隅田川少考


BC1万年頃、列島と大陸がつながっていた頃では、上石神井川は上野台地の西を南下して、不忍池を経由し、秋葉原、江戸橋、佃島、といった経路で東京湾に流れていたと思われます。

上野台地の東南は関東ロームに覆われた低地帯で、縄文海進によって海底に沈み関東ローム層が洗い流されて浅い海底になっていたと思われます。

江戸名所図絵には浅草付近に真土山など7つの山があったとありますが、海没せずに関東ロームが洗い流されることがなく「土の山」として残った地域だったのかもしれません。
この頃でははるか北の奥まで海であってそこには古利根川が注いでいました(別項縄文と江戸の地勢図参照)。

縄文海退時代では入間川(現:荒川)や古利根川は高低差のない地域を蛇行する川で土砂を運び、潮流が海砂を運んで海が次第に沖積平野に変わってゆきます。
縄文海退時の海岸線に蛇行して残った川が隅田川の祖先、ということになります。



川筋にできる自然堆積丘は川筋が曲がる外側に土砂や砂利が少しづつ押し上げられてできます。
石浜〜浅草の砂利の堆積丘は、縄文海退と弥生〜古墳時代にかけての入間川と古隅田川、それに東京湾の潮汐による潮流のバランスポイントに重い砂利だけが残って南北に長い丘となったもので、隅田川西岸の自然堤防を形成しています。

石浜ではその名の通り砂利の堆積地帯で、江戸の土木資材の砂利はここから採取されています。
浅草の地名も砂利の上にまばらに生える草の意という説があります。
江戸名所図会にいう7つの山は千束池埋立や江戸市街の土木工事の用土に掘削されて、1つだけ残ったのが真土山(現:待乳山)です。


隅田川西岸には縄文貝塚が多数あることから縄文時代から安定した陸地になっていたことがわかります。
足立区北部には伊興遺跡(古墳時代)があり、縄文遺物の出土もあるので北ではこのあたりに縄文の海岸線があり、古墳時代には安定した陸地になっていたのでしょう。
ただし、弥生遺跡は武蔵野台地以外は少なく、縄文海退によって山と接していた海の間に湿地帯と葦原が広がるようになって縄文系からも農耕の弥生系からも住みにくい地域になっていたと考えられます。

隅田川東岸の沖積平野で遺跡が出土するのは現在の新中川流域周辺から東側です。
大和朝廷系(古墳時代以降)の人々の定住とみえる古墳時代遺跡が多いとみえ、古墳時代での定住が下総台地側から西へ進展したと考えられます。
日本武尊が船橋あたりに上陸して武蔵に移動してくる状況もそれを示すのではないかと思います。



墨田、角田、住田、スミダの地名由来は各論あって決定稿はないようです。
万葉集0298 辨基(べむき)の一首(700年頃)
真土山夕越え行きて廬前(いほさき)の角太川原(すみだがはら)に独りかも寝む
原文は「亦打山 暮越行而 廬前乃 角太川原尓 獨可毛将宿」、これらの地名には紀州説、駿河説、関東説があります(隅田川と文学)。
辨基は701年に還俗して春日蔵老として朝廷に仕えていますが、万葉の東国歌ではありません。

また、この頃の関東の隅田川へでるルートが品川〜浅草経由であったのかどうか(東海道→武蔵は771かららしい)。

亦打山は他の紀州の歌でも登場しますが、真土の文字は登場しません。
「廬」は「庵」と同義ですが廬は丸い小屋の意、角太は現在の和歌山県橋本市隅田の万葉仮名表現か。
地名すべての音が似ていますが、隅田川とは無関係とみておきます。
地名が運ばれたという論もあるようですが、風景は全く異なりますから文人が文言を参考にしたかもしれない、程度と思います。

太政官符(承和2年835)に「武蔵、下総国の境の住田川」「下総国太日川」
公文書ですから正式とすべきなのかもしれませんが「713の好字2文字で地名とせよ」の指示の後ですから原義なのかどうかは・・

建保名所百首(1215)
今宵また誰が宿からん庵崎の隅田河原の秋の月かげ
こよひまた たかやとからむ いほさきの すみたかはらの あきのつきかけ/順徳院(順徳天皇)
原文を未確認ですがひらがなのようで、「庵崎」や隅田は解釈者による漢字化でしょうから漢字での判断はできず、順徳天皇が関東へ巡幸した話も聞きませんから、これも紀州の隅田の可能性がありそうです。

古語では五百をイホと読んでいます。
江戸名所図会の秋葉権現社ではこの付近を庵碕(イホサキ)と称していますが、秋葉神社縁起では五百崎(イホサキ)の千代世の森と称しています。
五百もの洲や浅瀬や崎がある地域の意で、潮が引けばたくさんの島が遠浅の海面から顔を出す、そういう地形であることが想像できます。

田畑が開墾されていた浅草台地側の意識では「田」が用いられる可能性大でしょう。
隅田は吾妻鏡の1180に登場ですが編纂年代は各論あって文永年間(1264〜75)と嘉元年間(1288〜1306)とされるようです。
墨田の初出は鎌倉府執事奉書1346との論がありますが未確認。
義経記に「さてこそ太日、墨田打ち越えて」が登場(編纂年代は不明ですが南北朝〜室町とされるようです)。

吾妻鏡の編纂年代からみて「隅田がまずありき」で、角田、隅田などは言葉と文字の意味を解した上での用法とみて、隅田が原意と考えます。
墨吉(住吉、葦ヨシの原に住むの原義か)墨江(住之江、海辺に住むの原義か)が万葉で使われていますから、墨田や住田はその流れをくむ当て字であり、隅の意をきらう場合の用法とみておきます(墨堤といった表現も同様です)。

新編武蔵風土記稿では須田を隅田の名の由来と書いていますが、洲田→須田は地形からの呼称とその変化で妥当なところと思いますが、スダとスミダは意味が違う呼称であって無関係でしょう。
正保図では須田村と角田川を別けて用いており隅田の地名はありません。


浅草寺縁起では土師真中知命あるいは土師真土知命が縁起に登場しており(推古時代という)、土師氏は出雲臣族で土師は土器造りの職名です。
真土≒砂利や砂の混じらない粘土、浅草台地に残った関東ローム層を真土と呼びそれが地名となったのだと考えます。
(浅草寺の末寺で待乳山聖天が浅草にありますが、真土知マツチチの変化か)
江戸時代の今戸周辺には瓦焼き職人が住み、今土焼き発祥の地だそうですが古代の土器の流れをひいているのかどうか。

低地部では縄文海進で関東ロームが洗い流され、石浜は砂利だけが残って江戸開発での砂利採取場になっています。
浅草の西側の低地には入間川の水が流れ込んで停滞し、泥が堆積して半ば閉塞しながら千束池ができていったと思われます。
鎌倉時代でいうところの長江の入江もこれを指すと思われます。
源頼朝はここを浮き橋で渡り、合戦に敗れた足利尊氏は直接渡渉して石浜城に逃げ込む伝承が残っています。

長江の入り江と千束池の形成では特殊な状況があったと思われます。
ひとつは入間川と隅田川のぶつかりあう場所であったこと、もうひとつは石神井川によって運ばれる土砂が途中でなくなってしまったこと(縄文と江戸の地勢図参照)。

<江戸以前の隅田川東部推定図

隅田川西岸の古社は出雲系か日本武尊の縁起を持っているとみえます。
上野の五條天神縁起では少彦名命が日本武尊を助けています。
鳥越神社では住民が白鳥の丘に日本武尊を祀っています。
蔵前の榊神社では日本武尊が第六天神を奉斎したことが縁起となっています。

隅田川神社(浮島社)には海神が上陸した伝承があり、蔵前の須賀神社にも推古時代とされる神人上陸伝承があります。
ある時代では隅田川西岸には出雲系の人々が先住し、東海からの海路における上陸地が浅草付近に存在した。
古墳時代となって大和朝廷系の人々が下総側から隅田川付近に進出した、そのような歴史がうかがえます。

隅田川東岸の両国国技館から土師器が1個出土していますが、使ったのは西岸の人々か、あるいは利根川を渡ってきた朝廷系の人々か、あるいは上流の土器造りの村から流れてきたものか。



日本武尊の関東上陸拠点は伝承から船橋の意富日神社あるいはその元宮ともされる入日神社付近と推定されます。
船橋から武蔵へ移動するのに利根川上流では流れが速く小舟で軍勢を渡すのは無理でしょう。
といって沿岸を船でゆくには複雑に流れる河川流と潮流で航行しにくい。
古代における軍勢の利根川と隅田川横断は遠浅の海が干潮時に浅瀬になったところを歩いて渡ったと思われます。

鳥越神社縁起にある「源頼義と義家が白鳥の渡るのをみて」という縁起もそれを示すものでしょう。
鳥が餌を探しながら浅瀬を移動する様子をいうのでしょう。
新編武蔵風土記稿の牛御前社に、源頼朝が隅田川を渡るとき洪水で増水して渡れなかったので船筏で渡り、これを謝して牛御前社(牛島神社、創建860頃)に領地を奉納したとあります。


隅田川東岸への定住は658年の阿倍比羅夫の蝦夷討伐がその端緒になっているのかもしれません。
文武天皇の701〜704頃の牧を作る勅命によって浅草付近の隅田川に「浮嶋牛牧」が作られていますから、その頃には大和朝廷の役人もここに定住しているはずです。
牛島、亀島、柳島、五百崎、広く浅く広がった隅田川が遠浅の海に流れ込み、浮島のごとくに連なっていたのでしょう。

入間川と古隅田川の合流点の中州に浮島社(水神社、現:隅田川神社)があり、危険な位置のようにみえますが洪水にも安全だったという伝承があります。
北側の広い低地が天然の遊水池となって増水しても水位がさほど上がらなかったためと思われます。
創始縁起は失われていますが、海神上陸伝承があり御祭神からも東岸での最古の社かもしれません。

千住大橋の南に飛鳥社(素盞雄神社、小塚の上にあったという瑞光石が縁起、延暦年間782−806)建立。
ここが鎌倉時代にいう長江の入江(湿地帯)と入間川を南北に横断する唯一の中継地で、そのまま現代の道に至っています。

浅草寺は857年に慈覚大師(天台宗)が堂塔を増築、中興の祖となっています。
貞観2年(860)に牛島に牛御前社(牛島神社、慈覚大師)建立、慈覚大師が浅草から東岸に渡って牛と対面したのでしょう。
牛御前社の東に弘福寺(黄檗宗オウバク)があり、延久4年(1072)の弘福寺牒並大和国判という領地認定の公文書が残っていますから、このあたりはすでに安定した陸地になっていたと思われます。
(当時はまだ禅宗は到来していないはずで後に禅宗の寺になったか)

羽芝(橋場)津頭千軒町という場所に隅田寺(天徳年間957-961、真言宗)建立、津頭は浮島神社付近と思われます。
隅田東岸の最古級の寺とみえ、天正年間(1573-1592)に現在地に移転し多聞寺(多門寺)となります。

976に木母寺(天台宗)が登場、梅若伝承。
藤原秀郷や平将門などの関東武士の登場と奥州道が確立し、密教系僧侶が到来して隅田川東岸に寺の建立が始まるとみえます。


更級日記1059に「下総と武蔵の間を流れるふとゐ川」が登場します。
ふとゐ川については利根川東遷概史で考察してみます。

吾妻鏡の1180年では源頼朝挙兵のとき下総の国府(現在の市川市)で千葉常胤の支援を得て「太井と隅田の河を渡る」とあります。
「ふとゐ」「太井」とは「大藺」あるいは「太藺」でしょう。湿地帯にはえるムシロなどを作る草です。
万葉3147柿本人麻呂の東国の歌
「上つ毛野伊奈良の沼の大藺草外に見しよは今こそまされ」

1280頃に蓮華寺(現:蓮花寺、真言宗)が建立、江戸名所図絵では鎌倉からの移転で寺島の地名由来としています。
この頃に寺島周辺に田畑が広がり、下総との交通路(古奥州道)を介して戦国武将の領土争いにつながってゆくのでしょう。
太田道灌(1432-1486)が橋場付近に橋を3本かけた伝承(別項:石浜神社参照)があり、江戸名所図会によれば1574に小田原北条氏が隅田川に築堤しています。
その他の寺は1600前後での登場で、本格的な東岸の開発(人口増大)は家康の江戸入城以降となります。

江戸以前の隅田川周辺は上図のごとくと推定しておきます。


江戸初期の隅田川東部推定図

江戸時代初期に千束池が埋め立てられます。

1620頃とされる日本堤の完成と千束池埋立終了は同時期であるはずで、日本堤の北側は隅田川(入間川)増水時の遊水池でもあって、山谷堀はその水抜き用でしょう。
千束池一帯は近世でも蓮根の栽培地で、日本最初の地下鉄建設のときには軟弱地盤に悩まされたそうです。

その遊水池も江戸の拡大によって塩入土手で入間川から遮断されて田畑化します。
1629年に荒川が入間川へ付け替えされ(入間川が荒川へ名称変更)旧入間川流域の洪水が増えていますから、塩入土手はこの頃に作られたとみてよいと思います。

わずか10年ほどで遊水池側も田畑化していったわけで、江戸の人口急増がうかがえます。



江戸初期の隅田川の流末はいかなる状況だったのでしょうか。
以下は新編武蔵風土記稿(1830)からの抜粋その他です。

新編武蔵風土記稿の正保地図と元禄改正図には、亀有付近で利根川から分流する川筋が書かれており、須田村で荒川(旧入間川)と合流し、合流直前を角田川、河口を浅草川と書いています。

須田村:隅田川の名の由来なれば最も古き村といえり・・
「安政隅田川向島絵図」では隅田堤の西側に須田村、東側に隅田村の2村が書かれています、位置的にも須田は洲田であり最古だろうと思いますが、武蔵風土記稿の「隅田」の由来云々は?、「洲の田」の環境ではなくなった地域を新たに隅田村としたものとみます。

江戸以前の古隅田川と入間川合流部推定図

木母寺と御前菜畑の間に浦ノ川あり、元禄8年(1695)では幅100間(180m)とあるが、今は8間(15m)の橋を渡せり・・
正保1643-1647図では橋場の渡しの距離が68間(124m)で、江戸末期の地図での隅田川の川幅とほぼ同じです。
「浦ノ川」が利根川につながる川筋(古隅田川)でしょう。

武蔵風土記稿の1753年の橋場の記事に「6,70年前の隅田川は今の川幅の倍はあった」とあります。
武蔵風土記稿の利根川に、猿又以下新宿のあたりに溜井を作るとき亀有村と長右衛門新田の間に堤を築いて断止した、とあります。
享保14年(1729)に小合溜井が作られ猿又〜新宿のあたりの溜井が廃止されていますから、遮断は1700頃でしょう。
「安政隅田川向島絵図」では綾瀬川の水路があるだけで古隅田川の川筋は消滅しています。




牛御前社永禄6年(1563)の文書に州崎堤外の神領を拝領(北条氏)とあります。
州崎堤とは往古からの隅田堤のことで、その外側の堤で守られていない部分に社地が寄進されたものとみえます。

三圍神社縁起に慶長(1596-1614)の頃に洪水で流されたので、旧地から218m南の現在地に移転したとあります。
文政寺社書上には旧地は大川中島にあったが家康入城後に川一筋になり、社領を拝領したとあります。
家康入城以前の三圍旧地は牛御前社のすぐ北側にあり、川筋が複数あったことがわかります。

名所図会あるいは江戸末期の地図ではその位置に隅田堤が折れ曲がって書かれています。


1600頃以前では牛御前社の周囲には堤がなく、牛御前社の北側に三圍神社があった。
洪水で三圍神社が流され、堤がそこに築堤されることになって三圍神社は南へ移転した。

広重の三圍神社の浮世絵では牛島堤だけがぽっこり盛り上がる地形になっています。
隅田川を遮断する堤です。


新編武蔵風土記稿の須崎村条に、寺島村より北の堤を隅田堤といい、須崎村より南の堤を牛島堤というとあります。
牛島堤は小梅の自然堆積丘まで延びており、そこに源森川(北十間川の延長)と隅田川の接続部があります。


牛島付近で東に分流する隅田川を牛島堤で遮断しすべての水を現在の隅田川に流して一本化した、隅田川の西遷といってもいいでしょう。
年代は牛御前社と三圍神社の記事から1600頃となります。


以下は新編武蔵風土記稿が書く東岸各村の様子です。
渋江村:
古き地にして昔葛西三郎清重の住むところ・・
須崎村:
元は洲崎村、古このあたり入海なりしときの洲さきの地・・古に海浜の間に寺島、牛島、庵島イホなど幾多の島があり、当村もそのひとつで水害とひでりの被害のある場所・・
(正保図(1643-1647)では洲崎村となっています)

請地村:
もと大河に接する地なれば浮地の名であったのを今の字とし・・
鶴土手:
寺島村との入会地にあり、往古このあたり大河なりし頃の潮除なりし・・

亀戸村:
村内に亀ケ井という井戸あるにより・・されど鎮守の香取社神主家伝に往古当初は海中の孤島でその形亀に似たるゆえに亀島と呼び、後に周囲陸地となって亀村となり亀ケ井と混じって亀戸・・

猿江村:
古ここに入江ありて・・
小梅村:
村内に水戸海道新宿町へ通ずる道あり・・
(現在の水戸街道) 亀有村:
源平盛衰記に源頼朝角田川を渡るとき「亀なし」・・北条役帳に亀梨・・現在その名見あたらず「なし」を「あり」に言い換えしことか・・


各村の伝承記事は、隅田川東岸の北には寺島村の土地があり、その南の牛島付近から隅田川は複数の川筋に分流して、その浅瀬の中に洲(干潟〜多数の島)があったことを示しています。

隅田川と入間川の合流部には浮島社(隅田川神社)があり、水神を祀っています。
分流部には三圍神社があり、雨乞い神事の記録があるので昔は水神を祀っていたものが稲荷化したと考えられます。

中州だっととみえる請地村には秋葉大権現があり、遠州秋葉権現を正応年間(1288〜93)に勧請して稲荷と合祀されています。
ここにも「水神」が祀られていて秋葉権現と合祀され、三圍神社同様に江戸の発達で稲荷が表面化したものが現在の秋葉神社とみることもできます。
(台東区にある秋葉神社では水波能賣神=水神)を祀っています)

小梅村の東に請地村が南に広がっていますが、武蔵風土記稿によれば「浮地」が地名由来で、沖田や一本木の地名が残り一本木は埋まった船の帆柱が残っていたことが地名由来とあります。
当村と寺島村の間に潮除の鶴土手がありますからここまでは満潮時には海水が上がってくる地域だったのでしょう。
船の残骸が残るほど急速に陸化したということは築堤による干拓が行われたため、とみてよいと思います。


江戸以前の隅田川は、寺島〜牛島(現在の向島5丁目)あたりから浅く広く広がって分流し、西では現在の隅田川、東では大横川と横十間川付近の川筋となってそれぞれ満潮時には寺島付近まで海水があがってきていた。

 

天正日記の天正18年(1590)に千五百七十間(約2.8km)の堀の開削や築堤を指示した、の記述があります。
(天正日記は家康腹心の内藤清成の日記とされますが、後に記事を寄せ集めてまとめたものであり、正確な日時は信用できないともされるようです)

東国の歴史と史跡で菊池山哉氏はこれがどこであるかまだわからない、と書かれていますが築堤とは牛島堤による隅田川分流の遮断(西遷)であり、長さ2.8kmの堀割とは北十間川がぴたりとなります。

北十間川は干拓した須崎村や請地村の水抜き用で中川(当時は利根川本流)へつなぐ排水路となります。
北十間川の西端部に曳舟川と隅田川をつなぐ水運路(源森川)がありますが、江戸末期の地図では「〆切土手」で北十間川と切り離されていますから北十間川が水運目的ではなかったことがうかがえます。

小名木川の掘削は1596-1614頃とされ、行徳塩田の塩を運ぶのがその目的とされますが、加えて干拓地を海から守る防波堤でもあった。
掘った土はそのまま土手となり、同時に隅田川の分流が遮断されれば北十間川との間に広大な干拓地が生まれることになります。

大横川(横川)や横十間川の水路開削は1660頃とされますが、水運用に旧川筋を利用して開削されたものと思います。
大横川の名称は隅田川(大川)の横にある川の意となり、呼称としてぴたり、竪川は隅田川に対して縦に流れる川の意でしょう。


水運で銚子から隅田川であれば、関宿〜中川〜古隅田川が最短距離とみえますが江戸以前に橋場〜浮島にあったとみえる橋を修復しておらず(橋桁の杭が残っていた)、浅草寺の上下1qほどを漁労禁止として付近の漁民を多摩川河口へ強制移住させています。
当初の隅田川は軍事的要衝だった。
しかし、江戸幕府の安定化と1659の両国橋(大橋)などの架橋によって隅田川の東岸も江戸市街となって軍事的意味が消滅、隅田川とその東岸は江戸庶民の観光地となってゆきます。



小名木川の南側では江戸が排出するゴミの埋め立てによって北砂や南砂の広大な埋め立て地が造成され、安藤広重が深川州崎十万坪に描いています。

下図は州崎弁天(現:江東区東陽1丁目)、安定した埋め立て地に建てられたのでしょう。
かっての「州崎」は隅田川の分流付近のことだったが、干拓によってここが「州崎」になった。


現在の夢の島はさらにその沖合にあります。江戸時代でも現代でも考えは同じとみえます。



現在の江東の海抜マイナス地帯は江戸時代ではマイナス地域ではなかったようです。
地盤沈下は大正以降の地下水汲み上げによるとされますが、砂礫層など支えの基底のない未完成地盤に過大な重量が加わったために自然に沈下したものとする説もあります。
荒川放水路という巨大重量が加わる年代と位置が地盤沈下とぴたりと重なっています。

隅田川の東岸、本来は千年の単位で陸地化するところを江戸時代に百年の単位で陸地化された地域といえるでしょう。