「性現象と宗教現象」 僕にとって永遠の謎とも言えるのが、この両者である。あるいは誰にとってもそうなのかもしれない。これを自我の在り方という視点から、宮沢賢治をテクストとして用いながら考察したのが、真木悠介によるこの論考である。 宮沢賢治によれば、宗教とは「自分と人と万象と」共に至福にいたろうとする願いであり、この挫折から、ただ一人の異性だけと永久に共に行こうとする「変態」が恋愛である。そしてその不可能性を強引に手に入れようとする傾向が性欲であるという。 真木の指摘の通り、これは特異な考えだ。ふつうは逆である。 ある意味でこの考えと対立するのはフロイトである。性欲を昇華したものが宗教などに向かう力の源だというのが彼の主張であるからだ。こちらの方が一般的な理解に近い。 真木は賢治の在り方をフロイトのアンチテーゼとして用いる。つまり両者はそれぞれ一方を一方に還元させようとしているが、それは誤りであるという。両者は「おなじ一つの形式の、異なった位相をとった反復」だというのが彼の主張なのである。 個の欲望の追求たる性現象はこれを突きつめれば、個を超えてあふれだしてしまう。たとえば、産卵死する鮭の個体のように、自己をなくしてまで、その目的を果たそうとする。 同時に宗教においては、自我を超えようとする中で、自我の絶対化を招いてしまう。わたしの悟りこそが唯一無二であるというように。 真木悠介のこの論考は、これらの在り方それぞれに潜む罠をあぶり出すことによって、人間存在がどれだけ遠くの地平を目指せるかを語ろうとするかのようであり、感動的でさえある。 ちなみに賢治の実感するところによれば、人間の生活のうち、「労働と性欲と思索」はこのうち2つまでしか同時に成立しないものだという。 うーむ。 文献 「性現象と宗教現象」、『自我の起源』所収、 真木悠介、『自我の起源 (愛とエゴイズムの動物社会学)』岩波、1993 |
June 02, 1999 『クルーグマン教授の経済入門』がおもしろい。非常にわかりやすいのだ。 経済の入門書の多くは語り口だけやさしくした「経済学」入門であり、分かり切った内容を繰り返しているのに過ぎない。これらをいくら読んでみたところで現実の経済はなにもわからない。だって需要と供給の関係なんて、いまさら具体的な例を持ち出さなくても普通わかる。知りたいのはどんな分析枠組みを用いれば、どんなことが見えてくるかである。 この本を読んでわかるのは、例えば不景気と一口に言うけれど、それがどんな事態を招いているのか、また新聞に載っている経済政策が何のために、どのような理論に基づいて行われてるかである。それが非常にラフな語り口で述べられている。 おすすめ くわしくは、また後日。 ポール・クルーグマン、『クルーグマン教授の経済入門』、メディア・ワークス、1999年 Paul Krugman, THE AGE OF DIMINISHED EXPECTATION: 3rd Edition, 1994,1997. The Washington Post company |
June 10, 1999 最近読んだ本。 三島由紀夫『潮騒』、志賀直哉の短編いくつか、井伏鱒二、太宰治。 中学生に近代文学を教えるために片っ端から書棚の本を読み返した。感想は特にないけれど、懐かしい気がした。いろんな意味で。 |
June 11, 1999 『深夜特急』を読んだ。今更だけれども、この有名な本を僕は今までちゃんと読んだことがなかったのだ。20代はじめのころ、どこぞでパラパラと読んだくらいである。 今、改めて読み直すとやはり面白い。この手の本が出尽くした観がある現在、食傷気味のすれっからしが読んでも夢中になれるのは、旅行者のロマンティシズムが純粋な形で詰まっているからだろう。デリーからロンドンまでのバス路線なんて、今考えてもわくわくする。 しかしながら、感じたのは彼我の間の旅行に対する考え方の違いである。僕の旅行はこれはおそらく旅行ではない。そこで暮らすことが僕の目的だから、そこで出会う生活様式や価値観の違いは旅の彩りではなく、早いこと慣れてしまわなければならないものになってしまう。知らないことに感動している余裕はない。知らないことは良くないことなのだ。これは現代的な旅行の通弊なのだろうか。それとも性格的なものだろうか。 ともあれ、もはや異文化との出会いに感動できる時代ではないのかもしれない。異文化を知った上で、どうつきあっていくかを模索していかなければならないのが現代である。今日、もはや深夜特急はノスタルジックな読み物の域をこえられないかもしれない。旅行者という定義自体もはや括弧付きでしか語り得ないのだ。 沢木耕太郎 『深夜特急1〜6』 新潮文庫 \400 |