江戸川は下流域も人工河川


江戸川(利根川と渡良瀬川の合流以降)の流路は1625の新川通し開削に続いて1641の関宿〜野田間のバイパス流路の開削など上流のほぼすべてが治水のために流路を変えられた人工河川です。
下流域では今に見える江戸川が大昔からそこにあった・・それが常識です。
否、三郷市以降の江戸川も江戸初期に開削された人工河川である、ことを考察してみます。



利根川の下流域は正保図(1644〜1648)の時代では、隅田川筋、古利根川筋(現中川)、利根川筋(現江戸川)の3筋があります(古利根川筋と利根川筋の間にもう一本無名の水路がある)。
現中川筋が古利根川、すなわち正保図時代ではここが往古の利根川だった。
しかし、太政官符にも吾妻鏡にも義経記にも「スミタ」と「フトイ」の2筋の河川名しかでてきません、3筋目の川はどこから現れたのでしょうか。

1947年のカサリン台風による桜堤決壊の被害調査図参照(墨部分は1m以上の浸水)。
河川が標高差ゼロの平野に至ると少しでも低い部分を探して蛇行し、曲がりの外側に自らの運ぶ土砂で自然堤防を作り、洪水で自らそれを破壊してまた蛇行するを繰り返します。
ばらまかれた土砂が沖積平野を作り、川は海へ下ってゆきます。

関東平野ではこれに縄文海退と潮の干満という海面位置(川の流入位置)の変化が重なっています。
自然状態であればいったん低地帯(海)への流路ができれば再び微高地(陸)に流路が登り続けることは考えにくい。
(水の逃げ場がなくなる低地帯中央部ではある程度の蛇行はする)

現在の江戸川の三郷市以降の流路は徐々に形成されてゆく沿岸部の狭い沖積地を延々と縦断しており自然河川としてはいささか納得できない流路です。
往古の利根川(旧江戸川)の流路は先の桜堤決壊時の薄墨の範囲にあったのではないか。

野田〜三郷間の流路も台地縁辺に沿いすぎる、正保図から元禄図で新田や新村がこの周辺にぎっしり増えています。
ここも開削された流路? だとすると「江戸川」はすべてが人工河川であり、まさに江戸の川となりますが、野田〜三郷間については当面棚上げとしておきます。


縄文海進時代の海面下の地勢図と縄文海退時の河川流路推定図


ボーリングによる低地帯の地中地形は氷河時代〜縄文時代の地形で縄文海進時代での海中地形と考えてよいと思います。
(縄文海進は日本海側と太平洋側で水位に差があります)
色の濃い部分は氷河時代にさかのぼっての谷底だったと推定されます。

ここに河川による土砂が海に拡散し、干満と潮流による海砂とが混じりせめぎ合いながら徐々に海が退いて現在の地形図のごとくになってゆきます。
上右図は縄文海退時の推定図で、現在地形の+4mあたりまでが縄文海進時代の海となっていたとみて現在の地形での標高+4mまでを青色の濃淡で表示(1m段差)してあります。
(現在地形のままで海だったわけではありません)

海面下の地勢図(地盤図)で谷になっている部分は縄文海進が始まる前に河川が流れていたとみられる谷です。
海中に拡散して流速が落ちた土砂がこれらの海没した谷に堆積すると見かけ上平坦な地形ができます。
これが後に陸地化したものが埋没谷で、墨田区、江東区、江戸川区、足立区、葛飾区、荒川区などは氷河時代〜縄文時代の巨大な谷が埋没した有楽町層の上にあり、これに沿岸部の河川の小さな埋没谷が複合しています。

武蔵野台地側では石神井川と平川が埋没谷を作っています。
下総台地側では流山付近と松戸付近から低地帯中央に向かう埋没谷があり、東葛台地の南には多数の小河川の南流していた埋没谷があって遠浅の海になっています。

縄文海退時の沿岸部は、潮の干満で陸になったり海になったりしながら徐々に海全体が退いてゆき、河川の土砂と海砂の堆積で沿岸に微高地が形成されてゆきます。
台地から流れ出る小河川も若干の流路のぶれはあってもかっての流路(埋没谷)にそって復元されてゆくはずです(土砂を流し出しやすい)。

一時的にこの微高地に河川流が入り込んだとしてもすぐに最寄りの低地帯(海)へ流下し、海がはるか遠方となって最寄りに低地部がない平野を蛇行して流れる場合とは状況が異なります。


現在は内陸となっている足立区の南半分は−40mほどの深い海が埋まった上にあります。
現在は臨海である江戸川区の東半分は−10mほどの浅い海が埋まった上にあります。
さて、どちらが先に陸化したか・・河川が運ぶ土砂と堆積する量と谷の深さ、潮流、これらがそれを決めるわけで、シミュレーションを期待するところです。

入間川下流域はその深い谷の上にあって、利根川土砂によって谷の出口をふさがれて沼地化し、入間川はその沼地(もちろん水平です)に土砂を堆積させながら(出口を探して)蛇行を繰り返したと考えられます。
そのために足立区南部は後世まで湿地帯が残ったのでしょう。

流山付近の埋没谷は往古の坂川の流路でしょう。
縄文海退時の坂川は谷(埋没谷)に沿ってずっと西南まで流れ下って「庄内川」に合流していたものとみられます。
(現在の坂川は江戸川によって遮断されてしまった下総台地西側の水の排水路になっている)

松戸付近の埋没谷は現在の松戸市付近から流れでていた小河川の流路でしょう、これを松戸川としておきます。
(後に現在の江戸川の流路の一部となって消滅したとみえる)

庄内川が坂川の北から流下してきても坂川の低地部に沿って低地帯中央部へ流下してゆき、坂川と松戸川のふたつを貫いて南の微高地へ流れ登る流路は生じないと考えます。


松戸川周辺には縄文遺物出土を含めて古墳時代の遺跡(集落と古墳)が複数あります。
もし庄内川が現在の江戸川の流路であれば、これらの遺跡は大河である庄内川の低地側となってひとたび洪水があれば押し流されるはずで、そのような場所に集落は作らないでしょう。
これらの遺跡群はずっと小さい川、松戸川の川辺にあってその水を利用する集落だったと考えられます。

柴又(柴俣)の地名由来は正倉院の古文書「下総国葛飾郡大嶋郷」養老五年(721年)の戸籍文書に登場する「嶋俣里」とされています。
俣は川の合流あるいは分流の意ですから、嶋俣里とは川が俣となって島のごとくだった地域なのでしょう。
松戸川が庄内川に合流する場所、ふたつの川の合流部の島のような場所、それが嶋俣だと考えられます。
もし庄内川が現在の江戸川の流路であればここに「俣」とみえる地形はできないと思われます。



先の戸籍文書には孔王部(アナホベ)の人名が多数書かれており、アナホベは安康天皇(記紀では雄略天皇の兄とされる)の部民として登場しています。
武蔵側の湯島天神は雄略時代創建の縁起を持ちますから、柴又周辺でも雄略時代(持論456-479)には住人が増えていたと思われます。

古毛長川や古松戸川などの緩斜面は田畑に好適とみえます。早い時期に稲作も登場していたとみておきます。
(ただし弥生時代後期は寒冷時代で千葉の稲作が衰退しているとみえますから、古墳時代になってから)

文武天皇(697-706)の「各地に牧を作る指示」があり、隅田川の牛島付近に浮島の牧が作られています。
川が天然の堀となって馬や牛が逃げず、水が飲める場所なら放牧に最適です。
柴又からは馬の頭の埋納とみられる出土もあり、ここにも放牧地が作られて後に馬津郷(まつさと)と呼ばれる由来になっている可能性大と考えます。
(この祭祀は聖武天皇724-748が禁止している)


青戸の北に弥生〜古墳前期の御殿山集落があって古利根川と古庄内川のど真ん中で危険なようにみえますが、標高差のないふたつの河川の自然堤防がバランスしてより安定な中州ができていたのでしょう。
室町時代では葛西城があって戦国に争奪戦が繰り返されたそうで、利根川と庄内川をまとめて横断できる要衝になっていたのだと思います。

ちなみに青戸の原義は大津オホツではないか、大河の交わるところ津ができて当然です。
津→戸の変化は各地に見られ、葛飾区HPによれば「地元では「あおと」とは呼ばず、「大戸(おおと)」と訛って呼んでいたりもしました」とあります。
鎌倉時代にこの地を本拠とした「青戸二郎重茂」なる武士がいたようでこれを地名由来ともするようですが、武士の方が大を青に変えて姓としたもので、訛りとみえるほうが実は古い呼称、もあると思います。
(北条氏と房総勢力の国府台の戦で「おほつの宿」が登場するようですが原文未確認)

青戸の南に立石遺跡や古墳があって住居跡はでていないようですが、もっと南のやはり利根川のど真ん中とみえる場所に古墳時代の住居跡遺跡があります。
ここも中州ができて古墳時代にはこのあたりまで陸地化が進んでいたとみえますが、江戸前ならぬ青戸前の魚介類を生業とした人々なのでしょう。

ただし、周囲がみな陸地になると洪水時の水の逃げ場がなくなって水没する可能性がでてくるはずです。
青戸周辺が安全だったのは最寄りに海があった時代までではないかと思います。


先の正倉院の古文書「下総国葛飾郡大嶋郷」には甲和(454人)、嶋俣(370人)、仲村(367人)の三つの里があります。
大嶋郷はこれらの中州の島々で、それほど広い範囲ではないと思います。

甲和は小岩ともされ、上小岩遺跡がありますが弥生〜古墳時代初期の遺跡であり後につながる遺跡はいまのところないようです。
発掘状況から0.7mほど下が砂層のようで、縄文海進時に海面ぎりぎりの位置にあったのでしょう。

上小岩遺跡からは漁労用の錘が多く出土するのですが当時でも海からはちと遠いと思われます。
江戸川での漁? もし江戸川が現在位置であれば集落は洪水に押し流されるでしょう。
上小岩遺跡からは住居跡は出ていないようで出土状況から祭祀の場である可能性が高いようです。
もっと東葛台地寄りに本命遺跡があったが、江戸川開削で破壊されてしまった可能性をみておきます。

余談
静岡県伊豆の来宮神社の縁起に(海から流れ着いた神が)「波の音の聞えない七本の楠のある洞へ我を祀れ」とあります。
「海から離れた洞窟に住もうとする神(先進文化を持ち大己貴命を祀る人々)」、ここからイメージするのは「敗れて追っ手から逃れてきた出雲系文化の人々」であります(^^;
来宮神社はその出雲神を主神としながらも日本武尊(AD300頃か)も祀っています。

隅田川西岸にも出雲神と日本武尊を縁起とする社が複数あり、国府台西南端の國府神社も日本武尊が御祭神です。
上小岩遺跡では名古屋付近でだけみられる土器が発見されており、名古屋付近からやってきた出雲系文化を持つ人々である可能性低からず。

東葛台地などの古墳群はAD500頃からの登場です。
奈良盆地の遺跡が唐古・鍵から纒向に移り変わる年代と(AD250頃か、弥生から古墳時代への切り替わり)関東における出雲神と大和王朝(日本武尊→天孫系譜登場)の歴史上での関係、非常に興味深いですがここでは控えます。
余談終わり

甲和→小岩・・小岩は好字とも思えず、住みにくい場所でもあり、小岩は後にその環境から生じた地名とみておきます。
コウワ→カワワ、河輪や川曲であれば音が似ているだけではなく環境も示すことになります。

仲村はどこにでもありそうで、現存地名からではわからないとしかいいようがないです。
なにの仲なのか、村と里は同義で重複するのはなぜか。
「輪中≒曲中」あるいは川の中の村々もありそう、大嶋郷を含めてすべてが川とその環境を意味する地名となります。

平安中期で八嶋郷が登場し、大嶋郷の誤記ともされるようですが・・文字が似ているだけで誤記とするわけにはゆきません。
浅瀬の中のたくさんの島のある郷の意の八嶋でなにも問題はありまん、大嶋郷とおおよそ同地域のこの時代での呼称とみておきます。


上小岩からに西南に中世とされる貝塚群があり、このあたりでは利根川と庄内川が運ぶ土砂が開けた海に拡散し、海の浅い部分では潮流の運ぶ海砂と混じって広大な干潟になっていったと思われます。
なお、貝塚群の北の南小岩で縄文とされる遺物がでているようですがここで縄文はさすがに? いかなる遺物か知りませんが洪水で流されたものか。

その東南の勢増山と椿町の遺物出土は弥生後期〜奈良平安とされています。
陸地といっても水利のない土地、ここで活動するのはやはり漁労者、上小岩遺跡と直結する人々かもしれません。
ひょっとすると行徳塩田の祖先の可能性もなきにしもあらず。

このあたりが弥生時代の下総側の海辺となりそうですが、隅田側より海が浅いとはいえだいぶ早い陸地化とみえます。
(ただし市川市南部を除く、後述)

現在の東京湾の潮流では上げ潮の時は南西側から潮流がやってくるようです(海上保安庁潮流予測)。
往古も同様なら利根川の土砂は下総側の浅海により多く堆積してゆく思われますが、このあたりも精細なシミュレーションを期待しておきます。


江戸川は松戸市街の西で奇妙な屈曲をしています。
一般にはこの屈曲を蛇行とするようですが、坂川を貫いた上にいったん低地部(≒海面)へ向かった蛇行が陸地へ登るはずがありません。

「松戸川」の南では、松戸川あるいは東葛台地の小さな谷筋からの水利があったと思われます。
家康は1610頃にこの地の200〜300石を家臣に報償として与えています。家康以前にすでに開墾された田畑があったことを示すものと思います。

この屈曲はその田畑を江戸川開削で破壊することを避けるために、往古の「松戸川」の流路を利用した迂回だと考えます。
しかし柴又村や金町村との往来を「江戸川」が遮断してしまいますから、村民専用の矢切の渡しが設置されたと考えることができます(いまのところ江戸以前に矢切の渡しがあった形跡はみあたりません)。
この部分の江戸川は松戸川であった部分とそうでない部分の川底の地質が異なるはずで、ボーリング調査を期待しておきます。

江戸川は市川市の国府台の西で東葛台地にぶつかるようにして南へ向きを変えています。
縄文海進時代からの形成とみえる市川砂州の西側がすっぱり切り取られて平坦になっています。
(左図は江戸川開削前の地形を想定して東葛台地の西側と市川市低地部を修正してあります)
谷間を流れる急流ならいざしらず、平野部ではまたまた不自然。


切り取られた部分の東側には自然堤防ができるか、真間川の方向に突き抜けて流れるかのどちらかになるはずですが、どちらにもならずに平坦なままで堤防で遮られているだけです。
しかし真間川(湿地帯ないし入江)へ放流しようとしていた人工開削であるならすべてが納得できます。

当初の東遷計画では市川市の湿地帯経由で放流しようとして微高地(砂州)を削り取ったのではないか。
現在は市川市のどまんなかですが、菅野という地名が示すようにかっては湿地帯だったと思われます。
できるだけ流路を東へ追いやる、そういう意図があるなら十分考えられる計画だと思います。


上左の図は国立公文書館の元禄図と天保図の江戸川流末周辺です。
(この元禄図にはいくつか疑問点があり、天保あたりに書き直されたものではないかと思われます)

元禄図に見える国分川と大柏川が江戸川へ接続する流路、これも不自然そのものです。
縄文海進時代の海底地形でも現在見える砂州のとぎれた部分が埋没谷であり、この埋没谷を横切って西の微高地へはい上がる川などありえません。

上右の図は平安から天保図に至るその部分の変化過程を推定した図です。
当初の江戸川は「真間の湿地」に放流するように開削されたが、市川南部〜行徳一帯の陸地化を目して流路を現在見える位置に掘り直した。
もっと南の一之江新田等への水利を図る意味もあったかもしれません(できるだけ微高地を開削しなおす)。
まったくの推測だけですが利根川を渡良瀬川と直結させる1625の新川通し開削と同年代とみておきます。

元禄図等の国分川と大柏川の「異常な流路」は市川砂州の南側が陸地化したとき、当初の江戸川開削路を利用して放流先を江戸川へ接続し直したためのものでしょう。
当初はなんとか江戸川へ接続できる勾配がとれていたが、しかし・・

天保図で弘法寺の南に溜池が書かれていますがここに溜池を作っても意味はありません。
1783の浅間山の噴火による火山灰の流入で江戸川河床が上昇したために、かろうじて接続されていた国分川や大柏川の水が滞留して沼池になったものと思います。

天保図で大柏川から農業用水とみえる水路が南へ延びていますが途中で消えています。
これを海へ到達させれば江戸川へつなぐ必要はないはずですが、当時としては「真間の湿地」からの勾配がここで限度だったのでしょう。
現在の江戸川と真間川の接続部一帯は排水不良でポンプアップで江戸川に排水し、国分川と大柏川は葛飾八幡の西側の市川砂州のとぎれた部分を南へ流下させています。それが本来の流れだったのだと思います。

天保図で松戸市の西側に坂川が現在と同じように南北に掘られていますが、これも江戸川の河床上昇で東葛台地側の排水不良が生じたためにずっと下流で江戸川へ放流するための開削でしょう(天保図でのこの付近の江戸川の流路が奇妙ですが簡略化?)。

弘法寺の南と葛飾八幡の北西から埴輪が採集されています。
弘法寺の方は古墳から転がり落ちたでもいいですが(^^; 葛飾八幡の方はちと説明困難と思います。
しかし推定図のごときであれば説明は無用。
もっとたくさんの埴輪が「菅野」に転がっているはず・・(柴又周辺も同様か)


万葉に「真間の入江」が歌われています。
433/山部赤人/勝壮鹿乃 真々乃入江尓 打靡 玉藻苅兼 手兒名志所念
葛飾の真間の入江にうち靡く玉藻刈りけむ手児名し思ほゆ
万葉1807の真間の手児名の歌では「浪音乃 驟湊之 奥津城」波の音の騒く港の奥津城、がありますから真間の入江は海であり、その奥に湊があったのでしょう。

現在の市川の地名由来ははっきりしないようですが、真間の入江は武蔵と下総と北への陸路と海路が合流する交通の要所となりえます。ここに市(湊)が生じて不思議はありません。
国分川や大柏川の合流地にある市、そのあたりが地名由来になった可能性もありそうです(真間川は国府台からのわき水(真間の井)程度だったか)。 ただし、真間の入江は次第に土砂で埋まって湿地帯化し、戦国時代あたりでは海陸の交易拠点ではなくなっていった可能性をみておきます。

現江戸川区の南に延びた沖積地の先端に戦国あたりとされる長島屋敷の史跡があります。
このあたりが戦国時代の利根川本流(ふとゐ川)の河口であり、沖積地の南端でもあって中世での湾内海上交通の要衝になっていたのでしょう。
そして、沖積地みずからがここより東への利根川の土砂を遮り、市川砂州の南側〜行徳一帯はまだ海だった。
長島、その名がそれを示すものと思います。

青戸付近の「縄文谷」は−60m、市川の南は−10mしかない浅瀬です。
もし往古から江戸川が正保図の流路であれば弥生〜古墳時代あたりではその周辺はとっくに陸地となって「真間の入江」は存在しないはずです。
国分川と大柏川の土砂だけでゆっくりと埋まっていったのが真間の入江であり、武蔵野台地の日比谷入江や千束池とよく似た状況と思われます。

江戸初期の江戸川開削によって大量の土砂が堆積して急速に陸地化していった地域が市川市の南部。
行徳周辺が非常に軟弱な地盤であるのがそれを示すと思います。
市川砂州の上に胡録神社が2社現存していますが、この社は第六天社の別称であり江戸の開拓村に多数ある社です(別項榊神社参照)。
自然環境の変化と人工的な開発による変化にもまれて変遷を繰り返した地域が市川であろうと考えています。


風土記によれば上篠崎村の東から上今井村にかけて築堤年代不明の江戸川堤の存在が書かれています。
篠崎村は北条役帳に登場し1397以前には存在しており、伊勢神宮の神領にもなっていますから、ここより西岸を洪水と大潮から防ぐ目的だったのでしょう。
(この位置で神領になるということは海産物の奉納でありましょう)
風土記の記述から推定した江戸川堤が上図の黄色の部分です。

堤の外側に前野村と當代島新田があり、堤が築かれてからできた新しい沖積地の新田と思われます。
元禄図で當代島新田の対岸(下総側)に當代島村があり、大河をへだてて同名です。
当初は「真間の入江経由」の土砂によってできた島(當代島=現代島)があり、後に新たな江戸川放流路からの土砂で陸地化すると同時に江戸川によって分断された地域、そのために江戸川の両岸に同名があるのではなかろうか。

風土記に下鎌田村あたりから江戸川沿いに小堤があったとあります。
おそらく沖積地が広がり、江戸川の河口も移動したために新たに堤を作ったのでしょう。
江戸川河口は、大きく西に向きを変えています、海側の自然堤防に手を加えて東へ誘導しているため、とみておきます。
目的は開削前の旧河口とジョイントさせてその内側の干拓、加えて水路としての小名木川との連絡です。

正保図での河口はわけのわからない数本の枝分かれになっていますが、元禄図ではすっきりして河口と水路の2本だけになっています。
正保(1644〜1648)〜元禄(1688〜1704)の間に整理整頓されたのでしょう。



左図で黄色の地名は風土記付属の正保図(1644-1648)記載で現存地名に対応する地名、かっこ付きは現存はしていない地名です。
河川流路は村名の現在地と正保図の位置からの推定です(水色が開削流路と推定)。
複数の村域が合併してそのひとつの村名が現在に残る場合が少なからずで位置のずれがありえます。

正保図には海に達しない無名の水路が書かれていますが、旧流路の残滓を利用した水路だと思います(この水路は江戸以降消滅し、カサリン台風後に新中川として復活)。

正保図で三郷市と葛飾区の境界部に曲がりくねった水路が利根川と庄内川を接続しています。
正保図に猿ケ俣の舟渡が書かれており、風土記によれば神鳳抄(1165)に葛西三郎が伊勢大神宮に御厨(ミクリヤ≒領地)として猿俣を奉献したとあります。

埼玉郡側には伊勢野村があり、現在の天満神社は大日靈尊オオヒルメを祀っています(日本書紀で登場する天照大神の前身のひとつとみえる神)。
猿俣はその西の伊興の古墳群方面と嶋俣方面との連絡路になっていた可能性が高いと思います。

俣は分岐あるいは合流の意、利根川が東西に分流していたものと考えられます。
(サルマタの地名は、俣の動詞「さまたぐ」字訓/白川静、からとみておきます)
利根川に庄内川が合流しているとみなすなら、平安末期では以降の川筋をふとゐ川として認識していた可能性をみておきます。


猿俣から東への分流をそのまま新開削流路に延長接続したものが正保図に書かれる水路でしょう。
風土記に、江戸川側に逆流防止堰を作り不便なためについには遮断して小合溜井(1729)とする記事があります(現在の水元公園周辺)。
かってはもっと低地帯で庄内川と合流していたものを、微高地に開削した水路に無理な接続を行ったことの証だと思います。
西への分流は正保図と元禄図で大きな屈曲を伴っていて洪水の源になりそうですが、現在は直線化しています。
風土記の猿ケ俣村の記事に、1729年にその下流を切り開いて古利根川を直流させ水行順流となった、とあります。

水運路としては関宿から庄内川を下って猿俣から折り返して利根川〜古隅田川に入るのが最短距離とみえますがそうなっていません。
ひとつには猿ケ俣分流の水位の問題で舟が常時通過できる状態にはできなかったこともあるのではないかと思います。

三郷市の幸房村コウボウは1604の松浦幸房(下総高城氏家臣)の開発で、この一帯に正保図では3村しかなく、元禄図ではびっしり新村が増えています。
風土記に1729にこの部分で屈曲していた庄内川(江戸川)を直線に掘り直したとあります。
もし、江戸川開削が幸房村付近からであれば最初から直線で開削するはずですから、少なくとも最初の庄内川(江戸川)の付け替えがこの下流から行われたと思われます。

ならば猿俣からの接続を含めて開削距離は15qほどで、大阪の大和川付け替え(1704)の開削とほぼ同規模の工事となります。
大和川付け替えは1年足らずで完成していますが、こちらはそれより100年前としても工期はせいぜい数年ではないかと思います。
工事時期は「1594の浅間川拡幅によって庄内川が増水する頃」〜「1610の伊予新田が開拓されるより前」(後述)とみておきます。

なお、野田〜三郷間の流路も開削されたものである可能性をみておきますが、地形的な疑問からのみでその他の状況が不明なので棚上げとしておきます。

文献等はなにもなく、複数の状況からの推定ではありますが・・
現在の江戸川下流の川筋は、猿俣で分岐して庄内川と合流していた利根川本流を江戸初期に千葉側の微高地へ付け替えた人工河川。
往古にいうふとゐ川とは利根川本流の下流域の呼称であって現在見える江戸川の古名ではない。

だから、往古の利根川下流域の河川名には「隅田とふとゐ」のふたつしかでてこない。江戸以前には現在の江戸川は存在していなかった。
風土記では吾妻鏡や仙覚の萬葉集註釋を引用して「江戸川」を古名で太井川と云うとありますが、江戸初期の資料がないために600年も前の文献による解釈しかできなかったのでしょう。

風土記編纂者=湯島の昌平坂学問所(1690〜)は地元からの情報収集と現地調査を行っていますが、仮に1600頃の開削であれば編纂時(1830)では230年が経過しているわけで、現代人が徳川吉宗時代の事跡を書くのに等しい。
資料が残っていなければどうにもならないわけで、お膝元の隅田川の牛島堤や日本堤の築造でさえ民間文献の引用による記事のみです。
はるか遠方での情報が消えていても不思議はありません。170年前の昌平坂学問所が発見できなかった資料が現在のどこかに残っているかどうか・・はてさて。

風土記では隅田川の牛島大堤に並べて江戸川大堤の項があり、栗橋付近から海辺までの間の川に沿って設ける、と書いていますが、いつごろ築堤したかは触れておらずやはり具体的情報がなかったとみえます。
開削した土は自動的に堤になるわけで、江戸川大堤が江戸川開削と同義ではないかと思います。
牛島大堤と江戸川大堤は同年代の可能性大とみます。利根川のふたつの分流である西の隅田川と東のふとゐ川、この治水を同時に行う、自然なことと思います。


江戸以前と江戸初期の隅田川東部推定図


正保図では利根川(現在の江戸川)の川筋に「なになに新田」が少なからずあり、元禄改正図ではそれらの新田が「なになに村」に変わっています。
本格的な利根川治水(東遷)の第一弾が「ふとゐ川の半分=庄内川の水」を東葛台地沿いに移動することであり、東葛台地西側の微高地に水利を得ることができるようになって新田が作られた(作れるようになった)と考えられます。
(東葛台地の分水嶺は西に偏っていて、台地西側の水利はよくない)

そのひとつ伊予新田では開拓者と年代がわかっていて、1538と1563に北条氏と里見氏等が国府台(市川市)で戦ったとき、この戦に敗れた里見氏配下の安西伊予なる武士が1610年に開拓した新田です。
武士が帰農して開拓を行う田畑を代官見立新田と称し、家康はこれを歓迎して帰農武士を責任者にしていますから伊予新田も同様でしょう。
安西伊予は国府台の戦で北条氏に破れてから47年後に開拓をはじめた。
沖積地であり肥沃なはずのこの一帯をそれまでだれも農地にしていなかったのは、水利がなかったからに他ならないと思います。

なお、庄内川(江戸川)が現在地にあれば国府台の戦で北条軍は「東葛台地眼下の巨大な堀」を敵前上陸せねばなりませんが、それで勝てるのだろうか。
北条軍は猿俣方面から進撃しているようですが、どのみち丸見え状態で大河を渡らねばなりません。
当時の庄内川はずっと西にあった、だから猿俣からなら気づかれずにこれを渡河し、松戸付近の台地へ進出できたのではなかろうか。

この戦の文献に当時の庄内川の位置を示す情報が隠れているか・・調査中。
江戸川が定着しているはずの江戸時代の記事はあてになりませんが、からめきの瀬といった文言があり、これを現在の江戸川とする解釈もあるようです。
「からめく」=乾らめく、やせ細る(古語大辞典/小学館)であって乾いて細い瀬の意、松戸川かその南の矢切付近の小さな川のこととみるのが自然ではないでしょうか。




更級日記には父の任期が終わって帰京する道筋が書かれていますが、「武蔵と下総の間」に「ふとゐ川」があり「まつさとのわたりの津」で渡っています。
往古の武蔵と下総の国境は隅田川で、1659年に隅田川に架橋された大橋を両国橋と呼ぶのは国境にある川の橋だからです。

葛飾区と江戸川区では弥生〜古墳時代の遺跡が少なからずあり、早い時期に千葉側の微高地に集落ができていたと思われます。
鎌倉以前では下総が東国の中枢であり、現在の江戸川がふとゐ川であればここはだれも間違えようもなく下総でしょう。
太政官符835でいう「下総国の太日川」です(当時のお役所における境界は住田川)。
更級日記が「武蔵と下総の間」と書くのは当時のふとゐ川の位置のあいまいな状況があったためだと思います。

江東区と墨田区では近世以前の遺跡はゼロであり、現在の新中川付近から隅田川の間は利根川流末の浅瀬の海あるいは無人の葦原であり、更級日記のいう「武蔵と下総の間」とはこの一帯のことで、ふとゐ川はその東辺を流れる川であったために下総側からみて武蔵と下総の間と表現したのだと思います。

更級日記の「まつさと」は現在の松戸市とみるのが定説らしいですが、なぜここまで北上するのか疑問が提示されているようです。
松戸付近には戦国以前の史跡がみあたりません。 現在の葛飾区青戸〜新宿あたりが利根川と庄内川の合流かつ分流地点であれば、利根川と庄内川をまとめて渡れる交通の要所(津)となりえます。

柴又周辺の古録天や柴又八幡神社などの古墳時代の遺跡は放牧集落であり、ここが馬津郷(ま・つ・さと)だった。
松戸はまつさとの変化の論に賛同です。ただし戦国時代以降での「まつさと」は牧場でも津でもなくなり、江戸時代に入ってから輸送中継点として発達した現在の松戸市にその名が移ったものと考えます。

葛飾区立石に立石様(立石遺跡)があり古代官道の道標と推定されています。
これが古奥州道の道標であれば下総国府と隅田川の渡しを直線で結ぶ線上に重なります。
(位置がはっきりしませんが、風土記に佐倉道の南に「古道の痕跡」がある、とあります)

青戸〜新宿付近を錯綜して南下していた川筋が更級日記にいうふとゐ川であり、「まつさとのわたりの津」とは現在の葛飾区立石〜高砂付近であると考えます。
「兄に抱かれて」渡るとあるのも、錯綜する川筋の浅瀬になっている部分を渡る様であれば自然です。

更級日記ではふとゐ川の「がかみの瀬」で渡っています。
「がかみ」を河上と解するならばここがふとゐ川の河上の瀬であり、ここ以降をふとゐ川と呼んでいたことがうかがえます。

更級日記の記述は誤りという論もありますが・・
当時のふとゐ川を現在の江戸川の川筋として解釈していることに問題があるのだと考えます。


隅田川東岸に976年頃の木母寺と梅若伝承があり、隣接して隅田川神社があって往古は浮島の宮とも呼ばれていたそうです(別項隅田川神社参照)。
浮島の宮から市川までは約8キロ、途中の「まつさとの渡し」の難所を含んで1日の行程にちょうどよさそうです。
続日本紀にいう下総側の駅は井上と浮島と河曲(かわくま)、武蔵側は乗潴(あまぬま)と豊島です。
延喜式では井上に馬10頭、浮島と河曲に馬5頭、井上が大きな駅であり(交差路?)浮島と河曲は小さい駅なのでしょう。
駅名は道順で書かれているとは限らないとすれば、浮島駅が現在の隅田川神社(浮島の宮)付近、井上駅は万葉に歌われる「真間の井」の上、東葛台地の下総国府付近にあったとなります。

河曲駅は船橋か、意富日神社(あるいは入日神社)があり日本武尊上陸伝承を伴っています。
乗潴駅は杉並区の天沼でよいと思います。豊島駅(飛鳥山付近)から約13キロ、天沼から府中までも約13キロの中間地点となります。
浮島駅から豊島駅までは直線で6キロほどですがふとゐ川横断と同様に長江の入江の湿地帯横断の難所があります。
長江の入江には源頼朝や足利尊氏の横断伝承があります(別項、縄文と江戸の地勢図および石浜神社参照)。

豊島の原義は「渡島」でこれを好字としたものではなかろうか。下総から武蔵へ渡るための島の意、千住(長江の入江)〜浅草〜江戸前島あたりを意識した呼称です。
長江の入江横断の途中の難所?に飛鳥社があり創祀は795です(別項素盞雄神社参照)。
平安中頃ではここに中継地があった、だから最古級の社がそこに登場したのでしょう。
更級日記時代では浅草から江戸、品川へ南下するルートに変わっており、この頃には「豊島駅」の位置も変わっていた可能性があります。



利根川と渡良瀬川の下流域(庄内川)が低地帯で錯綜する流域以降を江戸以前では「ふとゐ川」あるいは「太井川」あるいは「太日川」と称し、遠く西へ離れた分流を隅田川と称していた。
正保図の村名から現中川筋を木毛川あるいは葛西川と称した可能性が高いですが、いつからの呼称かは不明。

1610頃までに流山市〜松戸市以降の微高地を南北に縦断する流路(現在の江戸川)が開削され、低地帯中央部の利根川(ふとゐ川)の水の半分がこちらに移された(農業用水のためには可能な限り標高の高い部分を通す)。
これが家康時代に策定された利根川治水計画の第一目標だったと考えます。

1629に荒川を入間川に付け替えています。低地帯中央部を流れていた荒川の水を西端の隅田川に移す西遷です。
(その前に低地帯へ流れていた隅田川の分流を遮断して深川などを陸地化、隅田川少考参照)
これが第2目標。

1625の新川通し開削に続いて、1641に関宿〜野田のバイパス流路が開削され、利根川の水のほとんどがここを経由して新開削の流路(江戸川)を流れるようになります。
(まだ江戸川の呼称はありません、風土記によれば水運路としての江戸川とあり、赤堀川通水1654以降の呼称)

低地帯に流れ込む利根川と庄内川(渡良瀬川)と荒川の水が数十年をかけて東と西に移動されて低地帯が農地化され、東葛台地西側の荒れ地も水利を得て新田が一斉に開墾された。
ここまでが幕府の利根川治水計画だった。

低地帯を流れていたかっての利根川本流(ふとゐ川≒現:新中川筋)は消滅し、かっての分流であった木毛川(葛西川、現中川筋)も排水路化していった。
正保図では現中川筋を古利根川と書いていますが、隅田川の方は早々に荒川の水に替わっておりまた古来からの呼称であり、現中川筋がかっての利根川が自然状態で残る唯一だったからでしょう。
それも元禄図では無名となってしまい、風土記では猿ケ又以降の旧利根川筋を中川と呼ぶとあります。

1809の赤堀川拡張による利根川の銚子への放流は初期の利根川治水から150年も後のことです。
この工事は1783の浅間山噴火の火山灰被害による利根川水系の洪水を減らすための工事であり、初期の治水計画では水運路の確保以上に利根川を銚子へ放流する予定はなかった。

その必要性がないというより、農業用水に利根川の水は必須です。
1700頃以降ではかっての流路を農業用水に使い、利根川上流からいくつもの農業用水を引き直しています。
農地の拡大で当初の計画より大量の水を必要とするようになったのでしょう。

もし浅間山の噴火がなければ・・現在の「江戸川」は今も利根川だったのかもしれません。