天祖神社(駒込)  文京区本駒込3丁目40−1



御祭神:天照大神
境内社:御林稲荷神社(倉稲魂神)

境内に榊神社(面足尊、弟六天神)、熱田神社(日本武尊)、須賀神社(素戔嗚尊)を合祀する社があり、社名額には「戸隠」の文字がありますが、これらの詳細と額名の由来は失われています。
近隣に富士講による運営の富士神社があり、当社がその氏子総代になっています。

当社由来書によれば、
1189年、源頼朝が奥州藤原秀衡を征討にむかうとき霊夢をみてその場所を探させたところ、この地の松に大麻(伊勢神宮のお札)がかかっていた。
そこでこの地に八幡宮と当社を建立したと伝えられる。
その後衰微して祠があるのみだったが慶安年中(1647-1651)に堀利直が再興。
現在の社殿は昭和29年造営。
とあります。

江戸時代では神明宮とよばれ、付近の旧地名も神明町でした。
駒込の地名は享保に記された「江戸砂子」によれば日本武尊が高き場所から味方の軍勢をみて、さても駒込めたり、といったことが由来とされますが、日本武尊が騎馬軍団を持っていたのかどうかは?。
しかし、不忍通りの谷を見下ろす位置にあって、近隣に日本武尊由来の根津神社がありますからあながち創作談だけではないかもしれません。

平安末期に伊勢の神官度合氏が源頼朝のための祈祷を行い関東に伊勢神領地が生じたことが縁起につながるようですがそれ以前に祀りの場があった可能性もありそうです。

天保八年(1837)の「東都歳時記」に祭礼の様子が記されており、鹿島踊りが定例で若者が女装して女の腰巻きを帯の下にまとって神事を行い、白山、氷川、赤城の渡り祭礼の警固も同じだったが、宝暦九年(1759)以降その神事は絶えたそうです。

江戸名所図絵の手前の大通りが岩淵街道で現在の本郷通です。
鳥居右側に別当の松光山大泉院(聖徳太子作の雨宝童子像をご神体とした)がみえますが、現在は消滅しています。
図絵に摂社らしき小鳥居が六つみえ、八幡社があったようですが、現在は3社合祀の小社殿と稲荷のみです。
境内左手のやや大きい建物は地蔵堂で現在も残っています。
この周辺には幕府お抱えの鷹匠が住んでいて鷹の訓練などの御用地がありましたが、当社の西側に門構えのある敷地がありますからこのあたりが鷹匠の住まいなのかもしれません。