牛嶋神社(牛島神社)  墨田区向島1丁目4−5



御祭神:建速須佐之男命  (配祀)天之穗日命 貞辰親王
摂社:小梅稲荷神社

貞観2年(860)に御神託によって須佐之男命を祀り、後に天穂日命を祀り、ついで清和天皇の貞辰親王を祀って王子権現と称す。
本所区向島須崎町に鎮座していたが、昭和初期に現在地(水戸藩邸跡地)に移転。

治承4年(1180)源頼朝が下総から武蔵に渡ろうとした時、洪水の為に渡ることが出来なかったとき、千葉介平常胤が祈願し全軍無事に渡ることができ、頼朝は養和元年(1181)に社殿を造営、千葉介平常胤も神領を寄進。
天文7年(1538)に後奈良院より「牛御前社」との勅号を賜る。
永禄11年(1568)に北条家臣大道寺駿河守景秀が神領を寄進。
江戸時代では徳川家光が本所石原新町(墨田区本所2−2)に土地を寄進し祭礼神輿渡御の旅所となる。


以下は新編武蔵風土記稿に書かれる縁起です。呼称は牛御前社。
江戸名所図会にもほぼ同様の縁起があります。呼称は牛御前王子権現社。

貞観2年(860)頃、慈覚大師(円仁)が当地に至ったとき衣冠を着けた老翁が現れこう言った、もし国土が乱れることがあれば我が牛頭を戴いて守護するであろう、我の姿を写し社を造立せよ。
これが当社の御神体であり素盞鳴尊である。
牛頭を戴いて守護とのことから、慈覚大師は牛御前と号して本地として大日の像を彫り、また釈迦像も彫った。
弟子の良本阿闍梨がこの地に残って明王院と牛御前を建立(御神体は姿を写した書画)。
(別当の牛宝山明王院最勝寺は江戸末期では現在の東駒形2にあった、現在は江戸川区平井)

また、清和天皇の皇子(第七子、貞辰親王)が故あって東国に移され、天慶元年(938)に亡くなられたとき、良本阿闍梨が当社傍らに葬して祀り、相殿とした。王子権現がこれである。
治承4年(1180)源頼朝が下総に至るとき洪水で渡る道がなく、千葉介常胤が祈願し船筏をもって渡ることができた。
翌年頼朝は社領を寄進し、以後代々の領主が神領を寄進した。

天文7年(1538)に後奈良院より「牛御前」との勅号を賜わる。
宝物には千葉氏関連の刀剣や旗指物などがある。

建長年中(1249-1258)に浅草川から牛鬼のごとき異形のものが飛び出し、島中を走り回り当社に飛び込んで忽然と姿が消えて社壇にひとつの玉を落とした。
これが社宝の牛玉とされるが古い話なので危うい。

とあります。
類似の伝承がこちらの牛嶋神社の項にあります。


千住の素盞鳴尊神社(別項参照)、蔵前の須賀神社(別項参照)での素盞鳴尊の登場と状況がよく似ており、年代も790年頃〜900年頃です。
素盞鳴尊を祀る場合に明治以前では牛頭天王社であった場合が少なくありませんが、当社では牛頭天王(祇園社)との関連は見えません。
文武天皇時代との関連(後述)と貞観親王とのつながりで牛頭天王が表にでなかったのかもしれません。
素盞鳴尊と牛頭天王、密教と神仏習合、その拡大の時代、これらの関連をうかがい知るヒントになりそうです。

縁起では配祀に天穂日命がありますが、風土記稿にも江戸名所図会にも天穂日命は書かれておらず2坐のみです。
しかし、江戸名所図会に貞辰親王を相殿にした後に「霊告ありて素盞鳴尊第2の御子にて、仮に清和帝の皇子として生を替えたものなり云々」の興味深い1文があります。
素盞鳴尊の第1子、第2子をだれとみるかは当時の考え方によりますが、これが後に配祀となっている出雲臣族の祖の天穂日命に変化しているのかもしれません。

対岸の浅草寺縁起では天穂日の後裔の土師氏、大鷲神社(足立区花畑)にも土師氏が登場していますから、隅田川東岸にも天穂日命が祀られていても不思議はなく、その天穂日命に貞辰親王が重なっていて江戸時代では2坐のみになっていた可能性もあるでしょう。

江戸名所図会では牛御前の名称由来を牛島の御崎からであろうという説を紹介しています。
文武天皇(697-706)時代に各地に官営の牛馬の牧が設営されたとき、当地にも「浮嶋の牧」が設営されており、明治となってからも乳牛が飼われていたそうです。
慈覚大師の牛頭天王よりはるか昔から御牛がいたわけで、牛御前は「牛のおん前の社」というのが正解かもしれません。


風土記稿の「源頼朝が下総に至るとき洪水で渡る道がなく、船筏で渡った」の記述は興味深いです。
洪水のために「道がなく」ということは、通常は歩いて渡っていたことを示します。
当時の隅田川はこのあたりで東西に分流して浅瀬になっており、軍馬を含む軍勢はそこを渡っていたことが推定されます。
鳥越神社縁起にある源義家の渡河、遡れば日本武尊の渡河も同じ場所だったのかもしれません。


図会の左手の堤が折れ曲がっていますが、風土記稿には折れ曲がった向こうあたりまでが古来からの隅田堤であり、折れ曲がったあたりから手前が牛島堤であるとあります。

家康入城直後(1590頃)に牛島堤が築堤されて隅田川の分流部を遮断した可能性があります(三圍神社及び隅田川少考参照)。



当社の現在の鳥居は三輪型鳥居ですが図会では両部型鳥居が描かれており三輪型は見あたりません。



図会の長命寺の南に「芭蕉庵」と書かれています。
芭蕉は住まいを何度も替えていますが、江戸での最後の住まい(1694頃)がここだったのかも知れません。