今戸神社  台東区今戸1丁目5−22



御祭神:應神天皇 (合祀)伊弉諾尊 伊弉冉尊

康平6年(1063)に源頼義と源義家が勅命で奥州の安部貞任を征討するとき、鎌倉の鶴ケ岡と浅草今之津村に京都の石清水八幡を両社に勧請したのが縁起です(今戸八幡宮)。
1081年源義家が参拝し勝利したので社殿を修復し、1190年に奥州征討に勝利した源頼朝が社殿を再建し、後に神領を寄進しました。

その後兵火によって何度も社殿を失いましたが、1636年に徳川家光が江戸城改築の残材によって再建しています。
関東大震災で全壊しましたが復興し、昭和12年に浅草新町にあった白山神社と合祀されて今戸八幡宮から今戸神社に改称されています。
(白山神社は千葉氏が1441年に加賀の白山比盗_社を勧請したものです)



縁起によれば当地の地名は今之津の呼称となっており、新編武蔵風土記稿にも北条役帳の記載地名は石浜今津であったとあります。
その後に今都となり、江戸正保図(1643-1647)では今戸村となっていますから江戸初期に津〜都〜戸に変化しているとみえます。

かっては「津」であり船着き場の機能を持っていたものが、隅田川治水と東岸の陸地化によって湊ではなくなったための地名変更と思われます。

南に山谷堀、北西に日本堤の起点があります。
旧千束池が埋め立てられて江戸の市街地が広がってゆきますが、そこを洪水から守りその北側が遊水池となるように築堤されたのが日本堤で、山谷堀は遊水池の排水路として掘られたものと思われます。

千住から石浜付近へ塩入土手が作られていますが、江戸の発達とともに遊水池側も市街化して築堤されたものでしょう。


山谷堀は吉原へ通う唯一の水路で、猪牙船チョキブネで遊客を運び、今戸橋の上を渡る人より船で橋をくぐる人の方が多いといわれ、山谷堀の北には高級料理屋の八百善がありました。
(現在は江戸東京博物館内にある料理店八百善がその名を継承しています)

天保12年(1841)年に現在の日本橋人形町にあった歌舞伎の中村座(猿若)と市村座が焼失し、贅沢禁止令もあって歌舞伎廃絶の危機にあったとき、町奉行遠山金四郎の計らいで当地に移転して存続しています。
しかし、明治になってそれらは当地を離れてゆき、関東大震災後では遊興街の面影は薄くなっていったようです。

当地は今戸焼きで有名ですが文献上の歴史は新しく、1580頃に千葉氏の家臣がここで焼き物を始めたとか、徳川家康入城後に三河の陶工が移住してきたなどとされています。
ただし、浅草寺縁起に土師氏が関与しているところから、その起源ははるか古代に遡る可能性もみえるところです。

近隣に浅草浅草寺の支院の待乳山本龍院(待乳山聖天)があります。
推古天皇時代に干ばつで村民が苦しんでいたときに十一面観音が歓喜天に姿をかえて村民を救ったことが縁起となっています。
江戸初期の開発では隅田川西岸の砂利や土砂が採掘されて、丘であった場所が平坦になりましたが、真土山だけが残り展望の名所となっていました。

工事中