三島神社(浅草)  台東区浅草寿4丁目



縁起は別項の元三島神社とまったく同じです。
蒙古襲来(弘安の役1281)で河野通久の孫の河野通有は九州へ出兵、勝利して上野山へ帰り、愛媛県大三島の大山祇神社を上野山の河野館に勧請しました。
下って、旧三島社は徳川幕府から社領を受けますが御用地となったため、1650に浅草小揚町(現、蔵前4〜寿4)に移転します。

元三島神社縁起によれば、金杉村(現在の根岸〜下谷)から遠くに社が離れてしまったために氏子が要望して浅草小揚町から根岸に再び移転して元三島神社になったとあります。

御祭神は大山祇命、摂社に石稲荷髪稲荷神社


下階が駐車場のコンクリート造りです、商業地の真ん中の狭い敷地では神様もたいへんです。

江戸名所図会には浅草三島神社は、元禄年中(1688-1704)に下谷坂本(現:下谷1〜下谷3を含む広範囲)にあった社を当地(浅草駒形町の西2丁ほどの位置)に移転したとあります。
1丁は約109mですから、名所図会の時点では現在地でほぼ間違いないと思います。

縁起では1650年に小揚町に移転とありますが、これは現在の蔵前3及び4丁目付近から当地の寿3丁目に至る大名屋敷の並ぶ当社の南隣になります。
移転年に数十年のずれがありますから火災ないし大名屋敷設置のために小移転しているのかもしれません。
(この付近は「なになに代地」といったなんらかの移転による代替地名が入りくんでいます)

台東区には元三島神社と下谷三島神社と当社がありますが、江戸名所図会に書かれているのは当社のみです。
この3社の関係はいささか複雑です(それぞれの社を参照)。

江戸末期の地図(1850頃)にはそれぞれ現在地の元三島権現社と当社が記載されていますが、下谷三島神社は記載がありません。
江戸名所図会の完成は1832年ですから、江戸初期の三島神社は寛永寺東麓にあり、1650に浅草小揚町に移転、1688〜1704頃に現地点に小移転し、江戸末期に根岸に再び移転したことがうかがえます。
移転を繰り返したために複数の三島神社が登場したものでしょう(当社の別当は金杉西蔵院)。

なお、江戸名所図会(1832)には諏訪社がいっしょに描かれていますがこれは現存しません。
江戸末期の地図(1860頃)には当社と諏訪社の中間に黒船神社の3社が記載されています。
黒船神社は位置をすこし変えて現存しています。