須賀神社  台東区浅草橋2−29−16


工事中

御祭神:素蓋鳴尊

当社の「嘗社牛頭天王線起」(1642年当社別当による奥書あり)によれば、当社は尾張国津嶋牛頭天王の勧請とあります(愛知県津島市の津島神社と思われる)。
推古天皇時代に疫病が流行ったが、このあたりに神詞があり在郷の人々がこれに祈ったところ病が治ったそうで、これを創祀としています。

当社に所蕨される「天王塚碑文」には、
推古天皇9年に疫病が流行ったとき、当地に法喜という隠者がいた。あるとき白衣の異人が海岸に現れ(身長三丈余という、約9m)、我は牛頭天王なり我を祀れば疫病を避けることができる、といった。
法喜が顔をあげると異人は消えており、どのように祀ったらよいのか思案してると、旅僧がやってきてこの話を聞き、「有合う木」で牛頭天王の像を彫って去った。
とあるそうです。

江戸中期の「求涼雑記」には、誰が勧請したかわからず、明和元年(1764)頃から700年前であるから天暦(947-957)であろう、とあるそうです。
江戸名所図絵でも天暦年中の鎮座であるとしていますから同じ情報源かもしれません。

これらが正しいなら当社が牛頭天王を祀るようになるのは950年頃とみるのが妥当そうです。
推古時代に法喜という隠者がいたというのはそれ以前からなんらかの祭祀が行われていたことを示すものでしょう。
隅田川上流の隅田川神社(別項参照)には往古に海神が上陸したという伝承があります。

鎌倉初期には江戸重長が現在の皇居付近に江戸城を初めて築いています。
吾妻鏡、源平盛衰記、義経記などによると江戸重長は「八ケ国の大福長者」であり、多数の漁民を支配して西国の船数千艘があったそうです。

数千艘は誇大にせよ、少なくとも鎌倉初期では近畿や九州方面と交易していたことがうかがえます。
推古時代になんらかの有力豪族が太平洋航路で交易していた可能性も十分あるでしょう。
(輸出したのは鉄、硫黄、馬といったところか)

当社では海岸に異人が現れたとしており、尾張の津嶋牛頭天王社が海部郡(往古の津島市付近は海)にあることから海人系とのつながりによる祭祀がまずはあり、後に津嶋の牛頭天王が運ばれて重なった可能性がみえます。


八坂神社(祇園社)縁起によれば、656年に高句麗の使者が新羅の牛頭山の素盞鳴尊を山城国愛宕(おたぎ)郡八坂郷に祀って八坂姓(馬養部)を賜ったことを縁起としています。
牛頭天王の登場はこれ以降と見るのが妥当と思われます。

千住の素盞鳴神社(別項参照)でも延暦14年(795)に黒珍なる者の前に老翁が現れて牛頭天王を名乗る縁起があります。
また法喜や黒珍といった名が残るところからは牛頭信仰の広まりには僧侶等が介在している可能性もみえます。


江戸時代での当社は、祇園社、蔵前牛頭天王、江戸神社、団子天王様、団子様などと呼ばれていました。 蔵前は武士の禄米を金に換えるなど米商人(札刺)が多数いて祭礼も盛んで、当時の江戸十社に含まれていたようです。
明治の神仏分離令によって社名が須賀神社に改名されています。
当社の祭事に笹団子がありますが、病治癒を感謝して団子が供えられたことが由来です。