素盞雄神社(飛鳥神社)  荒川区南千住6丁目60−1



工事中

御祭神:素盞雄命、事代主命(飛鳥大神)、大己貴命
境内社:稲荷神社(倉稻魂命)、菅原神社(菅原道眞)、福徳稲荷神社(倉稻魂命)
    浅間神社(木花咲耶姫命)、熊野神社(伊邪那美命)、日枝神社(大山咋命)
    若宮八幡神社(應神天皇)

当社の縁起由来では、
延暦年間(782−806)に黒鎮という者の住まいの近くに小塚があり、その奇岩が連夜奇光を発するので拝していたが、795年に2柱の神が現れ、素盞鳴尊大神と事代主命大神であると名乗った。
黒鎮は祠を建て、後に素盞鳴大神の社殿と飛鳥大神の社殿を建立した。
とあります。

日光道中と奥州道中の合流地点にあり、日光道中は東照宮参拝用に新設された上野寛永寺の東麓を北上する街道です。
往古の奥州道は隅田川沿いに北上し橋場から東へ下総側へ渡る道でしたが、千住大橋(1594)の完成で現在の言問橋の西から分かれて北上するのが奥州道中です。

江戸から北へ向かう最初の宿として千住宿が置かれ、水運の拠点としても栄え、近隣に熊野社、山王社(日枝社)、橋戸社が並ぶのも江戸時代での興隆を示すものでしょう。


江戸名所図絵での社名は「飛鳥明神社」のみであり、世人は混じて箕輪の天王と称していたとあります。
御祭神は大己貴命、事代主命の2座だけで、素盞鳴尊はありません。
江戸名所図絵による社伝縁起では、
延暦年中に比叡の黒珍師が東国での布教の途中に当地に至った。 小塚があり、夜な夜な小塚が瑞光を現し、白衣を着た2人の翁が石の上に降臨し、我は素盞鳴尊の和魂大己貴命なり、またひとりの翁が我は事代主命なり、と名乗った。

小塚の上にあった瑞光石(刑石ともいう)の上に2神が現れたというが、これは上古の荒墓ではなかろうか。
とあります。



小穴がたくさんあいた石で確かに墓の蓋石にみえます。
(すでにだれかが盗掘しているだろうなあ(^^;)
往古の地形では入間川(後に荒川)の南側の湿地帯にあって、わずかに高台になっていた場所と思われます。(江戸地勢図参照)

隅田川周辺の社の縁起からも、出雲系の人々の小集落がここにもあって、その子孫が先祖を祀っていた、ありえると思います。


新編武蔵風土記では、飛鳥権現牛頭天王合社とあり、別当は能円坊・神翁寺(本山派修験)です。
(風土記は1822で権現、図絵は1836で明神・・はてさてどういう意識の違いでしょうか)
世人が混じて箕輪の天王と称した、というのは「素盞鳴尊の和魂である大己貴命」の解釈によるものかもしれませんが、書紀を読む限りでは登場するはずのない解釈と思います。

だれかが、大己貴命の祭祀であったところに、素盞鳴尊(牛頭天王)を習合させるために和魂の考え方を持ち込んだのではないでしょうか。
それがいつかはわかりませんけれど、少なくとも名所図絵の著者にはそれが混じり込んできたもの、の情報があったのかもしれません。

往古では大己貴命と事代主命を祀る社であったものが、いつの時代からか牛頭天王が習合され、明治にはいって牛頭天王が素盞鳴尊となったのだろうと考えています。


僧侶らしき人物の前に素盞鳴尊(牛頭天王)が現れる縁起は、蔵前の須賀神社や牛島神社に類例があります(別項参照)。
年代的にも類似であり、この頃に密教僧が各地で布教活動を行い、地元にあった祭祀に神仏習合を行っていたことがうかがえます。

三圍神社(別項参照)も天台系僧侶(三井寺)が縁起に登場しており、こちらでは稲荷です。
牛頭天王(疫病退散)も稲荷も現世での御利益を得ることが主眼とみえ、それをもって流布されていったことが推定されます。

なお、本山派修験は京都の聖護院を中心とする天台密教系の修験で開祖を役行者として平安末期に確立しています。
園城寺(三井寺)にその修行僧が多く登場したようです。
修験には当山派もあり、こちらは真言密教系で金峰山など山岳寺院を中心としていて本山派より少し遅れて登場しています。

当社縁起の比叡の黒珍なる人物が延暦年間であれば、天台の密教僧か修験の黎明期の人物ではないかと思われます。