激動の1990年がさり、91年が幕を開けた。僕らが恋人同士で初詣に行ったり、のんびりとお節料理をつついているとき(そうでなかった諸君には失敬!)、中東では百万を越える兵員が展開し、極寒のソ連では真剣に飢えに怯える人々がおり、朝鮮半島では統一への期待に胸を焦がす人々がいたのである。東西冷戦体制の崩壊、新たな世界秩序の模索の始まりという歴史の転換期を迎え、僕らの周りには積み残された課題も多く、息継ぐ間もなく新たな対応を迫っている。 このような国際関係の中で、僕らが自分自身のアイデンティティを問いなおそうとするのは当然のことといえよう。僕らの国際交流への関心も関与もそこから発している。しかし世界がこのような問題を抱えているにもかかわらず、奇妙にも僕らには現実感が乏しい。日本は戦後世界有数の情報大国となったが、あふれる情報によって、僕らはかえって鎖国状態に押し込められているのではないか。こういった状況の中で、僕らの不安は、「世界史からつんぼさじきに置かれているのではないか?」という疑問とともに増大する。 問題は「僕らが今何であり、何ができ、またなにをすべきなのか?」ということなのだろう。 さいわいぼくらは’経済大国日本’の子だ。世界の国々を飛び回る自由と財力(あるいはその可能性)を持っている。ぼくらは柔構造の多目的集団の一員として今年も、世界を旅し、見、読み、聴き、嗅ぎ、触れ、歌い、叙述し、自らも演じ、そして遊ぶ。ぼくらは拡大されたヴィジョンを持ち、自分自身の足で世界を歩き、生の情報を集め、交換し、共有しよう。大航海時代の船乗り達が持っていたような進取の気性と冒険の精神が、ぼくらには必要なのである。そしてそういった遊びと格闘の中から、新しい、さらにハイクオリティなヴィジョンが現れてくるにちがいない。 この亜細亜山荘のOBたちは現に世界各国で活躍中である。鮫島重喜・小沢均はそれぞれ台湾・韓国の大学で日本語を講じ、楪弘之は米国ノースカロライナ州デューク大学のロースクールで弁護士資格を取るべく刻苦勉励している。ディヴィットはスイスに帰省中で、今春からのテレビ朝日の仕事に備えている。門田晶は、来月から、中国延辺大学へ留学の予定である。 今ぼくらに必要なのは、世界に対するヴィジョンと冒険に飛び出すきっかけと仲間だ。そしてそれらが、亜細亜山荘にはあるのである。だから若者たちよ、来たれ、集え、亜細亜山荘へ! |
1991年 正月 亜細亜山荘主幹 根川幸男 |
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エスキモー社会を救えるか、太鼓の響き「第6回北極圏イヌイット会議」を機に問われるエスキモーの未来 デンプスター・ハイウェー。この名は4WDをとばすのが好きな人にとって、魅力的な響きを持っているに違いない。 エスキモー社会を変えた最大の原因は冷戦時代であった。イヌイット。エスキモーの正式の名前である。大の昔から獲物を追い求めて、年中ツンドラと凍った海の世界をひたすら転々と移動する遊牧民族。ところが、彼らの生活にわずか半世紀で現代文明社会がいきなり襲いかかってきた。5000年の生活習慣を一気に変えた50年間。刀を差し、ちょんまげ姿の幕末の日本人が西洋文明に出会ったとき以上のタイム・スリップを感じたに違いない。ポフォール海の町タックトヤックタック(タック)を訪れた。ツンドラと海の間に挟まれた、人口300人の町である。海の向こうは直接北極点につながる島々が続く。ところが、目を凝らしてみると、妙な光景に気づく。それは、海に面して、遠くから見える巨大な盾の形をしたレーダーと、バカデカいゴルフボールを思わせる建物。 一体、ツンドラと海の境目にある、このスターウォーズの世界はなんだろうか。 ソ連軍の侵攻を警戒して、50年代のアメリカはアラスカからグリーンランドまで、北極海に面して80キロごとに、敵機を探知するレーダーサイトを設置した。 これを「DEW LINE」(遠距離早期警戒レーダー網)と呼ぶ。そして、エスキモーの生活に最大の変化をもたらしたのは、他ならぬこの「DEW LINE」の建設なのである。 思いがけないところで見た冷戦時代の遺物。私は訪ねてみることにした。電話2〜3本をかけたら、意外と簡単に入れてくれた。 テキサスなまりの米空軍の大佐を予想していたが、私を案内してくれたジョルジュ・ハリス所長(62)は、クイーンズイングリッシュを話す民間人のイギリス紳士。軍事施設でありながら、レーダーサイトを実際に運用するのは民間企業であることを説明しながら、紅茶を入れてくれた。 「エスキモーは基地の工事現場でよく働きましたね。考えてみれば、これによって初めて賃金経済が彼らの生活に入ったわけだ。決定的な転換期だったと思いますよ。一夜にして、スノーモビールや猟銃、便利な電化製品などを買えるようになったんです。ところが、2〜3年で建設が終わると、メンテナンス従業員を除けば、エスキモーを解雇してしまいました。彼らは居心地の良い生活を保障する収入源をいきなり奪われ、ツンドラの世界に戻ることに拒絶反応を見せたのは、当然だと思います」 だが、イヌイットが完全に昔の生活に戻ることにはもちろんならなかった。逆に、白人社会に目まぐるしいスピードで巻き込まれていった。 「あれから35年発ったが、ほとんどの人はまだ最低限の金銭感覚を持っていないよ。例えば、短期契約で仕事をする。給料をもらうやいなや、飛行機で隣の町まで出かける。数日後に両目に黒あざができて、ひどい二日酔いを抱え、イヤー最高に楽しかったぜ、と言って帰ってくる。もちろん一文無しだ」 と嘆くのは、10年以上タックに住み、医療センターで働くイアン・ダンラップさん(35)。 賃金経済と一緒にイヌイットの暮らしに入ってきたのは、アルコールという名の毒である。この社会でアルコールが家庭内暴力、犯罪などにつながりがちなのは、いくつかの特殊な条件によるものだ。イヌイットはまず体質的にはアルコールに弱い。また、グループ社会の性格が強く、飲むときは皆で飲む。しかも、適当にやめるという習慣を知らず、最後の一滴まで飲み干すのは普通のようだ。 「アルコールが入ったが、アルコールの作法が同時に入ってこなかったのは悲しいね」 とイアンさんは付け加える。 イヌイットにアルコールを売るライセンスを握っているのは、カナダ政府であることに大いに驚いた。これだけ原住民の保護に務めるというイメージが強い同政府はなぜ、こうした矛盾に見えることをするのだろうか。 あの有名なRCMP(カナダ騎馬警察)のイヌービック所長ジム・ホウィーさん(44)は、このように状況を説明してくれた。 「アルコールの売買が膨大な収入に結びつくのは事実だが、問題はそう簡単ではない。禁酒を押しつけても、コミュニティー(生活共同体)が自発的に禁酒を望み、投票で実施を決めない限り効果はない、というのはわれわれのこれまでの経験だ。人々は自分でバカに強い酒を造るか、プロパンガスを吸ったりして、代用物を求めるだけだ。 「仕事がなく、人間が時間を持て余し、自分の生き方にあまりプライドが持てないと、エスキモー社会に限らず、どうしてもこういう問題が発生すると私は見てます」 どうやら、政府の過剰保護が逆に多くの問題を生みだしているようである。仕事がなくても、補助金が出るため、昔のファイティングスピリットをどこか失っているだろう。 ホゥリス所長の言うように、エスキモー社会だけの問題では決してない。だが、その解決方法は、あるいはエスキモーならではの政策なのかもしれない。 今、自分のルーツを見つめ直すことによって、エスキモーが自尊心を取り戻し、時代の流れの中で自分の存在意義と位置づけを再確認できるよう、大きな運動を展開している。 私は特にこの運動の二つの側面に興味を抱いた。 アンガユ(太鼓踊り)。長い間消えかけていたエスキモー文化の迫力ある、この民族舞踊は今、よみがえっている。カシーさんのおじさん、ノーマン・フェリクスさん(74)は、カナダ北西部でアザラシの皮を張った美しい白いキラン(太鼓)を作る唯一の人物として知られている。 土曜日の夜。タックの小学校の体育館に、小さな町の人々全員が集まった。太鼓踊りのパーティーである。ホールの中央に、フワフワの襟が付いている色鮮やかな模様のパルカ(民族衣装)を着た男女10人は椅子に座ったまま、細長い棒で太鼓を下から打ちながら北の歌を唱える。その前で、子供も含めて、人々が踊る。リズムが激しくなるに連れ、見ている人も、着ていない人もごく自然に踊りに加わっていく。早い動きと男女の素朴で荒っぽい歌声。太鼓の力強い響きと、ステップを間違えはじける子供の笑い声。 踊りの後、フェリクスさんは自分の家まで案内してくれた。背後に、川を隔ててレーダーが見える。太鼓の作り方や踊りの話をしてくれた。 「グリーンランドやロシアのエスキモーと違って、われわれの舞踊はあまり狩りや捕鯨の話ではない。それより長い間会えなかった友人との再会を喜ぶ、と言う歌が多いな。まあ、久々に会って、お互いに相手をからかったりして、友情を確かめ合うわけだ」 「この年になって、太鼓が再び売れて、踊りを一生懸命に学ぶ孫たちが見られるとは、ここまで生きてきた甲斐があったね。自分の真後ろに女がいて、耳元で声を聞きながら太鼓を打つのは一番幸せなのじゃ」 目を輝かせながら、素直に喜びを語る老人の姿に感動を覚えた。子供達が真夜中過ぎまではしゃぐ白夜の地に来てよかったとつくづく思う。 その後も、イヌービックに戻り、太鼓踊りのクラスに参加させてもらった。プライドを持って、笑いながら、力強くドラムを打つ彼らの姿を見ていると、一つの確信が持てる。この太鼓のビートが続く限り、エスキモー文化は死なないだろう、と。 アイデンティティの回復で社会問題に取り組む運動のもう一つの面は、祖先の言葉「イヌビアルックトゥム語」の学習である。 今、中学まで「第二国語」として義務教育に取り入れられているだけではなく、教室に参加する大人も増えている。 クラスを受け持つ先生ロジ・アルバートさん(58)の家におじゃました。政府の要請で辞書や文法本の作成に携わったという彼女がまず私に見せたのは、2年前に京都を訪れた際に買った日本の掛け軸。 「イヌビアルックトゥム語のもっとも長い単語は52文字で書くの。そしてね、ジャコウネズミを意味する言葉は58もあるわ」 と自慢する。 「私は多くのエスキモーと同様、小学校を卒業してから、進学しようと思っても、学校そのものがなかった」 学校に戻り、大学の学位を取ったのは、10数年前のことだ。教育、しかも自分の文化を知るための教育の必要を痛感したと言う。 「今も、私のクラスに来る大人達は同じ心境だと思う。人間のルーツはまず、その言葉にあると思う。ここのエスキモーは皆英語で生活しているが、エスキモー独特の文化のことは祖先の言葉でしか表現できないのです。」 町を離れる前に、このいわゆるDEW LINE世代を代表するような人に出会った。「トゥサーヤクサット」紙という地元の二カ国語二ヶ国語(英語とイヌビアルイトゥックトゥム語)のルイス・グース編集長(42)。彼の柔和な顔を見ると、若い頃にアルコール中毒に悩まされ、暴力的な人間だったとはとても信じられない。 「当時、今のように、自分のルーツについて、もっといろんなことを知っていれば、私の人生をこんなにめちゃくちゃにしなかったんだろう。世の中は変化しているから、いつまでも昔のことにこだわるのは現実的ではない。しかし、先へと突っ走る前に、やはりしっかりと『自分』を知ることは大切だね」 帰りの飛行機から見た、川とツンドラのケタはずれの美しい模様は、幻の絨毯のように、いつまでも続いた。 私は、スイス、アメリカ、日本の文化の狭間に生きて来て、アイデンティティということについて考えることが多い。小型機の中から下の世界を見つめながら、グースさんの言葉を思い出し、深い共感を覚えずにはいられなかった。 近代化の波に揺さぶられ続ける北方の民エスキモー、冷戦時代と「DEW LINE」の建設は彼らにとって「黒船」だったといえるのではないだろうか。こうした時代を生き抜いた老人達は私に、昔の生活を理想化してはならないとよく言った。獲物が得られず餓死した兄弟の話もよくした。 夏の北極圏では、冷戦が終わった今、エスキモーに光りも陰も投げかけた「DEW LINE」皮肉なことに、次々と閉鎖され、無惨な姿だけ残して、廃墟と化していく。 |
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当時、中国朝鮮族自治州にある延辺大学に留学していた門田君からの手紙。
一信掲載紙の原版散逸のため、掲載不可能。門田すまん。 |
二信 沈陽の巻 山海関から列車で六時間で沈陽である。(瀋陽を今はこのように書く。)北洋軍閥の拠点で、そう考えると、なにか夜の駅前のにぶ赤いライトがあやしい。駅前広場の塔のてっぺんに戦車が置いてあるのは中共のしわざか。 胸ぐらつかんで いつもと同じパターンの切符買い闘争するはめになるが、この話は又今度。 |
三信 カンバリクの十万個のスイカ わざと北京をさけて延吉まで来た私であるが、「渡来してからもう一季節たったし、ええかなーと、北京へのイヤガラセを解除して、臥車(寝台車)に乗って行ってきた。 |
四信 「ラサの都は咲く花の」洛陽にでかけようと身支度をととのえてると、突然日本からドル札が届いた。ひきつづいて寮の作業員が次々に”チェンジマネー”にやってくる。安いレートで替えてやると、急に金ができた。「こんだけあったら、ラサまで行けるかもしらん。」とっさの判断でチベット行きを決意した。”チベットでも、お金あったら大丈夫!」とは、このときできたコピーである。 |
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ガルボンブエノの赤い鳥居「ペンソン荒木」 メトロのサン・ジョアキン駅を出て、東のほうにのびる坂道を下っていくと、ものの数分ほどでペンソン荒木の扉の前に立つことになる。扉には貼り紙があり、それにはこんなふうに書かれている。 |
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