毎号アンケートをつけて、各記事の評価や教員の意見などを書いてもらうようにしている。これは教員の意見を集約するというだけではなく、アンケートを教員と直接やりとりするすることによって、各学校にきちんと情報が伝達されているかを確認するためである。 ここグァテマラの農村は広い地域に散在し、一カ所に集まって集落を形成することはあまりない。そのため学校も数多く作る必要があり、とんでもない山奥にあったりもする。人口80万のアルタベラパス県だけで東京都と同じくらいの学校が存在するのだ。したがって行政連絡も行き届かないことが多い。 もっともこれは各学区を担当する教育行政官があまり働かないためもある。前述の理由により、各学校を巡回するのが大変なのはわかるが、アンケートの回収状況を見る限りでは、働く人と働かない人の差が激しすぎる。 アンケートを添付した理由には、彼らの働きを改善することも含まれている。彼らの業務の中には、毎月最低一度は学校を巡回することが含まれているのだ。アンケートを集めることによって、少しは各学校とのコミュニケーションが向上すればよいと考えていた。 ところがアンケートの回収率が悪すぎる。正式な文書で依頼しても同じ。そこで、すべての学校のリストを渡し、校長の受け取り署名を提出してもらうことにした。あいかわらず提出する数は少ないが、少しずつ、アンケートが集まり始めてもいる。 この国は文書社会で、文書にして署名してもらってから、ようやく重い腰を上げるのだ。あらためてそのことを思い知った。 |
2001年07月10日 火曜日
昨日に引き続き、アンケートに目を通す。 夜は他の隊員の仕事の手伝い。 グァテマラに来てからちょうど一年がたった。それだけ。 |
2001年07月11日 水曜日
急に思い立って明日出発予定の11年度1次隊の見送りに行くことにした。餞別を買えなかったから、せめて挨拶くらいしようと思ったのだ。 仕事帰りの格好のまま、バスに飛び乗り、4時間半。首都について、隊員連絡所についたらば、誰もいなかった。みんな飲みに行ってしまったらしい。 しばらく一人でぽつんと待っていると、そのうちぞろぞろとみんな帰ってきた。最後の夜をみんなで祝っていたらしい。 活動期間が一年間も重なっていた隊次が帰国するのはさびしいものだ。コバンの教育事務所も火が消えたよう。この教育事務所では僕が一番新しい隊次になり、後任も呼ばないので、僕が帰る頃には日本人は一人。それが普通だとはいえ、なんだかさみしいなぁ。 |
2001年07月12日 木曜日
朝早くにAさんたち11年度1次隊は日本に帰っていった。 空港まで見送った後、コバンに戻り、午後から出勤。 |
2001年07月13日 金曜日
チーズはどこにいった PROASE(欧州連合による二国間援助機関)による研修に参加した。 日本でもベストセラーになった『チーズはどこにいった』をテキストにつかった研修である。スペイン語にも翻訳されているとは知らなかった。 内容を簡単に説明する。 ある迷路の中に二人の小人が住んでいた。彼らはそれぞれのやりかたで迷路の中にあるチーズを見つけて暮らしていた。あるとき彼らは非常に良質で大量のチーズを見つける。しばらくはそのチーズで暮らしていけるはずだった。 ところがある日、チーズが消えてしまう。そのとき彼らがとった行動はどのようなものであったか。 この本は、この寓話を元に、何人かのグループがその意味について話し合うという体裁をとっている。 この本についての評価あるいは感想はふたつある。 変化を受け入れ、適応しようとする価値観を良しとし、それが広く受け入れられる時代なのだなぁという感慨がまず一つ。 ただ、それだけではベストセラーにまではならない。 ものごとを関係性という視点から見ることを勧めている点で、変化を良しとする時代の中で生き残る術を提供していることは評価すべきだろう。 この本が強調するのは、消えてしまったチーズがどのようなものであれ、あるいは消えてしまった理由がなんであれ、重要なのはその状況をどのように受け入れ、対応するかということである。あたりまえのことのようだが、なかなかできないことだ。 要求されているのは原因−結果という単純な図式でもなく、あるいはチーズがどのようなものであるかという分析でもなく、自分と自分をとりまく世界との関係をどのようにとらえ、どのように変えるかというシステム論的なアプローチである。その発想の転換の重要性を訴えているのがこの本であり、この本を用いた研修も当然そうなるはずである。 今回受けた研修というのは、教育事務所のすべての職員を対象にPROASEが実施したもので、全部で五回行われる研修のうち、今回がその第一回目である。 すべての職員対象に「きみたちは変わらなければならないのだよ」と言っているわけであるから、ちょっと傲慢といえなくもない。僕の仕事も教育行政の改善であるから、どんなことをやるのか興味があって参加した。 ちょっと気になったのは、この研修の意図が、単に「変わらなければならない」というメッセージを伝えるためであるならば、皆が受け取るのは、単純に、「古い方法はだめで、新しい方法がよい」、あるいは「早く新しい方法を身につけたものだけが生き残る」というメッセージになりかねないということである。 グァテマラの教育行政の問題の一つに、安易な先進国の方法論の適用というものがあると僕は考えている。新しい方法を取り入れようとするあまり、授業の基本的な部分がおろそかになることを危惧する。また、各国がそれぞれの思惑のなかで援助を行う現状というのもどうかと思う。実際、グァテマラには驚くほど各国の援助が入っているのだ。 この研修がどのような方向に向かっているかはまだわからないが、皆がどのようにこの研修を受け止め、どのような効果をもたらすかを見ていきたいと考えている。 |
2001年07月16日 月曜日
企画書執筆にようやくとりかかる。このアイデアをHさんからもらったのが先月終わりだから、すでに3週間くらいたってしまっている。 |
2001年07月20日 金曜日
ドナー間会議。USAIDによる参加者分析の手法を学ぶ。政策による各団体のマッピングである。最近行き詰まりの感があったドナー間会議であるが、これによって援助の方向をどのように持っていくべきかという話ができるようになればすばらしい。 |
2001年07月21日 土曜日
朝、4時に起きて、市場から午前5時にでるエストール行きの直行バスに乗る。土日を利用してグァテマラ最大の湖、イザバル湖を一周して再びコバンに戻ってくる予定。一番の目的はエル・パライソというフィンカ(農場)。良質の温泉が湧き、滝になって川に流れ込んでいる場所である。 夜はリオ・ドゥルセに泊まる。 |
2001年07月22日 日曜日
リオ・ドゥルセを9時に出発し、一路コバンへと向かう。 夜、不快な事件。家をすぐにでも変わろうと思った。 |
2001年07月24日 火曜日
今月に入ってから練っていたメールボックス設置企画案が完成。カウンターパートに見せる。OKは出るが、予算のことなど話し合わなければならないことは多い。まずは教育事務所長と話し合わなければ。 明日から3日間、25日から27日まで、首都で先住民教育のイベントがある。行きたかったけれど、どうにも時間のやりくりが難しくて無理。首都行きは断念。 |
2001年07月25日 水曜日
コスタリカから同期隊員のしんなり君が事務所にやってきた。コバンに来るとは聞いていたが、今日来るとは思わなかった。でも忙しくてあまり相手にできない。すまぬ。所長にメールボックス設置案を秘書経由で提出。 |
2001年07月26日 木曜日
教員研修パイロットプロジェクトのモニタリングで隣町のチャメルコへ。 いくつかの学校を廻る。教員研修プロジェクトの 午後は事務所で仕事。 |
2001年07月27日 金曜日
昨日に引き続き、チャメルコの教員研修。 午後に所長と面会の約束を取り付けていたけれど、すっぽかされる。忙しいのはわかるが、どうもこの所長はかなりいい加減。最初から守れないのがわかっている約束をしていまうのは人がいいからか、たんに適当なのか。30日は全国所長会議がコバンで開かれる。この席上で、教育省向けの提案としてメールボックスを用いた交換便の設立を呼びかけてほしかったのだが、もう間に合わない。月曜日は朝からチセックへ行かなければならないのだ。 |
2001年07月28日 土曜日
ラビン・アハウ騒動 インディヘナの女王を決めるお祭り、ラビン・アハウ開催日。昼間は任国外研修でコバンに来ているコスタリカやドミニカ共和国の隊員たちや近くの町に住む隊員たちと、広場の露天で買い物をしたり、伝統芸能を見物したりしていた。ラビン・アハウそのものは夜の8時から始まる。入場料は50Qだから、決して安くはない。地元の人はテレビで見た方がいいという。 6時から会場に行って席を確保しないといい場所はとれないと聞いていたが、結局ついたのは7時。あんのじょうステージがちょっと遠い。まあいいや。 それぞれの地域から選ばれた候補者が次々と登場し、ちょっとしたパフォーマンスをしてから、ひな壇に座っていく。今年からは時間がかかるとの理由で、演説とその審査は昨日のうちに別の会場で行われたらしい。それでも一人一人登場していくだけでかなりの時間がかかってしまった。 インディヘナの伝統芸能を、おそらくはどこかの劇団だと思うが、多少現代風にアレンジした踊りなどをあいだに挟みながら、プログラムは進行していく。 候補者が10人ほどに絞られた後、日本大使館の後援による「着物ショー」が行われた。この時点で最初に聞いていた時間より3時間ほど遅れている。午後9時ごろと聞いていたのに、すでに時計の針は12時に近い。長時間着物を着たままのモデルさんたちに同情する。ちなみに半分くらいは協力隊女性隊員たちである。 着物ショーそのものはよかったけれど、それがよいものであればあるほど、違和感を感じてしまうのは僕だけだろうか。インディヘナの女王を選ぶ祭りにどうして着物ショーなんだ?この種の外交的戦略からくる押しつけがましさを僕はあまり好まない。「日本文化」の押し売りのような気がしてしまう。隊員レベルの日本文化紹介程度ならともかく、完成度が高ければ高いほど、文化交流とはほどとおくなり、外交的宣伝合戦にいやおうなしに巻き込まれていくような気がしてしまうのだ。着付けをほどかなければならないモデルや先生はともかく、着物ショーが終わると同時にホテルに帰ってしまう大使館関係者もあまり好まない。失礼ではないのだろうか。夜も遅いからしかたのないことかもしれないが。 候補者の選定は、審査員の質問に対する答えの内容と話し方などで評価される。他にも評価基準はあるのかもしれないがよくは知らない。質問の内容はなかなか厳しいものだった。たとえば、「和平合意はインディヘナに何をもたらしたか」、「環境問題について、改善のための具体的な行動はどのようなものがあるか」など。 しかしながら候補者たちの答えを聞いていると、どうも真っ向から向き合うような答えはなく、与えられた質問を一つの題目として、いかにに美辞麗句を並べ、気の利いたことが言えるかが問題になっている気がした。グァテマラ人のインテリ層と話すといつも感じるのが、このことである。もっと真剣に考えようよ、などと僕なんかは思ってしまう。もっともまじめに答えようとすると収拾のつかなくなりそうな質問ばかりだったけれど。 最終的に候補者が3人に絞られたあとで、問題は起きた。 候補者の出身地はそれぞれ、コロテナンゴ(ウェウェテナンゴ県)、サンタ・クルス・デル・キチェ(キチェ県)、トゥクル(アルタベラパス県)の三カ所。僕の見たところ、コロテナンゴの娘は身振り手振りは激しく、話し方も過剰で、なにかの政治的アジテーションを聞いているかのようだったし、トゥクルの娘は話にあまり内容がなかったしで、キチェの娘が妥当な線だと思っていた。けれども、実際に発表されたのはコロテナンゴであった。グァテマラではああいうのが好まれるのかなあと思っていたら、会場のあちこちからブーイングがわき起こった。単に自分の属する地域が選ばれなかったことからくるのかと思ったら、審査員が出てきて、発表が間違いだったという。実際はキチェだというのだ。しかしながら選ばれたコロテナンゴはすでに選ばれたことに対する感謝と今後の抱負の演説を、あいかわらず激しい身振りを交えながら語ったあとで、それを見かねたのかキチェの娘は辞退してしまった。それじゃというので、審査員はトゥクルを指名したけれど、観客がそれで納得するはずもなく、会場全体がなんだか不穏な空気に包まれ始めた。 これはいわゆる三十六計逃げるに如かずというやつだなとばかり、一緒に見ていた他の隊員に声をかけて退散することにした。だから結局どうなったのかはわからない。 次の日の新聞によれば結局女王はまだ決まっていないとのことだった。 |
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![]() 女王候補者たち |
![]() 昼間は各地の伝統芸能が披露される |
2001年07月30日 月曜日
5時半起床。そんなに早く起きたわけは、コバンから133kmほど離れたチセック市へ出かけるためである。プロジェクト参加校のモニタリング。 JICA派遣の専門家、Eさんや教育省のプロジェクト担当者、UNDPの担当者などと車に乗り込み、チセックへ。 以前は車で3時間以上かかった場所であるが、舗装化が進んで、2時間もかからなくなった。この道はそのまま熱帯のジャングルを突っ切り、マヤの遺跡で有名なペテンまでつながる。舗装工事は今のところチセックまでしか終わっていないが、いつか陸路で行ってみたいと思う。 いくつかの学校を見学。タマリンド村の学校ではたった一人の教員が全学年を教えている。いろいろ工夫をしていたが、一人では限界がある。授業の質以前の問題がまだまだ多いのが現実。 午後は事務所で会議。 |
![]() 教室の窓からのぞくチセックの子供たち |
2001年07月31日 火曜日
再びチセックへ。教員研修。 標高1300mのコバンに比べ、チセックは300m未満。昨日は雨が降っていたが、今日は晴れているので暑い。あらためてグァテマラが熱帯であることを知った。 夜はつかれてベッドに倒れ込んでそのまま眠ってしまった。 今月はとにかく考える暇もなく働きづめであった。 |