利根川東遷概史  江戸川人工河川論


現在の利根川は銚子に流れる大河となっていますが、江戸時代中頃までは銚子に流れ出ていたのは鬼怒川と小貝川が合流した常陸川でした。
江戸以前の利根川は前橋付近で平野部へはいり、渡良瀬川と合流して南へ下り、さらに荒川(元荒川)とも合流して現在の隅田川、中川、江戸川を流末として東京湾に流れ込んでいました(江戸川については後述)。
江戸開府とともに徳川家康は東京湾に流れていた利根川水系の治水に着手し、洪水地帯を農耕地に変え、水運路の強化を行っています。

その治水と開拓の総括をしていたのは家康の重臣であった関東郡代の伊奈氏で、信玄堤などの武田流の土木技術を習得していたとされます。
その手法は自然地形を利用し自然堤防を強化して遊水地域(浸水を許容する地域)を設け、低い堤防で洪水の勢いを分散させて重要地を守り小被害は許容する考え方によるもので、関東流または伊奈流とも呼びます。

部分的に浸水を許容するのでその地域に居住はできませんが、肥料分の多い洪水流土を農耕に利用することができ、河川と周辺環境が連絡している長所があります。
(輪中という小堤防で村落を囲ったり、個々の家が高い基礎を作って浸水を防御する場合もあります)
江戸時代初期の関東の治水はほとんどがこの考え方で行われています。

対応するのが紀州流と呼ばれる治水技術で、強固な堤防によって河川を切り離して小氾濫も許さない考え方で、土地を目一杯活用できますがいったん破堤すると被害が大きい欠点があります。
畿内では人口密集が早い時代から始まっていたために土地を目一杯使える手段が採用されていたのかもしれません。

利根川治水でも1629に作られた見沼貯水池が1700頃に農地拡大の求めに応じて農地化され、はるか北から見沼用水や葛西用水が引かれて、かっての入間川(荒川)と現在の江戸川の間の広大な土地は人工的な水路によってコントロールされるようになります。

明治以降では欧米技術が導入されていますが、紀州流の考え方を近代技術で強化したものともいえます。
河川と周辺環境が切り離されてしまう欠点がありますが、最近ではそうならないような工夫もなされているようです。



この図では現在の江戸川下流域は人工開削された河川であるとみなしています。これについては江戸川人工河川論を参照ください。


万葉集3413(650〜750頃)
利根川の川瀬も知らず直(ただ)渡り波に逢ふのす逢へる君かも
原文は「刀祢河泊」で巻14の東歌(東国の歌を集めた巻)に含まれていますから、関東の利根川とみてよいと思います。

太政官符(承和2年835)
「武蔵、下総国の境の住田川」「下総国太日川」

更級日記(1060頃)
下つふさの国とむさしの国の境にてある、ふとゐ川といふがかみの瀬、まつさとのわたりの津に泊まりて
(隅田川はでてきません)

萬葉集註釋/仙覚(1250頃)
下総国歌の註に「彼郡中に大河あり、ふとゐと云う」、「葛東葛西の間を流ると云うものこれなり」
(新編武蔵風土記稿(1810-1830)より)

吾妻鏡(成立は各論あり、前半は文永年間1264〜1275編纂、後半は嘉元年間1288〜1306編纂など)
治承4年(1180)に下総の千葉氏と源頼朝の関連で「許可見太井要害之由」「太井隅田兩河精兵」
(太井河はこの2カ所のみ、隅田河は他に2カ所書かれています)

夫木和歌抄(1310頃、藤原長清の撰)
とね川の下はにごりて上すみてありけるものをさねてくやしき

義経記(成立不明、南北朝末期〜室町らしい)
下総の千葉氏の援軍が「さてこそ太日、墨田打ち越えて、板橋に著き給ひけり」

正保改正図(1643〜1647)では入間川合流以前を角田川、河口部で浅草川と書き、現在の中川流末を「古利根川」、現在の江戸川を利根川と書いています。



利根川の呼称の由来は

「なになに戸」の地名は全国にありますが、「トネ」、刀根、戸根といった地名は利根川流域に密集しています。
アイヌ語のtanne=長い、からという説もありますが、北海道でも利根別川、登根川がみえる程度で長い川でもありません、発音が似ているだけでは採用できません。
利根川上流河川事務所にいくつかの説が紹介されていますが、「水源の大水上山の別称刀嶺岳・刀根岳・刀祢岳・大刀嶺岳」の場合は大水上山の水上が利根川の水源の意であるように利根川の呼称が先で山の呼称が後からだと思います。

利根川と人々の生活、ここから探ると縄文にさかのぼる呼称である可能性が浮かんできます。
狩猟文化では川はさほど重要ではないですが、木の実を主要食糧とする縄文では「あく抜き」に水が必要となります。
あく抜きした木の実はデンプン質でカロリー源になりますが、蛋白質などの栄養が不足します。
それを補うのが魚です、木の実と魚のペアが縄文の食料のメインと考えられています。
縄文と川は切り離せない関係にあるといえるでしょう。

後に農耕文化の広まりでも川は水源として重要です(弥生農耕では大河の利用は灌漑や治水技術が必要でまだ無理、緩斜面の小河川を利用)。
「ト」を住まいあるいは集落の戸と解し、「ネ」を根源と解せばト・ネ・川とは集落の源になる川を意味することになります。
(根=ものの下部にあって強くこれを支えるもの/字訓:白川静)

戸・トを山門ヤマトや水戸ミナトのごとく境界あるいは領域とみる場合も類似です。
川辺や海辺の交通の要所の呼称が「なになに津」であり、地名の「なになに津」が「なになに戸」に変化する例が少なからずあります。
後に津の役目を失った時あるいは大きな集落となったときに「なになに戸」に変わったのだと思います(おそらくは江之津→江戸)。

関東北部〜千葉に「近津神社」が少なからずあり、近戸もあります。これも同義でしょう。
(胡録(胡禄)という社も江戸時代の開拓地に少なからずあり御祭神が近津と重なる場合も少なからずで、これは別項の榊神社と胡禄神社参照)

利根川の中上流域では関東縄文由来の呼称であり、集落の源の意で「ト・ネ」川、と考えておきます。



利根川下流域では渡良瀬川と荒川の水が混じり合っていて、いつ頃にどこをどう呼んでいたのかちとやっかいです。
更級日記が「ふとゐ川といふがかみの瀬」と書いており、「がかみ」を河上と解するならば、更級日記で渡河している部分以降の利根川の流末をふとゐ川と呼んでいたと推定できます。

「ふとゐ」とは「太藺フトゐ」あるいは「大藺オホゐ」でしょう。湿地帯にはえる草でムシロなどを作ります。
「大藺草」は万葉3147柿本人麻呂の東国の歌にも登場しています。
「上つ毛野伊奈良の沼の大藺草(於保為具左)外に見しよは今こそまされ」

下流域に湿地を伴う川なら「太藺」「大藺」の地名はどこにでも登場しそうで、日本書紀(720)仁徳にある静岡県の大井河も原意は「大藺おほゐ」だと思います。
「ふとゐ」に「井」や「日」を用いるのは和銅六年(713)の「諸国の郡郷名は好字二文字で著せ」の指示の影響と、心情的にも好字を使いたい場合からのものとみておきます。
本稿では原義とみなす「ふとゐ川」を用います。

渡良瀬川の水が流れ込む方の利根川(東側、後の江戸川筋)はさらにやっかいです。
廃川や新開削流路が加わっていつの時代にどこがどういう呼称であったのか確認できないため、本稿では参考情報の呼称のうちの混乱しにくい庄内川(古庄内川あるいは庄内古川)の呼称を使っています(渡良瀬川以降では下総郡庄内領を流下していた)。

少なからぬ記事が江戸川の古名を太日川としています。
渡良瀬川河川事務所HPには渡良瀬川を太日川と呼んだ、とありますが出典不明)
新編武蔵風土記稿(1810-1830)では600年前の吾妻鏡や仙覚の萬葉集註釋を引用して「江戸川」を古名で太井川と云うとあります。
これは編者(昌平坂学問所)による解釈であって、当時にもその600年間での資料はなかったということになります。
1700頃ではかっての利根川本流(現・中川筋)は中流部での付け替え等で農業用水あるいは排水路化しており、呼称が古利根川から中川(あるいは無名)に変化しています。

正保図(1643〜1647)では現在の江戸川を利根川としており、新編武蔵風土記稿(1810-1830)には江戸川の項はなく、利根川の項で「江戸への通船の水路であったことから関宿より下を江戸川と呼ぶ」とあります。
1641の赤堀川通水成功以降に利根川の別称として江戸川が登場し、1809あるいは1871(明治4年)の赤堀川拡張で利根川の水のほとんどが銚子に流れるようになってから利根川の呼称がそちらへ移り、別称であった江戸川が公式化していったのでしょう。

なお、「スミタ」は浅草台地側の田畑の開墾(古墳時代か)の登場以降にその田の隅に流れる川、の意と考えておきます(隅田川少考参照)。

参考資料
洪水と治水の河川史/江戸水の生活史/東国の歴史と史跡/地震と噴火の日本史/東京低地の古代
利根川図志(柳田国男校訂)/新編武蔵風土記稿/江戸名所図会/古代交通研究/江戸東京博物館資料、国立公文書館
他 (以下、新編武蔵風土記稿を風土記と略します)




1590/家康
天正日記(家康腹心の内藤清成の日記)の天正18年(1590)8月(家康入城のとき)に、隅田川で洪水が発生し千五百七十間(約28km)の堀の開削や築堤の指示があったことが書かれています。

天正日記は後に記事を寄せ集めて書かれたものでその日時は正確ではないともされますが、ここでは年単位の精度で十分としておきます。
ひょっとすると天正日記は明暦の大火によって焼失した原典を復元したものかもしれないと考えています。
総じて江戸初期の幕府の文献が乏しく感じます。

利根川の下流域は正保図(1643〜1647)の時代では、隅田川筋、古利根川筋(現中川)、利根川筋(現江戸川)の3筋があります。
現中川筋が古利根川ですから昔はここが利根川本流だったのでしょう。

太政官符にも吾妻鏡にも義経記にも「スミタ」と「フトイ」の2筋の川しかでてきません、3筋目の川(江戸川筋)はどうなっていたのでしょうか。
左図の金町付近以降の庄内川(ふとゐ川)の流路は推定です。あえて現在の江戸川の下流筋を書いていません。

江戸川下流域の川筋も江戸時代初期の開削による人工河川ではないのか。
江戸川人工河川論参照




1594/家康
行田領主松平家忠(家康の四男)が会ノ川を締め切り、浅間川を拡幅し現在の加須市周辺の洪水を防いで新田開拓。
その結果、利根川と渡良瀬川が合流した水が下総台地にぶつかる幸手市付近では洪水が増大。

会の川を締め切れば、利根川の水の一部は庄内川を経て「ふとゐ川」へより多く流れ、古隅田川を経て隅田川へ流れる水量は減るはずです。

関東郡代(関東代官頭)伊奈忠次により千住大橋架橋

1595頃/家康
利根川上流、熊谷市付近で中条堤と文禄堤によって遊水池設置(30〜49平方キロ)。

1600頃/家康
元荒川と綾瀬川を備前堤で分離し、綾瀬川流域の洪水を防いで新田開拓。

1603−1607/家康〜秀忠
家康が征夷大将軍となり、江戸幕府開府1603、2代秀忠1605
慶長年間(1596-1614)に小名木川を開削。

日本橋架橋、諸街道を修理し、一里塚を設置
諸大名に江戸市街地と江戸城の普請を命ず

この頃に現在の江戸川筋が開削され、三郷市以降の低地帯を流下する庄内川が下総台地側に東遷されたと推定しておきます。
同時期に隅田川牛島堤によって隅田川の低地帯への分流が遮断されたと推定しておきます。隅田川少考参照




1620/秀忠
日本堤築造年ははっきりしませんが、洞房語園異本考異(異本・洞房語園は1720頃)に、創設は元和6年(1620)なるべし、とあるそうです。
正保(1643-1647)の江戸地図に日本堤は記載されており、山谷堀は王子の上石神井川(音無川)から引いた用水の流末で、湿地帯の排水を兼ねていたと思われます。
(総じてこの頃の記録は後世のあいまい記録が多いとみえます)

これによって日本堤以南を洪水から防ぎ千束池の埋め立てが可能になります。
いつ千束池が埋め立てられたかはっきりしませんが、日本堤の完成と同時か少し後でしょう。

浅草(蔵前)に米倉を作る

1625/家光
寛永寺建立

新川通を掘削し、利根川を庄内川に流して幸手付近の洪水を防止。
隅田川へ流入するのは荒川の水の半分(古隅田川経由)と入間川だけになったとみえます。

新川通を通る利根川の水は権現堂川であふれ五霞村が洪水となったため権現堂川を拡幅。

この頃に関東ロームの台地を切り開いた赤堀川によって沼地側に排水しようとしていますが失敗。
(このあたりの前後関係は諸説あります)

ある時期の隅田川は対岸同士で子供が石を投げ合うほど川幅が狭くなっていたようで、この時期の状況を示すものとみえます。
現在の幸手〜春日部〜越谷〜足立葛飾の洪水が減り、この地域の開拓が進展したと考えられます。
(足立区南部ではこの頃に元和三勇士なる開拓功労者が登場しています)





1629/家光
荒川の付け替え、荒川を熊谷市付近から入間川へ接続して荒川流域の洪水防止。
入間川の水量増加でその流域の水害が増加する。
(荒川は元荒川、入間川は荒川に名称変更)
芝川をせき止めて見沼溜井を作り農業用水として新田開拓。

これによりかっての利根川本流に流れるのはかっての荒川や古利根川の用水路化した水だけとなり、古隅田川に流れるのはその一部と綾瀬川のみとなります。
対して隅田川はかっての荒川の水量をすべて受け持つことになって水量は再び増大します。


1629頃/家光
鬼怒川付け替え、小貝川と分離し南の湿地帯へ流し常陸川へ。
小名木川と行徳塩田を結ぶ船堀川開削。
1630頃
小貝川付け替え、牛久沼から南の湿地帯へ流し常陸川へ。
これによって鬼怒川、小貝川下流域に穀倉地帯が誕生し、常陸川は野田市付近まで大型船の遡上が可能となります。

1629-1644
小名木川と江戸川を接続していた船堀川(1629)に接続してより南へ向かう新川を開削。
(江戸川河口部の陸地化が急速に進んでいることを示すとみます)



1635/家光
赤堀川改修で利根川と渡良瀬川の一部を常陸川上流の湿地帯へ通水を試みる。
当初は通水がうまくゆかずに栗橋や五霞村が水害に見舞われていたようです。

利根川治水の第2段階ですが、1655頃の赤堀川の幅はわずかに18mしかなく、この時点での幕府には利根川を銚子方面へ東遷させる考えはなく、赤堀川の開削は東北〜銚子〜江戸への水路を作る目的の開削であったことがうかがえます。
(1760年頃でも49mしかない、現在は700m)



1641/家光
権現堂川を拡幅、関宿〜野田間に利根川のバイパス流路を開削する。
栗橋や五霞村付近、庄内川流域の洪水防止目的と思われ、この時点で利根川の東遷は一段落となります。
農耕用の土地の安定化が目的の治水はこの時点で完了したわけです。

正保図(1643〜1647)ではこのバイパスに江戸川の呼称はなく、元禄図でこの部分を利根川と書いています。

隅田川〜利根川の間の土地が武蔵に編入される。
1659に隅田川に架橋された大橋の俗称が両国橋ですから、一般の感覚では隅田川の東はまだ下総の国だったのでしょう。

1654頃(異説あり)/家綱
赤堀川を更に5.4mほど掘り下げて通水に成功する。

赤堀川開通によって銚子から常陸川を遡上し、権現堂川を下って利根川(江戸川)〜船堀川〜小名木川で江戸へゆく水路がつながり、東北からの物資は房総半島を迂回せずに江戸へ運ぶことが可能になります。
仙台藩の米は相場を大きく左右したようで、仙台藩は小名木川の南に仙台堀を作って流通路を整備しています。
新編武蔵風土記稿は利根川の江戸への水運路のありようから江戸川の呼称が登場したと書いています。



1657/家綱
明暦の大火

1660/家綱
羽生市付近から取水し、春日部、越谷へ流れる葛西用水を引く。
かって廃川とした会の川を復活させるのと同じで、古利根川流路を利用しています。
各地に溜井(貯水池)が作られていることと合わせて農耕地が急増していることをうかがわせます。

1665/家綱
権現堂川と江戸川の接続部の逆川を延長して関宿で赤堀川に接続する水路を開削。
これによって関宿が水運の中枢となって発達してゆきます(権現堂川筋は衰退)。

現在の水元(葛飾区と三郷市の間)付近には小合溜井(貯水池)があり水路で利根川(江戸川)と中川が接続されています(現:大場川に相応)。
水路としてはここを経由して古隅田川から江戸へはいるのが最短距離にみえますが、なぜかこのルートは使われていないようで後に古隅田川は廃河となってしまいます。

古隅田川と荒川(入間川)の合流点付近には江戸時代以前に架橋されていた様子が見えます(別項石浜神社参照)。
しかし江戸幕府はここには架橋せずに橋場の渡しだけです。
隅田川を軍事的要衝と考えていたのかもしれませんがそれにしては1594に千住大橋を架橋しています。
鬼門である東北の方角から江戸に入ることを嫌った可能性も少なからずと思います。

1690頃/綱吉
新宿村と猿ケ又村に溜井を作り、長右衛門新田と亀有村の間に堤を築いて古隅田川を閉鎖。



1700/綱吉
1700頃に溜井が統廃合され、新宿村と猿ケ又村にあった溜井が廃止される。

1703/綱吉
元禄地震(相模トラフM8.2と推定される)

1707/綱吉
宝永地震(M8.4と推定され、列島の記録に残る最大規模の地震、東海〜紀伊〜四国に大被害)

富士山の大噴火。
小田原藩は領民に米1万俵を供給しましたが飢饉発生、関東郡代の伊奈忠順が派遣されています。
足柄平野では積もった火山灰で河川の河床が上昇して洪水が多発、以後70年にもわたって被害が継続します。

江戸や千葉にも火山灰が降り、江戸で2寸から4寸積もったとあり、利根川水系の治水や農耕にも大きな被害を与えたと思われます。
幕府は諸国から40万両の義援金を徴収しましたが被害救済に使われたのは16万両だけで、残りは「その他」に使われたのだそうです。


1728/吉宗
芝川の見沼溜井を廃して農地化し、はるか北の利根川から見沼用水を引く。

溜井の面積すら農地化したいという要求を満たし小河川を横断する用水路を作るには従来の関東流治水では対応できず、ここでは紀州流の治水技術を用いたと思われます。
徳川吉宗(1716-1745)は紀州出身でもあります。

1729/吉宗
猿ケ又の南に小合溜井を作る(現在の水元公園周辺)。
新編武蔵風土記に、従来の利根川から江戸川への水路が不便なるゆえ、とあります。別項には水が逆流することもあるので江戸川側に堰を作ったともあります。
正保図でも江戸川を遮る堰?があるような描き方をしています。

幸房〜戸ヶ崎間の江戸川(庄内川)屈曲部を直線に堀替える。

1753/家重
武蔵風土記稿の1753年の橋場の記事に「6,70年前の隅田川は今の川幅の倍はあった」とあります。
1690頃の古隅田川遮断によって利根川系の水が流れ込まなくなったためでしょう。
江戸末期の地図では現在の荒川放水路に平行して古綾瀬川と書かれる直線水路があります。
綾瀬川の流末変更もこの頃に行われたのかもしれません。



1783/家治
浅間山の大噴火、千葉県佐倉付近でも火山灰が6〜12cm積もったそうです。
死者は1万人を越えたともされますが、これは副次的な被害を含めてかもしれません。

利根川に流入した溶岩泥や火山灰が河床を上昇させ農業用水取り込みや排水不良を引き起こし、各地で水害多発。 利根川上流の吾妻川の土石流被害は江戸川に達し、人や牛馬の遺骸が流れ、立木や家屋の破片で川が覆われたそうです。
1780頃から1787年にかけての天明の大飢饉はこれによって決定的なピークに達します。

江戸川への土砂流入を防ぐために江戸川流頭の関宿で流量制限を行ったために赤堀川上流での水害が増加。

1789/家斉
幕府の権威復活のための松平定信の寛政の改革。
利根川の復旧に幕府は有効対策を講ずることができず。

1792/家斉
代々関東郡代を勤め、庶民の信頼が厚かった伊奈家が改易となる。
家事取り締まり不行き届きというのが理由のようですが、この頃の庶民の訴えは信頼を失っていた幕府(町奉行)ではなく関東郡代へおこなわれていたそうで、伊奈家は詰め腹を切らされたのかもしれません。

1809/家斉
赤堀川が70mほどに拡幅され、利根川の水の多くが赤堀川から常陸川へ流れるようになる。
常陸川流域で水害が増加し、流域同士の対立が深まる。

文政年間(1818-1828)/家斉
水戸藩大原左金吾が現在の北浦から鹿島港へ抜ける利根川放水路を開削して水位を下げて洪水を防ぐことを提案したが資金不足で実行できず。



1871(明治4)
赤堀川のバイパス完成(赤堀川の通水力拡大)
1872
現在の鹿島港付近への放水路が完成。しかし暴風雨で河口が閉塞し利根川下流域の洪水増大。

1873
オランダ人技術者による利根川復興が開始される。
1877
足尾銅山が本格採掘開始。
1888
渡良瀬川洪水によって鉱毒被害が下流の農作物にまで及ぶ。
利根川、渡良瀬川の洪水防止策として江戸川へより多く放流する提案がなされたが明治政府は実行せず。
(江戸川河口には行徳の塩田があり、ここに鉱毒被害の及ぶことを危惧したためともいわれます)

1890
利根運河開削(野田市付近、鬼怒川合流部と江戸川間の運河)によってこれまでの水運の要であった関宿は衰微。
(この運河も鉄道の発達で短期間の運用にとどまります)
1898
利根川、渡良瀬川の江戸川への流入制限をさらに強化。利根川は完全に東遷。
1906
渡良瀬遊水池設置(谷中村水没)によって洪水防止と下流域への鉱毒遮断を行う。