三島神社(下谷)  台東区下谷3丁目7−5



御祭神は大山積命、配祀に身島姫命、和足彦命、上津姫命(雷神)、下津姫命(竜神)
境内社に火除稲荷社(保食命)、旧には御崎稲荷、地主神の可能性あり
境内に雷神を封じ込めたという井戸があります。

縁起は別項の元三島神社とまったく同じです。
蒙古襲来(弘安の役1281)で河野通久の孫の河野通有は九州へ出兵、勝利して上野山へ帰り、愛媛県大三島の大山祇神社を上野山の河野館に勧請しました(旧三島社、推定上野山中)。
(当社の神主さんは河野通有の代々の子孫だそうで、現在は女性の神主さんです)

下って、旧三島社は徳川幕府から社領を受けますが御用地となったために浅草小揚町(現、蔵前4〜寿4)に移転しています(1650)。
江戸末期の地図には元三島権現社と浅草三島神社が記載されていますが当社は記載がなく、当地は火除の空き地になっています。

旧三島社は上野山中から浅草や根岸へ移転を繰り返しています。
(元三島神社参照)(浅草三島神社参照)
元三島神社と浅草三島神社は別当が金杉西蔵院で、元三島社と当社の真ん中の位置にあります。
当社には別当があった様子もなく、明治の神仏分離以降に当地に建立されているとみえます。
元三島神社は金杉村の西端にあり、当社は明治にはいってから金杉村の東端に建立された、といったところでしょう。


旧日光道中(現、金杉通り)に面しています。 新編武蔵風土記稿に金杉村の地名由来は鶴岡八幡宮の文書(1399)に当地に金曽木三郎なる人物の事跡がありこれによる、とあります(当地に金曾木小学校あり)。

江戸末期の地図には近隣に御獄社、石稲荷社、稲荷社があり、当社の場所には火除地があります。
御獄社が配祀の木花開耶姫命、日光道中近くにあった稲荷社が地主神の火除稲荷社となっていると推定されますが詳細は不明です。
なお、石稲荷社は下根岸稲荷として江戸地図と同じ場所に現存しています。