三圍神社(三囲神社)  墨田区向島2丁目5−17



当社石碑の由来書によれば、千年余り前の創建で文和年間(1352-1356)に近江の三井寺の源慶が復興し、元亀年間(1570-1572)に大災を受け再建、慶長年間(1596-1614)に隅田堤築堤のために2丁ほど南に移された、とあります。

元禄6年(1693)の雨乞神事で名を知られ、享保元年(1716)に三井氏族によって正一位の位を得、明治6年に小梅村鎮座稲荷神社から三圍神社(みめぐり)に改称。

御祭神:宇迦御魂命
境内社:大國神 惠比壽神


新編武蔵風土記稿によれば往古は田中稲荷と称したようで、下記の縁起が書かれています。
弘法大師が稲荷像を彫刻していたとき、杯に梅の実がひとつ忽然と現れたので縁ある土地で我を待てと空に投げ上げた。
それが当地に育ち(それでここを梅香原という)弘法大師が当地に至ったとき祠が築かれたが、いつか祠は壊れたままになった。

文和年間(1352-1356)に三井寺の僧源慶がこの梅の樹に至って霊感を得てそこを掘ると壺がでた。
その壺には右手に宝珠、左手に稲を持って狐に乗る神像がはいっており、このとき白狐が現れて周りを三回まわったので三圍と称した。
源慶が所持していた伝教大師作の延命地蔵像を合わせて草堂に移し、後に社と寺を造営して延命寺と名付けた。

その後元亀年中(1570-1572)に火災により寺社ともに全焼したが、天正年中(1573-1591)に再建、慶長年中(1596-1614)に堤を築くにあたって当地に移転した。

末社、摂社:
主夜神社(飯綱権現相殿)、道了権現十勝明神合社、五坐社(白藤稲荷、金比羅、宇賀神、不動、弁天)
大黒恵比須合社
石像2体(現在の裏手にある夫婦翁の由来と同じ由来を記載)

これとは別に三圍山祠碑の全文?が記載されており、上記とほぼ同じ内容を含んでいます。
(延命寺には大岡政談の縛られ地蔵などがあるとありますが、延命寺は葛飾区東水元8に移転しています)


江戸名所図会によれば元禄六年(1693)に村民が雨乞いをしたおり、俳人の榎本其角が参詣し村民に代わって一句を奉っており、これ以降に当社の名が広まるようです。

牛島みめぐりの神前にて雨乞いするものにかはりて
「夕立や田をみめぐりの神ならば」
あくる日雨ふる
(五元集/其角1747)


当社の裏手に3本足の三柱鳥居がありその中央に井戸がありますが、江戸名所図会にも新編武蔵風土記稿にもこれは記載されていません。
京都の木島坐天照御魂神社(蚕の社)などに3本足の鳥居をもつ神社があります。
これらの社では秦氏族、賀茂氏族、三井寺、三井氏族、といった関係が古来からあったとみえますが、当社の三柱鳥居は享保元年(1716)の三井氏登場以降、おそらくは明治にはいってから置かれた鳥居とみえます。

明治以降では三井財閥系の信仰が厚く、裏手には昭和の軍閥とのつながりがうかがえる石碑があります。
境内に三越のマークを刻んだ用途不明の大きな石がありますが、これも呉服の越後屋との関係とみえます。


「文政寺社書上」に旧地は大川中島にあったが、家康入城後に川一筋に相成り・・社地拝領、とあります。
また、天正日記(内藤清成の日記)に家康入城の年(1590)に隅田川で洪水があり堤を築く記述があります(トップ頁の利根川東遷概史参照)。

当社縁起に旧地は現在地の北2丁(218m)とあり、現在の隅田堤が折れ曲がった部分に相当し、旧地は隅田川中洲の先端部分にあったことが推定されます(隅田川少考の項参照)。

その位置と雨乞い逸話を含めればその原形は隅田川が分流する分岐点に祀られていた水神であり、文和年間(1352-1356)に延命寺が建立されて神仏が習合、江戸市街の発達に伴って稲荷信仰が加わり、三井系氏族の奉斎によって商業関連が前面にでたものではないかと思われます。