下谷神社  台東区東上野3丁目29−8



御祭神:大年神 配祀:日本武尊

当社由来書によれば、聖武天皇の御代天平二年(730年)に峡田の稲置らが、大年神と日本武尊の御神徳を崇め奉って上野忍ケ岡の地にこの二神をお祀したのが創めで、879年に田原藤太(藤原秀郷)が相馬に向かうとき当神社に参篭して朝敵平将門追討の祈願をなし、その平定の後報恩のため社殿を新に造営した、とあります。

江戸名所図会では祭神は倉稲魂命で行基の作という十一面観世音像が本地であると書く程度で、大年神や日本武尊の話はありません。
稲荷社が登場するのは秦氏関係の伝承に和銅4年(711)があり、東国での登場は842年に小野篁が陸奥に陸奥守として着任したとき、開拓と殖産の神として祀ったのが最初の記録のようです。

延宝8年(1680)に広徳寺門前に移転した際には「正一位下谷稲荷社」であったそうで、江戸の稲荷社としては最古の部類とみえます。
(現在は稲荷として大年神を祀りますが、そのあたりに「稲荷」の複雑さがあるかもしれません)

藤原秀郷は騎射(流鏑馬)の祖ともされる武人、おそらくは日本武尊に戦勝を祈願したのでしょう。
稲荷社でも京都の藤森神社は素盞鳴尊と日本武尊等を祀り武芸(馬術)の神となっているので、藤原秀郷時代に藤森稲荷系の稲荷と関連していた可能性もあるかもしれません。

それ以前では、お隣の五条天神社が出雲の神と日本武尊を祀っていた状況と同様に、上野山の古墳群の被葬者達(おそらくは出雲系の人々)が祀っていた神々が大年神であり、日本武尊東征がこれと結合し、聖武天皇寺代での創祀となったのではないでしょうか。

縁起に1627年に寛永寺建立(1625)で上野山から山下に移転し、狭いために1680に広徳寺門前に移ったとあります。
江戸地図の山下に正法院がありここが別当となっていますから当初はその付近に移転していたのかもしれません。

明暦の大火(1657)以後、江戸市中の多くの寺がこの付近に移転して寺が密集しました。
当社の隣に大工屋敷がありますが屋敷ですから一般大工ではなく宮大工とか幕府のお抱え大工の住まいと思われます。
周辺は武家屋敷と下級武士の住居がたくさんあり、名所図会でも武士と脇差の人物が数人参詣していますが、そういう土地柄であったことがうかがえます。
現在もこの付近には仏具店が並んでいます。