エスニック

亜細亜新報
ASIA SHINPOU

工事中

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主要記事抜粋 Contents


目録 Back Number List

  1. 設立趣意書
  2. 亜細亜月報 第1号
  3. 亜細亜月報 第2号 '91.4.27.発行
  4. 亜細亜月報 第3号
  5. 亜細亜月報 第4号 
  6. 亜細亜月報 5/6合併号
  7. 亜細亜新報 新春号
  8. 亜細亜新報 春季号 '92.4.10.発行
  9. 亜細亜新報 夏季号 '92.7.10.発行
  10. 亜細亜新報 秋季号 '92.11.7.発行
  11. 亜細亜新報 新春号(最終号) '93.1.1.発行
  12. D.C.M.P.企画書

1. 設立趣意書1991

 激動の1990年がさり、91年が幕を開けた。僕らが恋人同士で初詣に行ったり、のんびりとお節料理をつついているとき(そうでなかった諸君には失敬!)、中東では百万を越える兵員が展開し、極寒のソ連では真剣に飢えに怯える人々がおり、朝鮮半島では統一への期待に胸を焦がす人々がいたのである。東西冷戦体制の崩壊、新たな世界秩序の模索の始まりという歴史の転換期を迎え、僕らの周りには積み残された課題も多く、息継ぐ間もなく新たな対応を迫っている。
 このような国際関係の中で、僕らが自分自身のアイデンティティを問いなおそうとするのは当然のことといえよう。僕らの国際交流への関心も関与もそこから発している。しかし世界がこのような問題を抱えているにもかかわらず、奇妙にも僕らには現実感が乏しい。日本は戦後世界有数の情報大国となったが、あふれる情報によって、僕らはかえって鎖国状態に押し込められているのではないか。こういった状況の中で、僕らの不安は、「世界史からつんぼさじきに置かれているのではないか?」という疑問とともに増大する。
 問題は「僕らが今何であり、何ができ、またなにをすべきなのか?」ということなのだろう。
 さいわいぼくらは’経済大国日本’の子だ。世界の国々を飛び回る自由と財力(あるいはその可能性)を持っている。ぼくらは柔構造の多目的集団の一員として今年も、世界を旅し、見、読み、聴き、嗅ぎ、触れ、歌い、叙述し、自らも演じ、そして遊ぶ。ぼくらは拡大されたヴィジョンを持ち、自分自身の足で世界を歩き、生の情報を集め、交換し、共有しよう。大航海時代の船乗り達が持っていたような進取の気性と冒険の精神が、ぼくらには必要なのである。そしてそういった遊びと格闘の中から、新しい、さらにハイクオリティなヴィジョンが現れてくるにちがいない。
 この亜細亜山荘のOBたちは現に世界各国で活躍中である。鮫島重喜・小沢均はそれぞれ台湾・韓国の大学で日本語を講じ、楪弘之は米国ノースカロライナ州デューク大学のロースクールで弁護士資格を取るべく刻苦勉励している。ディヴィットはスイスに帰省中で、今春からのテレビ朝日の仕事に備えている。門田晶は、来月から、中国延辺大学へ留学の予定である。
 今ぼくらに必要なのは、世界に対するヴィジョンと冒険に飛び出すきっかけと仲間だ。そしてそれらが、亜細亜山荘にはあるのである。だから若者たちよ、来たれ、集え、亜細亜山荘へ!
1991年 正月
亜細亜山荘主幹 根川幸男

解説

 

2.〜11.主要記事抜粋

近日掲載予定



フィリピン南部のミンダナオ島は、よく蟹にたとえられる。その蟹の左の爪の先からボルネオ島にかけて、スールー島という島々が連なっている。主な島は、バシラン、ホロ、タウイタウイなどだが、その他にも無数の島がある。その先端のシタンカイは、ミンダナオ島よりマレーシア領サバ州に、はるかに近い。まさに国境の島々である。スールー諸島も今では主要な島は飛行機によって結ばれている。しかし、私は船で行くことにした。フィリピンの首都マニラからまる2日かけてミンダナオ島の半島の先の町サンボアンガに着く。ここで船を乗り換え、スールー諸島に向かう。サンボアンガまでは大きな船だったがここからは数百トンほどの日本の漁船の中古だ。乗客は甲板の簡易ベッドで眠る。しかしこのあたりの海はめったに荒れることはないので小さな船でも快適である。

近日掲載予定


近日掲載予定


エスキモー社会を救えるか、太鼓の響き

「第6回北極圏イヌイット会議」を機に問われるエスキモーの未来

 デンプスター・ハイウェー。この名は4WDをとばすのが好きな人にとって、魅力的な響きを持っているに違いない。
 カナダの北西部、全長743q、延々と北極海近くまで続くデンプスターは路肩もない、車が通った後に砂埃が舞い上がる未舗装のハイウェーである。12時間走り続けても、人間の存在を連想させるものは何一つもない。あるのは、太古の地球を思わせる、壮大で原始的な大自然と、時折見かける野生動物だけなのだ。
 終点は、エスキモーのイヌビアルウィット族が住む町、イヌービック。35年前に、カナダ政府が行政機関を置くため、たった3年間で作った、人口3000人の町である。
 町の入り口に、ツンドラで道標の役割を果たす、人をかたどった「イヌックシュック」と呼ばれる記念碑が建っている。背後には、「イグルー教会」の丸い姿が見えて、全てが北極圏ならではの光景だ。
 今年の夏、この町で「第6回北極圏イヌイット会議」が開催された。3年に一回行われるこの会議に、アラスカ、カナダ、グリーンランド、そして今年初めて旧ソ連からも、イヌイット社会の代表が1000人近く集まった。
 冒頭演説でエリツィン大統領からの挨拶の手紙が読み上げられ、会議開催前にほとんどの代表がリオの地球サミットに参加したこともあり、北極圏の環境問題などが話し合われた。
 しかし、なによりもかってない規模で行われた同会議は、イヌイット社会を見つめ直す大きな機会となった。

 「サバイバル」(生き残ること)、この一言が苛酷な自然状況の中で5000年前から生き抜いてきたエスキモーの長い歴史の全てを物語る。彼らにとって、グループの調和は最大の美徳であり、生存のための絶対的な条件だったに違いない。
 ところが、この社会は今アルコール中毒、自殺、暴力、高い失業率など、多くの社会問題に悩まされることで、残念ながらあまりにも有名である。
 北の民は、なぜ今とまどい、歩むべき道を探しあぐねているのだろうか。
 会議と時期を同じくして、私を北極圏へ誘ったのは、なによりこの疑問を解きたい、という気持ちであった。
 ところが、最初に訪ねた「イヌビアルウィット地域公共団体」の「社会福祉プログラム」を担当するカシー・コクネーさん(33)は、私の素朴な疑問に対して、率直ないらだちを示した。
 「興味本位でエスキモーのアルコール問題を取材に来るジャーナリストはもううんざりですよ」
 ときっぱりと言った。
 しかし、話していくうちに、エスキモーが大きなアイデンティティ・クライシス(アイデンティティ喪失の危機感)に直面していることをさすがの彼女も認めた。

エスキモー社会を変えた最大の原因は冷戦時代であった。

 イヌイット。エスキモーの正式の名前である。大の昔から獲物を追い求めて、年中ツンドラと凍った海の世界をひたすら転々と移動する遊牧民族。
 ところが、彼らの生活にわずか半世紀で現代文明社会がいきなり襲いかかってきた。5000年の生活習慣を一気に変えた50年間。刀を差し、ちょんまげ姿の幕末の日本人が西洋文明に出会ったとき以上のタイム・スリップを感じたに違いない。ポフォール海の町タックトヤックタック(タック)を訪れた。ツンドラと海の間に挟まれた、人口300人の町である。海の向こうは直接北極点につながる島々が続く。ところが、目を凝らしてみると、妙な光景に気づく。それは、海に面して、遠くから見える巨大な盾の形をしたレーダーと、バカデカいゴルフボールを思わせる建物。
 一体、ツンドラと海の境目にある、このスターウォーズの世界はなんだろうか。
 ソ連軍の侵攻を警戒して、50年代のアメリカはアラスカからグリーンランドまで、北極海に面して80キロごとに、敵機を探知するレーダーサイトを設置した。
 これを「DEW LINE」(遠距離早期警戒レーダー網)と呼ぶ。そして、エスキモーの生活に最大の変化をもたらしたのは、他ならぬこの「DEW LINE」の建設なのである。
 思いがけないところで見た冷戦時代の遺物。私は訪ねてみることにした。電話2〜3本をかけたら、意外と簡単に入れてくれた。
 テキサスなまりの米空軍の大佐を予想していたが、私を案内してくれたジョルジュ・ハリス所長(62)は、クイーンズイングリッシュを話す民間人のイギリス紳士。軍事施設でありながら、レーダーサイトを実際に運用するのは民間企業であることを説明しながら、紅茶を入れてくれた。
 「エスキモーは基地の工事現場でよく働きましたね。考えてみれば、これによって初めて賃金経済が彼らの生活に入ったわけだ。決定的な転換期だったと思いますよ。一夜にして、スノーモビールや猟銃、便利な電化製品などを買えるようになったんです。ところが、2〜3年で建設が終わると、メンテナンス従業員を除けば、エスキモーを解雇してしまいました。彼らは居心地の良い生活を保障する収入源をいきなり奪われ、ツンドラの世界に戻ることに拒絶反応を見せたのは、当然だと思います」
 だが、イヌイットが完全に昔の生活に戻ることにはもちろんならなかった。逆に、白人社会に目まぐるしいスピードで巻き込まれていった。
 「あれから35年発ったが、ほとんどの人はまだ最低限の金銭感覚を持っていないよ。例えば、短期契約で仕事をする。給料をもらうやいなや、飛行機で隣の町まで出かける。数日後に両目に黒あざができて、ひどい二日酔いを抱え、イヤー最高に楽しかったぜ、と言って帰ってくる。もちろん一文無しだ」
 と嘆くのは、10年以上タックに住み、医療センターで働くイアン・ダンラップさん(35)。
 賃金経済と一緒にイヌイットの暮らしに入ってきたのは、アルコールという名の毒である。この社会でアルコールが家庭内暴力、犯罪などにつながりがちなのは、いくつかの特殊な条件によるものだ。イヌイットはまず体質的にはアルコールに弱い。また、グループ社会の性格が強く、飲むときは皆で飲む。しかも、適当にやめるという習慣を知らず、最後の一滴まで飲み干すのは普通のようだ。
 「アルコールが入ったが、アルコールの作法が同時に入ってこなかったのは悲しいね」
 とイアンさんは付け加える。
 イヌイットにアルコールを売るライセンスを握っているのは、カナダ政府であることに大いに驚いた。これだけ原住民の保護に務めるというイメージが強い同政府はなぜ、こうした矛盾に見えることをするのだろうか。
 あの有名なRCMP(カナダ騎馬警察)のイヌービック所長ジム・ホウィーさん(44)は、このように状況を説明してくれた。
 「アルコールの売買が膨大な収入に結びつくのは事実だが、問題はそう簡単ではない。禁酒を押しつけても、コミュニティー(生活共同体)が自発的に禁酒を望み、投票で実施を決めない限り効果はない、というのはわれわれのこれまでの経験だ。人々は自分でバカに強い酒を造るか、プロパンガスを吸ったりして、代用物を求めるだけだ。
「仕事がなく、人間が時間を持て余し、自分の生き方にあまりプライドが持てないと、エスキモー社会に限らず、どうしてもこういう問題が発生すると私は見てます」
 どうやら、政府の過剰保護が逆に多くの問題を生みだしているようである。仕事がなくても、補助金が出るため、昔のファイティングスピリットをどこか失っているだろう。
 ホゥリス所長の言うように、エスキモー社会だけの問題では決してない。だが、その解決方法は、あるいはエスキモーならではの政策なのかもしれない。
 今、自分のルーツを見つめ直すことによって、エスキモーが自尊心を取り戻し、時代の流れの中で自分の存在意義と位置づけを再確認できるよう、大きな運動を展開している。
 私は特にこの運動の二つの側面に興味を抱いた。
 アンガユ(太鼓踊り)。長い間消えかけていたエスキモー文化の迫力ある、この民族舞踊は今、よみがえっている。カシーさんのおじさん、ノーマン・フェリクスさん(74)は、カナダ北西部でアザラシの皮を張った美しい白いキラン(太鼓)を作る唯一の人物として知られている。
 土曜日の夜。タックの小学校の体育館に、小さな町の人々全員が集まった。太鼓踊りのパーティーである。ホールの中央に、フワフワの襟が付いている色鮮やかな模様のパルカ(民族衣装)を着た男女10人は椅子に座ったまま、細長い棒で太鼓を下から打ちながら北の歌を唱える。その前で、子供も含めて、人々が踊る。リズムが激しくなるに連れ、見ている人も、着ていない人もごく自然に踊りに加わっていく。早い動きと男女の素朴で荒っぽい歌声。太鼓の力強い響きと、ステップを間違えはじける子供の笑い声。
 踊りの後、フェリクスさんは自分の家まで案内してくれた。背後に、川を隔ててレーダーが見える。太鼓の作り方や踊りの話をしてくれた。
 「グリーンランドやロシアのエスキモーと違って、われわれの舞踊はあまり狩りや捕鯨の話ではない。それより長い間会えなかった友人との再会を喜ぶ、と言う歌が多いな。まあ、久々に会って、お互いに相手をからかったりして、友情を確かめ合うわけだ」
 「この年になって、太鼓が再び売れて、踊りを一生懸命に学ぶ孫たちが見られるとは、ここまで生きてきた甲斐があったね。自分の真後ろに女がいて、耳元で声を聞きながら太鼓を打つのは一番幸せなのじゃ」
 目を輝かせながら、素直に喜びを語る老人の姿に感動を覚えた。子供達が真夜中過ぎまではしゃぐ白夜の地に来てよかったとつくづく思う。
 その後も、イヌービックに戻り、太鼓踊りのクラスに参加させてもらった。プライドを持って、笑いながら、力強くドラムを打つ彼らの姿を見ていると、一つの確信が持てる。この太鼓のビートが続く限り、エスキモー文化は死なないだろう、と。
 アイデンティティの回復で社会問題に取り組む運動のもう一つの面は、祖先の言葉「イヌビアルックトゥム語」の学習である。
 今、中学まで「第二国語」として義務教育に取り入れられているだけではなく、教室に参加する大人も増えている。
 クラスを受け持つ先生ロジ・アルバートさん(58)の家におじゃました。政府の要請で辞書や文法本の作成に携わったという彼女がまず私に見せたのは、2年前に京都を訪れた際に買った日本の掛け軸。
 「イヌビアルックトゥム語のもっとも長い単語は52文字で書くの。そしてね、ジャコウネズミを意味する言葉は58もあるわ」
 と自慢する。
 「私は多くのエスキモーと同様、小学校を卒業してから、進学しようと思っても、学校そのものがなかった」
 学校に戻り、大学の学位を取ったのは、10数年前のことだ。教育、しかも自分の文化を知るための教育の必要を痛感したと言う。
 「今も、私のクラスに来る大人達は同じ心境だと思う。人間のルーツはまず、その言葉にあると思う。ここのエスキモーは皆英語で生活しているが、エスキモー独特の文化のことは祖先の言葉でしか表現できないのです。」
 町を離れる前に、このいわゆるDEW LINE世代を代表するような人に出会った。「トゥサーヤクサット」紙という地元の二カ国語二ヶ国語(英語とイヌビアルイトゥックトゥム語)のルイス・グース編集長(42)。彼の柔和な顔を見ると、若い頃にアルコール中毒に悩まされ、暴力的な人間だったとはとても信じられない。
 「当時、今のように、自分のルーツについて、もっといろんなことを知っていれば、私の人生をこんなにめちゃくちゃにしなかったんだろう。世の中は変化しているから、いつまでも昔のことにこだわるのは現実的ではない。しかし、先へと突っ走る前に、やはりしっかりと『自分』を知ることは大切だね」
 帰りの飛行機から見た、川とツンドラのケタはずれの美しい模様は、幻の絨毯のように、いつまでも続いた。
 私は、スイス、アメリカ、日本の文化の狭間に生きて来て、アイデンティティということについて考えることが多い。小型機の中から下の世界を見つめながら、グースさんの言葉を思い出し、深い共感を覚えずにはいられなかった。
 近代化の波に揺さぶられ続ける北方の民エスキモー、冷戦時代と「DEW LINE」の建設は彼らにとって「黒船」だったといえるのではないだろうか。こうした時代を生き抜いた老人達は私に、昔の生活を理想化してはならないとよく言った。獲物が得られず餓死した兄弟の話もよくした。
 夏の北極圏では、冷戦が終わった今、エスキモーに光りも陰も投げかけた「DEW LINE」皮肉なことに、次々と閉鎖され、無惨な姿だけ残して、廃墟と化していく。

近日掲載予定



当時、中国朝鮮族自治州にある延辺大学に留学していた門田君からの手紙。

一信 

掲載紙の原版散逸のため、掲載不可能。門田すまん。
どなたか亜細亜月報創刊3号持っていないでしょうか。
この号じたいの発行部数が非常に少なく、印刷されたものも手元に残ってないのです。


二信 沈陽の巻

 山海関から列車で六時間で沈陽である。(瀋陽を今はこのように書く。)北洋軍閥の拠点で、そう考えると、なにか夜の駅前のにぶ赤いライトがあやしい。駅前広場の塔のてっぺんに戦車が置いてあるのは中共のしわざか。

 一番の見どころは、後金の故宮で、たいそう立派である。(わしは北京のを知らん。)民族服着たねえちゃんがうろうろしているのが、おもしろい。ここで玉(ガラス)のうでわを買うたが、おとしてわれて、今はない。
 市の北には北陵というて、ホンタイジの廟がある。中華建築の城壁の中に、門やら櫓やらがいろいろあって、一番奥の壁が封印されている。
 上に登ると、古代日本風(つまり古墳)の土饅頭がある。桃山にある明治天皇陵もこのかんじであった。
 市の東部にはヌルハチの廟、東陵があって、同じようなものである。大分質素であるが。
 山海関にせよ、ここにせよ。司馬遼太郎の「韃靼疾風録」を読んでいるので、大変おもしろい。しかし今、満州に女真族おらず、さびしい気がする。(満州人が復興しつつあるが。)

 いっぺん、沈陽駅でバスがなくなり、タクシー来んので怒ってたら、人力車(自転車リヤカー)押してるおっさんが、「乗らんか」と。それで「14元で」というとこで手を打って、先払いしようとしたら、ことわる。で、煙草もろたりしながら、歌うたいつつ大学の門まで来ると「40元よこせ」という。
 十分間くらい闘争して、大学の門番呼んで、又、十分くらい闘争して、次には公安がやってきて、おっさん喚きながら連れていかれた。金は払わんで済んだ。後で、おっさんの書いた供述書みると、「20元という約束が、14元にねぎられたのです」とあった。他の人に聞いても、40元は法外で、10元ぐらいが妥当と言うてた。

 さて、ここの留学生寮の廊下歩いてたら、聞き慣れた音楽がかかっている。音源の部屋に入っていくと、白人が三人おって、曲はドアーズであった。この中の一人のにーさん、イギリス人で、イアン・マクドナルドさん(仮名)という。「中国の曲はBadや」という。で、わしの持ってきたテープ貸す。
 翌日、「イエスとクリムゾンがよかった。」と、これは正しい趣味である。『わかつきめぐみの宝船ワールド』は不評やった。残念。

 この後、又、駅へ行って、

胸ぐらつかんで
ガラスたたいて
大声で叫んで の

いつもと同じパターンの切符買い闘争するはめになるが、この話は又今度。
 
 沈陽を発つことにして、首尾よく列車に乗れた後は、一路延吉まで向かうが、このレールの上で張作霖が爆殺されたはずである。この辺かなと、少しドキドキした。


三信 カンバリクの十万個のスイカ

 わざと北京をさけて延吉まで来た私であるが、「渡来してからもう一季節たったし、ええかなーと、北京へのイヤガラセを解除して、臥車(寝台車)に乗って行ってきた。

 実は佐渡島で活動している和太鼓バンドの「鼓童」、これのメンバー、三味線野郎のフーテンフーミン(富田和明)氏を訪ねに行ったのである。氏は三年間北京にいてはって、今は中央音楽学院で楽器習ろてはる。でもここもこの夏でやめて9月からは、我が延辺大学に朝鮮語の語学留学に来やはる予定である。著書に、北京留学体験記『いとしの五星ビール』があり、なんかおもしろいから遊びに行ったのじゃ。

 北京南駅についてすぐは、カゼのためやむなくホテルに泊まった。100元した。でも同じ経営の建物なのに、表玄関は150元の天橋賓館、裏玄関は100元の北緯飯店である。
 富田さんの奔走で、北京連合大学外国語師範学院の寮に泊まることになった。
”氏の知り合いのいとこ”というたてまえである。宿代は一泊18.5元と、安くて安くてうれしかった。

 宿舎の中には色々いてはるが、白人(パイレン)が多いのにはびっくりした。特にドイツ人のカンキルさんが可愛かった。胸も大きいし・・・・・。
 ギターひいてるアメリカ人の兄さんと話してたら、なんと39才の人やった。同年令かとおもてたのに。そやから古い曲なんかよく知ってて、「そう、あれは1968年のことやった。たしかに見たベルベットアンダーグランドが・・・・・」とか、わしの生まれた年やんけ。
私も新しい曲は知らんので、ニコの歌う”フォー・オール・トゥモローズ・パーティズ”をひいてもらった。合わせて歌うとギターの音も外れ、迷惑そうにしてた。そして「これは美しい曲や」と。
たしかに美しいが、ベルベット・アンド・ニコの曲やで。SMの曲とちゃうのか。(へんかも)

 一人、学生宿舎に日本人の先生が住んでた。ある晩、別の人に大学の説明してはる先生に、「せんせ、日本語教えたはるんですか。」とはなしかけてみた。「きみのことばは、いまどきめずらしい大阪弁やなぁ」と喜んではった。神戸の人である。「私、灘高卒です」と言うと、さすがに神戸の人で、これまたえらいよろこんでくれた。「中国来とる教師や学生の中には社会落伍者が多い。”○△×”という奴も落伍した奴や」と仲々きつい人である。ご当人は神戸新聞を定年退職した方(かなり大物らしい)で、はじめ退職後、北京大学か復旦大学か精華大学に来るはずが、天安門の変のおかげで変更して、「来てびっくりや。こんな三流大学。」と言うてはった。
 十日の間、ビールを飲んで話してるうちに、「わしはもう日本に帰る。わしゃ、あんたがなぜか気に入ったが、もう一生会うこともないやろう。これはわしが長い間着てたウインドブレーカーや。しょうもないもんやけどもろてくれ。」と、愛用の服をくれはった。感動しつつ「これ合羽になりますか?」と聞くと、それは「ならん。」とのこと。

 ある日アーリア人どもが集まって、なにかあやしいことをしている。木にイルミネーションつけて、顔に絵の具ぬってる。仮装パーティや。ビデオもかかって、オープニングのメロディー。「何かこの曲知っとんなぁ。あ、ロッキー・ホラー・ショーちゃうか。」思て、「ねえ、Is this Rocky Holler Show?」と声かけたら、これは漢人やった。もっぺん白人に聞くと、「トゥイ、トゥイ(対、対)=そうや」と言う。そのうち、おぼえとる画面も出てきた。この映画は、まだわしが中学生のころ、十年前、梅田の大毎地下劇場(なつかしい!)で二回見た。遠くにありて再び又出会うとは。うれしかった。やはり日本は西洋文化の国や。

 ある日、先生に教えられて、歩いて20分、甘家口のウイグル人街に行った。いてはる、いてはる。これはアーリア人の顔や。ウイグル人は名目上、トルコ系のはずであるが、これはペルシア=ソグドの血やろう。中央アジアが「トルキスタン」になる前の「ソグディアナ」の面影をのこしてる。そういえば、唐の安禄山もトルコ(突厥)とソグドの混血児、本名もアレクサンドロスやったな。小さい子供も目が黒くない。すっかり気分が良くなって、食堂に入り、「ここはまるでソグディアナや!」と、ウイグル人のおっさんに力説したが、ソグディアナて言葉知らんかったようで、さびしかった。 この食堂に後何回か通い、仲良くなって、カメラ持ってたので、一緒に色々写真うつした。あと、この「天池飯店」、店の中に富士山の富士山の大パネルはってあった。なんでや。

 最後の日には”一日五遊”というて中国人向けの観光バスに乗った。説明は全て漢語である。いっぺん万里の長城まで行く。一つ手前で止まったとき、「ここが長城八達嶺や」と勘違いして、もう発車の時間で、車掌のじいさんがあわてて走ってきて、わしの腕つかんでバスまで走る。と、バスが出てしもうて、じいさん必死でわし連れて追いかける。後を振り返ると同じ型同じ色のバスが止まってて、そっちが本物やった。中に入ると、客と運転手(Mr.Booみたいな人)が大爆笑している。なんか香港映画みたいやった。
 というわけで、北京の夏の笑い納めでした。

PS。表題のスイカの話せんかった。街中至る所にスイカ屋が、スイカ何百個か積んでて、量り売りしてる。わしものどが渇いたし、毎日一個のペースで食ってました。では再見。 ('91.7.14)


四信 「ラサの都は咲く花の」

洛陽にでかけようと身支度をととのえてると、突然日本からドル札が届いた。ひきつづいて寮の作業員が次々に”チェンジマネー”にやってくる。安いレートで替えてやると、急に金ができた。「こんだけあったら、ラサまで行けるかもしらん。」とっさの判断でチベット行きを決意した。”チベットでも、お金あったら大丈夫!」とは、このときできたコピーである。

 でも、道中かなりゆるゆるとした旅で、(このとき大連、威海衛、洛陽に寄ったときの話もいつかする。)チベットへの入り口の、青海省西寧市に着いたのは出発してから13日目のことやった。この街は、現在はだいぶん、漢化されている。でも、ここで、若き14世ダライ・ラマ(インドに亡命しててノーベル賞もろた人)は、ラマ教を学んだのである。ここは、歴史的に元々チベットの一部分で、清代には”西蔵”の青海部であった。今、市内の建物の表示には、モンゴル語・チベット語・漢語と、三ヶ語がつかわれている。また、街には頭に白いターバン巻いた回族がうろうろしてるし、中国名物のミャオ族もいてて、ここは多民族都市である。

 この町の宿では、統一ドイツ人と同宿になった。この都市には、世界各国からのパッカーがながれ集まってくる。じつはこのミュンヘン人(ロンメルを尊敬してはる)に聞いてはじめてわかったのであるが、現在、チベットには外人は入れんとのこと。それで公安にいろいろ働きかけてみて、何とか、チベット自治区の手前青海省トトフヤン(漢語)までの旅行許可証をとった。

 まずは列車に乗って西へ。車中、横手にココノール(青海湖のモンゴル語)を見つつ行く。個人主義の行動をとりがちのバイエルン人とは、はぐれた。でも街の宿に行ったら、おった。ここはモンゴル語でゴルムドという街である。

 ゴルムドは、実に味気ない街である。みんな文句いうてた。ドイツ人も怒ってた。この都市はツァイダム砂漠の南端に、むりやり水ひいて造った人造都市である。駅前とか広いばっかりでなにもない。アスファルトの道路の横は空き地で砂漠や。ほんものの砂漠で、つまりこれが街の地肌というわけである。アラブの産油国やったら、ここにスプリンクラーがあって潤沢に水まいているとこやろけど、中国辺境の場合はカラカラである。バスで町中まで行くと水を道路の両脇に通していて、街路樹をうるおしている。そこに公設市場が立って、漢人がいっぱいと、おそらくチベット人とモンゴル人と、それとやっぱりミャオ人とが商売してる。ミャオはあいかわらず安物のパンダ模様かトラ模様のタオル(中国で一番哀しいもののひとつに、このミャオの伝統破壊タオルがある。)あたまに巻いて、うそ銀器売ってる。
 わたしの泊まった宿もここいらで、はじめ。(原文ママ)

五信 チベット編第2回「ヤクがあったら楽に山を越せるわ」

近日掲載予定。


ガルボンブエノの赤い鳥居
「ペンソン荒木」

 メトロのサン・ジョアキン駅を出て、東のほうにのびる坂道を下っていくと、ものの数分ほどでペンソン荒木の扉の前に立つことになる。扉には貼り紙があり、それにはこんなふうに書かれている。
「バーガあります。二世、男」。

 「バーガっていうのは部屋のことですよ」と同室になった先客が教えてくれた。部屋はだいたい八人部屋で、二段ベッドが四つというのが一般的な形である。宿泊名簿に名前と住所を記入するとシーツと枕カバーをおばちゃんが奥から出して来てくれるので、それを持って適当な空き部屋を探す。長期滞在者が多く、建物も入り組んでいるうえに老朽化しているので、誰がどこに住んでいるのか、そもそもどんな人間が住んでいるのか正確に把握している人間は誰もいない。一ヶ月間暮らしていても一度も姿を見かけなかった人さえいるのだ。

近日掲載予定


近日掲載予定


12. D.C.M.P.企画書

近日掲載予定


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