元三島神社  台東区根岸1丁目7−11



 

承久の乱(1221)で河野水軍は後鳥羽上皇側に味方してほぼ滅亡しましたが、北条時政の娘(政子の妹)を母とした河野通久は鎌倉側にあって河野氏族を継承しました。
後の蒙古襲来(弘安の役1281)で河野通久の孫の河野通有は九州へ出兵、勝利して上野山へ帰り、愛媛県大三島の大山祇神社を上野山の河野館に勧請したことが当社(旧三島社)の縁起です。

下って、旧三島社は徳川幕府から社領を受けますが(位置不明)御用地となったために浅草小揚町(現、蔵前4)に移転します(1650)。
浅草小揚町から当地に再び移転したのは金杉村(現在の根岸〜下谷)から遠くに社が離れてしまったため氏子の要望によるもので、当地にあった熊野権現社と合祀して現在の元三島神社となりました。

御祭神:大山祇命 、(配祀)上津姫命 下津姫命 和足彦命 身嶋姫命、(合祀)伊佐那岐命


鶯谷駅裏の盛り場の真ん中にあり下階が飲食店、その2階に鎮座します。
それでも境内にはいるとふっと喧噪から離れます。

台東区には三つの三島神社があります。当社と浅草三島神社と下谷三島神社です。
縁起はすべて同じですが、江戸名所図会に記載されているのは浅草三島神社で当社と下谷三島神社は記載がありません(江戸末期の地図(1850頃)には浅草三島神社と当社の2社が記載されています)。

縁起では1650に浅草に移転とありますが、江戸名所図会には浅草三島神社は、元禄年中(1688-1704)に下谷坂本(現:下谷1〜下谷3)にあった社を浅草に移転したとあります。

新編武蔵風土記稿には寛永6年(1629)までは小名根岸(位置不明)にあって御用地となったために移転したがご神体を熊野社に仮設置していたのでこの地を元三島という、とあります。
上野寛永寺の造営開始が1625頃ですから、旧三島社の最初の移転がこれかもしれません。

以後寛永寺には社領が次々に幕府から寄進されてゆきます。
縁起と名所図会の移転年に数十年のずれがあるのは、明暦の大火が1657ですから浅草移転直後にこの大火で焼失し、いったん下谷坂本に再建された後に再び浅草に移転したことが錯綜しているのかもしれません。

浅草から当地に再び移転したのは江戸名所図会の完成(1832年)〜1850頃ということになります。

なお、足立区の扇2丁目にも三嶋神社があります(未散策)。
こちらの縁起は江戸初期にその地の開拓を行った阿出川権左衛門知康の勧請(1620頃)によるようで、別当が当社と同じ金杉西蔵院となっているので、これも上野山にあった旧三島神社が原形である可能性もあります(金杉西蔵院は下谷三島神社の地図参照)。