ーー西郷隆盛と小林市ーーー
西南戦争との係わりを勉強する。 戻る
倒幕の雄藩、薩摩や長州を介して樹立された明治政府。 しかし、何百年もの間、命よりプライドを重んじる武士が 簡単に チョンマゲ切って刀を下ろすとは、とても思えない。 |
大久保と
たもとを分けた西郷は薩摩に帰り 未来ある若者を集め私学校をつくり、政府と一線を画す。 だが、西郷の思惑とは裏腹に 打倒政府を志す 不平士族のエネルギーだけが高まっていった。 |
明治10年、ついに蜂起。熊本城の政府軍を攻撃するため 薩摩軍は北上するも、政府軍はこれを持ちこたえる。 さらに政府援軍も加わり、ここから西郷の敗走が始まる。 |
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人吉から小林、宮崎へ出て北上し東京を目指すが 政府軍に太刀打ちできず、山間部を南下し再び小林に戻る。 つまり小林は唯一 西郷が二度 宿営した地となる。 (なぜか チョッピリ 嬉しい) |
その後、吉松を経由して鹿児島に帰り着くが 故郷を出てから実に6ヶ月半の月日が経っていた。 |
戊辰戦争という武力によって新政権を樹立させ その後、武士の時代を終焉させるには この西南戦争は必然だったのかも知れない ・・・・。 |
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熊本城を離脱し、宮崎県境の加久藤峠を超える。 西郷も この峠から 小林へと続く この盆地 を眼下に見た筈だ。 ( 初夏の頃、ここへ ワラビ採りに来てた。)西南マップ参照 |
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小林の東端にある岩瀬橋。
(左が小林市街 ・右が宮崎方面 ) 政府軍の追走を防ぐため、火を点けて宮崎へ向かったそうだ。 親父が昔、ここで釣りしてたのを想い出す。西南マップ参照 |
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宮崎から東京を目指すが政府軍に
はばめられ 九州中央部の山岳地帯を南へと強行、須木村経由で再び小林へ ( 山の向こうに須木村はある ⇒ 現在は小林と合併 )西南マップ参照 |
この頃の宮崎県辺りは、未だ江戸時代だったらしい。 と知って、やっぱり今も昔も田舎だなぁ〜 ・・・ と複雑な想いである。 |
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これからも映像と加筆を気長にやります。 |