鷲神社(浅草)  台東区千束3丁目18−7



御祭神:天日鷲命 日本武尊

縁起では「天照大御神の岩戸隠れで天手力男命が天之岩戸を開き、天手力男命の子が弦という楽器を演奏し、その弦に鷲がとまったのでこの神を天日鷲命と称する様になった」
また、日本武尊東征討の時、社前の松に熊手(武器)をかけて戦勝を祝ったとあります。

日本書紀の天の岩戸の一書に「粟の国の忌部の遠祖天日鷲命の作る木綿(ユフ)を用い」と天日鷲命が登場しています。
延喜式神名帳によれば、阿波国には忌部神社があり麻植神あるいは天日鷲神と称すとあります。

古語拾遺によると、忌部氏の祖は天太玉命でこれに従う五神があり、そのうちのひとりが天日鷲命。
天日鷲命は穀(カジノキ)・木綿などを植えて白和幣を作ったとされ、その子孫が木綿・麻布などを朝廷に貢上しています。

天太玉命の孫の天富命は、阿波忌部を率いて東国に渡り、麻・穀を植え、また太玉命社を建てたのが安房社で、これが安房の地名の源です。
木綿ユウ(タク布)は梶カジノキの皮で作る布で、麻とならんで重要な古代の繊維で、東南アジア〜ポリネシア、ハワイではタパと称しています。

日本武尊は隅田川周辺に複数の伝承があって先住者と抗争した様子が見えませんから、ここでも繊維を作る人々が祀る祖先神(天日鷲命)に日本武尊が戦勝祈願した可能性はありそうです。

ただし、鷲神社は江戸名所図会(1832)には記載がなく、江戸末期の地図(1860頃)で登場しています。
この時代は天保の大飢饉、江戸大火、奢侈禁止令など経済の困窮時代ですから江戸末期に商売繁盛を願う人々が創設したか、あるいは別の祭礼を商売繁盛に変化させていったのかもしれません。

吉原への入り口は日本堤の大門だけですが、鷲神社の酉の市の日だけは裏木戸を開けてここからも吉原へ入れるようにしていたそうです(別項吉原神社参照)。


足立区の花畑(旧花亦村)に大鷲神社があります。
利根川水系の低湿地帯に大宮台地がはいりこむ位置にあって、花畑古墳群があり(現在は住宅地となって消滅)円筒埴輪が出土しています。
ここから2.5kmほど西には古墳時代の集落跡と伊興古墳群もあります。

江戸名所図会によれば花亦村の農民が酉の日に鶏を奉納し、浅草寺の堂前に放つのを旧例としていたそうです。

江戸名所図会の記述では、「縁起と御祭神不明なれどかっては土師大明神であり浅草寺の奥の院とも世俗がいうところから、浅草寺の縁起である土師臣中知との関連の縁起であり、出雲臣の祖天穂日の子であり土師氏の祖である建比良鳥命を祀り、ハジがなまってワシとなったのではないか」、と類推しています。

すなわち江戸時代の花畑(花亦村)の大鷲大明神はオオワシであってトリではなかったということです。
(こちらも日本武尊が縁起です)

花畑の土師(土器造)の祖の建比良鳥命と浅草の繊維の祖の天之日鷲命とが結合し、花畑の大鷲神社の酉の日の放生会が江戸末期に浅草で商売繁盛に変化して「浅草の鷲神社」が登場したと考えることができるでしょう。
花畑の大鷲神社がオオトリと称されるようになるのは浅草の鷲神社オオトリの酉の市が盛んとなってからかもしれません。


浅草鷲神社の隣に長国寺があって長国山鷲山寺(開祖は日蓮、千葉県茂原市鷲巣)の末寺で1823年に鷲大明神を開帳したようです。
鷲神社の事実上の別当だったということです。
江戸名所図会には記載なく江戸末期の地図にはあることからも鷲神社の創祀はこのときとみてよいでしょう。

花畑の大鷲神社の別当は鷲王山正覚院で真言宗ですから寺としては長国寺とは無関係でしょう。
鷲王山と鷲山、どっちも鷲、神社名の由来はここからかもしれず、いわば偶然の一致か??

熊手の販売は花畑が先で、浅草での熊手販売は酉の日だけに限って認められていたのだそうです(安永年間(1772-1782)の協定らしい)。

推察にすぎませんが・・花畑の熊手は実用品として古くから鶏を放す放生会のときの「浅草の市」で売られていた。
このときに縁起物の熊手も登場していたかもしれませんが、有名になるのは1823に開帳された長国寺の鷲大明神と酉の市からではないでしょうか。
もともと当地に日本武尊伝承もあって、花畑の大鷲神社の伝承と熊手ともどもに取り込まれたと考えることができそうです。


では熊手にくっついているお多福(おかめ)の面はなんでしょうか。
ひとつに、京都で最古とされる大報恩寺の本堂建立(国宝、1227頃とされる)の棟梁の女房の「おかめ(阿亀)」伝承があります。

もうひとつ、江戸時代中期〜明治初期の禅宗の僧の書物に「ある説に、足利の末頃のある神社に亀女という巫子がいて天鈿賣命を信仰していた、その見目は悪いが愛敬があって心もよく、どんな悪者も亀女を見ると改心したことからその顔を面にしてお多福と名づけて広めたという、一説には宇受売命の御顔に似せたとも伝えられる」とあるそうです。

はてさて・・
「阿亀」伝承はいささか面白談でもあり、当社との関連性がみえませんが、「亀女」伝承は天之日鷲命と天の岩戸の関係から天鈿賣命が重なってきます。
吉原遊郭では遊女が遊びでお多福の面を使って興じていたそうで、洒落で熊手に吉原の遊びが加わった、そのあたりが実際なのかもしれません。