小網神社  中央区日本橋小網町16−23



御祭神:倉稲魂神、市杵島姫命(弁財天)、福禄寿
境内社:祖霊社(氏子の祖霊)

由来書によれば稲荷堀稲荷トウカンボリとも称し、伊勢神宮を本宗として文正元年(1466)に産業繁栄と疫病鎮静のために鎮座され、後に太田道潅が社地を献じ小網の名は太田道潅によるとあります。

神社庁の平成祭りデータによると、
恵心僧都(源信、942-1017、)の開基による観世音と弁財天とを安置する万福庵があり、1466年に疫病が流行ったとき、網師の翁が海上で稲穂を得て万福庵で数日を過ごした。

恵心僧都が庵主の夢枕に立ち、その翁を稲荷大明神として勧請すれば疫病は消えるであろうと告げた。
翌朝に翁の姿は消えていたが、翁を小網稲荷大明神と称えて祀ったところ疫病が静まった。
後にその神徳を聞いた太田道灌が社地を献じ小網山稲荷院万福寺と名付けた。
と、あります(小網は大中小の地引き網のうちの小さい網)。

この縁起は三圍神社(別項参照)とパターンが似ており、密教僧による神仏習合の流れのなかで稲荷信仰が広まっていったことがうかがえます。

社殿は大震災で焼失し昭和4年に造営。
太平洋戦争で当社のお守りを持った者が多数無事帰還したことから強運をもたらす社とされるようになったそうです。
社地は小さいですが、社殿は日本橋地区に残されている唯一の木造檜造りの神社建築だそうで、5月28日の大祭や11月28日のどぶろく祭はたいそうな賑わいとなるそうです。


当社は江戸名所図会には記載がなく、江戸末期の地図にもありません。
(明星稲荷(小網富士)がありますが、これは別途現存)

小網山万福寺(天台宗)は浅草新寺町(現:元浅草4丁目)にあり、少なくとも明暦の大火と江戸末期の大火で2度消失していると思われます。
江戸地図では稲荷堀トウカンボリは小網町の南端にあり、現在もとうかん堀通りの名が残ります。

島津家の「琉球外国関係文書」の弘化3年(1846)の江戸大火の報に「稲荷堀稲荷焼 尾張殿御蔵屋敷焼・・」とありますから、このあたりに江戸末期の稲荷堀稲荷(小網神社)があったとみえます。
焼失後どうなったかわかりませんが、明治になってから現在地に再建されたのかもしれません。

この付近の川岸は倉がずらりと並ぶ「倉地」で、鎧の渡しがありました。
図会の渡しの左側は丹後田辺藩牧野氏の江戸屋敷です。
鎧の渡しに橋がかけられるのは明治5年になってからです。

工事中