【 第10章 古出雲王朝 】


この章は最新版に差し替え及び追加予定です(2005/05)

天穂日

天之忍穂耳はBC130頃まではスサノオとの戦で手一杯。
はるかかなたの島根半島へゆく暇はなく、連絡員を送るのがせいいっぱい。
その連絡員が天穂日の子ともされる大背飯三熊之大人オオソビノミクマノウシ。
熊の文字からは楚の系譜かもしれません。前漢時代の東シナ海沿岸、江蘇省は楚の領土です。

天穂日は偵察目的で強力な軍隊は持っていなかった。
天之忍穂耳の支援ができるわけでもなく、島根半島で畑仕事をしてのんびりやっていた(^^;
しかし最先端の文化保有者です。数年後には周辺の人々の尊敬を集めるようになって王とまではゆかずともそれに近い指導者になった。

天穂日が山東半島出自であるなら、畑作と楚ないしは斉の祭祀を広めたのではなかろうか。
出雲熊野大社の具体的な起源は縄文祭祀(初期開拓者)と天穂日の祭祀の合体、とみています。
本居宣長は御祭神の櫛御気野命クシミケヌノミコトをスサノオとしているようですが、違うと思います。
ミケは食料ないし作物の意味だと思いますが、スサノオが農耕神になるのは考えにくい。
スサノオと島根半島の関連はずっと後の国譲り以降に混じり込んできたものでしょう。

天穂日は漢字の読み書きができないはずがありません。
しかし、使う場所がない、せいぜいが日記をつけるくらい(^^;
日本には木や竹がたくさんある、これに書かれたならまず残らない。
天之忍穂耳も同様、こんなのがみつかったら・・多くの歴史観がひっくりかえるかも(^^)

中国で大量の文書が作られるようになるのは広大な領土を治めるために法律を作り報告書を提出させる、それがはじまってからです。
使わなければ忘れる。そのような状態が数世代続けば消そうとしなくても消えたかもしれません。

AD100頃ですが鳥取の青谷上寺地遺跡から弥生人の脳が発見された。
記憶はとりだせないのかなあ(^^;

島根半島の西側は農耕には不向きの土地です。
天穂日は東へむかった。まずは大山山麓。ついで鳥取市周辺、そして若狭湾から北陸沿岸へ。
それぞれの地域には初期開拓者がいますが、天穂日の勢力は少数で戦にもならず、初期開拓者や縄文の中に吸収され、祖先の意識と持参していた「お宝」以外の天孫のイメージは消えていったのではないかと思います。

BC130頃、九州で宗像協定が締結されたとき、天之忍穂耳にとって山陰沿岸に興味はなく、天穂日にとっても北九州は中国文化の導入路として重要なだけとなって、それぞれ相手を強く意識する関係ではなくなっていったのではないかと思います。

地味で目立たずこれといった伝承もない天穂日の系譜、しかし日本海沿岸側に地歩を築いたその子孫が後に重要な位置を占めることになります。



出雲の地

スサノオ引退後の子等が活動し大国主が国譲りするまでを古出雲、それ以後を新出雲としておきます。

畑作、できれば水田も可能な場所。
福岡は除いておきます。遺跡から見ても天之忍穂耳系の地域だと思います。

遠賀川流域、基本的に出雲領土だと思いますが、立岩遺跡は出土物から天之忍穂耳系の遺跡でしょう。
遠賀川を境界線として東側が出雲とみておきます。
大分がなぜ豊の国とされているのか。
ひとつは遠賀川流域でしょう。
適当な起伏のある地形の中に網の目のような小河川がたくさんあります。灌漑技術が未熟な段階では福岡平野よりずっと効率よく土地を利用できたのではないかと思います。
その隣の周防灘に面する中津なども同様です。

もうひとつは阿蘇山の大野川流域です。現在の状況をみても説明するまでもないと思います。阿蘇山麓は狩りの場所としても絶好だったのではないかと思います。

筑後川下流域は現在では水田地帯ですが、当時は灌漑技術未熟で利用できなかったと思います。
利用できたのは背振山南麓のゆるやかな段丘地帯。
吉野ケ里などの遺跡がその段丘部にならんでいるのは当然というわけです。
ここがアマテラス族の領土となっていた可能性はありますが、遺跡の状況から半島勢力が強いですから出雲の地とみておきます。

伝承とは無関係に必要条件だけでほとんど決まりそうです。
下図はハタの地名の分布図です(地図で見る日本地名索引/ABOC社による)



地名には羽田、波田、半田、秦などが含まれますがほとんどが畑で非常にくっきりした偏差があります(なお、秦は2カ所しかありません)。
あまりにもきれいに遠賀川と日向耳川あたりを境にしているので、笑ってしまうほど・・(^^;
この分布がずばりと古出雲と新出雲の勢力範囲にあった地域を示していると思います。
だとすると東北に散在しているのはなにか理由が・・これは後ほど。

スサノオ引退直後BC130頃の古出雲の支配地は遠賀川東岸〜周防灘沿岸(山口側も含む)、阿蘇山東山麓から別府湾沿岸、加えて背振山南麓に飛び地があった。
国名でゆけば豊前、豊後と長門、周防の沿岸部です。



ふたつの出雲

BC130頃、天穂日系譜の開発中枢は丹後半島と若狭湾にあって、琵琶湖方面への進出をはじめています。
天穂日はその子の建比良鳥(天夷鳥)以後の系譜がはっきりしませんが、出雲神族(スサノオの子等)とされる系譜と混じり合ってしまっているのではないかと思います。
以後こちらを出雲臣族とします。

BC130頃までは日本海側に出雲神族は存在しなかったが、宗像協定以降に出雲神族が日本海側にも進出をはじめた。
しかし山口の日本海側と島根に農耕地はほとんどありません。
出雲臣族の開発は若狭方面で、アジスキタカヒコネの海運を利用して北九州との交易を行うのが得策です。
山東半島文化の所持者という共通項もあって協調していったのではないかと思います。
この頃の山陰各地にあった港は小さな桟橋といったところか。

BC120頃、島根半島の様相が変わってゆきます。
兵庫大阪沿岸の開発は瀬戸内経由の出雲神族、琵琶湖沿岸開発は出雲臣族がおこなっていた。
奈良の唐古・鍵遺跡の開発で出雲神族と出雲臣族が接触した。

日本海側では北九州〜島根〜若狭の航路が確立されています。
若狭、琵琶湖経由で奈良、大阪へ物資輸送するルートができ、日本海航路と瀬戸内航路が結合されて環状動脈が完成します。

出雲神族と出雲臣族の交流が深まり自然に双方がまじりあっていった。
ここにいたって古出雲王朝の姿が浮かび上がってきます。

八島士奴美の孫の「深淵之水夜禮花」の妃は「天之都度閇知泥」です。
これが出雲神族に「天之」を冠する人物の登場の最初ではないかと思います。
八島士奴美の孫の妃ということはBC100頃の人物でしょう。「天之都度閇知泥」天穂日系の娘の可能性が高いと思います。

その子の淤美豆奴(八束水臣津野、国引き神話、BC70頃)の子が天之冬衣(天之葺根、大国主の父、BC40頃)で男性にも「天之」が冠せられて、天之冬衣は日御碕神社の縁起に関与してきます。
出雲系と天孫系の婚姻が盛んにおこなわれていて、出雲神族の主が「天之」を冠してもおかしくないまでに融合が進んでいたことをうかがわせます。

奈良でも出雲神族と出雲臣族が婚姻によって結合されたはずですが、後に二千年にわたる政治経済の中心地となるためにその伝承は早々に覆い隠されていったのではないかと思います。
大勢力だったのは出雲神族だと思います、大陸との交易も出雲神族がにぎっています。
天穂日系は一歩引いた結合だった。それが後の大国主への奉斎と重なって出雲臣族の呼称になっているのだと思います。


この結合が瀬戸内と日本海を結ぶ環出雲となって生産、交易、祭祀を確立させ、中国地方と近畿を完全に掌握することになった。古出雲王朝の誕生です。
各地の港が整備され、島根半島は九州と若狭を結ぶ海運の拠点として発達をはじめ、北陸東北方面への進出もはじまります。

美保神社や日御碕神社は縄文の港を源としてこのころに発達したのではないかと思います。
どちらにも神々の漂着?を表す神事があり、日御碕神社にはアマテラスがやってきたという伝承もあるようで初期開拓者時代の伝承を受けたものかもしれません。


出雲神話と風土記

記紀に疑いを持つなら同じように出雲風土記にも疑いをもたないと片手落ちです(^^;

現存する風土記は出雲国風土記、風土記豊後国、播磨国風土記、肥後国風土記、常陸国風土記で、風土記と表題のあるものは出雲国風土記と風土記豊後国のみです。
風土記逸文とされる記述は当時の「風土記」の内容を引用したと推定される文章のことで、記紀編纂時代の文書が部分的に残っているという意味ではありません。
江戸時代の文章も少なからずあってどのような文書からの引用かわからないところもあるようです。

AD713頃に「解」という地域ごとの状況や地名の由緒、伝承などの報告書の提出命令がだされますが、出雲国風土記と風土記豊後国だけが報告書の提出指示がでてから20年もたってから風土記として登場します。
出雲国風土記と風土記豊後国はなぜ完成に20年も必要だったのか。

古事記の完成はAD712、日本書紀の完成はAD720とされます。
出雲国風土記と風土記豊後国は記紀との「整合性」のチェックのために遅れたのだとみています。

出雲国風土記と風土記豊後国、このふたつに出雲と大和王朝の関係を示す内容が多数含まれ、そのままでは公表はできないために内容修正のうえで「風土記」として公開された。

内容量(頁数)は出雲国風土記が他を圧倒していてついで播磨国風土記が多い。
古出雲の伝承は豊後や豊前、瀬戸内各国の記録に記されていた。
古出雲伝承の多くは場所などがあいまいとされたうえで古事記に記載されて、風土記からは削除された。

古事記で書かれるスサノオの八岐大蛇伝承がなぜ出雲国風土記にないのか。
出雲国風土記にはもともと存在しない話だったから。
記紀に転載されなかった伝承のうちで重要な伝承が出雲風土記に転載された。

出雲の存在を島根のみに集中させるために・・
国引き神話もそれではないかと考えています。

この話は出雲国風土記の先頭に置かれていて、淤美豆奴(八束水臣津野、大国主の祖父、推定BC70頃〜)の事象とされ、海の向こうの陸地や日本海沿岸の国?に綱をかけて3つの土地を引っ張り寄せて島根半島ができるように書かれています。
引き寄せる相手に「志羅紀」の名称が登場しますが朝鮮半島をシラギとするのはいつのことか。

大山山頂からながめても海の向こうの陸地はみえず引き寄せるイメージはわいてきません。
この神話の本来の姿は陸地が流れ着く伝承だったのではなかろうか。
島根の神社には神々の「漂着」をしめす神事が残っています。

具体的な情景から感じること、それが神話になると思うのです。
引き寄せるというイメージは豊後水道の伊予の佐田岬と大分の佐賀関ではなかろうか。
別府温泉の西にある鶴見岳山頂からみるといかにも対岸の四国に綱をかけてエンヤコラ引っ張り寄せているように見えます。
ここにあった伝承が島根出雲の「漂着伝承」に重ねられたものが国引き神話ではなかろうか。
大野川や佐太の地名が双方に共通するのも注目点です。


出雲国風土記に登場する「天の下造らしし大神、大穴持命・・」この表現は祖先神への賛美。
この表現は多数登場しますが、賛美部分だけ書いて神名が書かれていない部分が多数あります。
神名が書かれている場合は大穴持神のみです。
神名のない「天の下造らしし大神」の場合の伝承にはアジスキタカヒコネの父とされる神や、国を譲り神殿を建設されたとされる神の話があります。

あやしい、非常にあやしい(^^;
神名のない「天の下造らしし大神」とは大穴持神ではないから神名が書かれていない・・
何度も登場する神名は大穴持神、アジスキタカヒコネ神、淤美豆奴神です(加えてスサノオ)。
むろん大国主や大己貴を思わせる名はまったく登場しません。

スサノオ後裔の出雲神族の伝承は九州と瀬戸内にあって、これらは記紀に転載されたもの以外は消されているのではないか。
大穴持神が島根出雲の本来の祖先神であって、大国主や大己貴など出雲神族系の祖先神は島根出雲の伝承の中に「天の下造らしし大神」と同じ賛美を用いて神名なしの存在としてあいまいに写しこまれているのではないか(スサノオはは例外扱いでしょう)。


出雲風土記の編纂には当時の出雲国造であった忌部氏(斎部氏)が関与しており、忌部氏は中臣氏と対抗する祭祀者であることも考えておくべきでしょう。
忌部氏の編纂による古語拾遣は記紀の内容と特段にかけ離れるところはありませんが、中臣氏の祭祀とは異なる忌部氏の祭祀を明確にする方向で書かれているようにみうけます。

忌部氏は高御産巣日神系の出自とされ、古語拾遣の記述からも天穂日系譜(出雲臣族)を祖とする可能性は高いでしょう。
中臣氏は長江系(楚)、忌部氏は山東半島系(斉)の出自ではなかろうか。

大穴持神は初期開拓者あるいは縄文系など先住者の系譜、アジスキタカヒコネ神(迦毛大御神)は大己貴等の系譜、淤美豆奴神は天穂日系譜であると推定。
淤美豆奴の母は天之都度閇知泥で、名から天孫系がうかがえます。
本来の出雲国風土記は島根に渡来した天穂日系譜(出雲臣族)の伝承であってスサノオ以下出雲神族の伝承はここにはなかった。

悪くいえば、嘘は書かずに読者を誘導する・・九州から出雲の痕跡が消え、大穴持、大己貴、大国主などが同一人物となってみな島根出雲という解釈が生まれる。

記紀には転載されなかった出雲神族の伝承を、出雲神族の縁戚となった出雲臣族の伝承のなかに複合させているものが現在伝わる出雲国風土記である・・
記紀編纂の趣旨をはずさないぎりぎりのラインで出雲神族の伝承が復活されて残されたともいえます。
忌部氏がそのように編纂し直したために20年がかかっているのではなかろうか。

風土記豊後国は出雲国風土記の1/10程度の内容量で、伝承部分は景行天皇の巡幸談のみといってもいいです。なのに20年もかかるのはおかしい。
風土記豊後国は大半が欠落していると推定できるようです。(参:風土記/秋本吉郎/解説文)
出雲国風土記の内容との関連が多いために「忌部氏版」出雲国風土記の完成まで公開が押さえられたのではないか。

なお、逸文を含めて九州の風土記は日本書紀の文章に酷似するものが多いそうで、なんらかの統一的な編集がなされていて、別伝が存在した可能性があるようです(参:風土記/秋本吉郎/解説文)。

播磨風土記は江戸時代末期に発見されたようで、巻頭と明石、赤穂部分が欠落しています。
ほとんどが景行天皇以降の伝承内容ですが、いくつか出雲神族に関連する可能性のある記述がみえます。
「大汝少日子根命オオナムチスクナヒコネ」
「筑紫の豊国の神、此処に在す、故に豊国村となずく」
「安師アナシの里というは倭の穴无アナシの神の神戸にきたりて」などなど
(倭の穴无の神=奈良の穴師神社、御祭神兵主神ないし大国主命)

播磨風土記にも出雲神族が存在したことが明確になる内容があったのではなかろうか。
風土記も記紀と同じように?つきのヒント集といった扱いをすべきだと思っています。



出雲の文化

出雲神族は箕子朝鮮の系譜、出雲臣族はおそらくは山東半島の中国系氏族。
遡れば同じ氏族である可能性もありますが、だとしてもそれは1000年も前のこと。
共通項は秦時代の山東半島文化だと思います。

麦は山東半島が得意とする農耕です。
稲を作れない場所で麦など畑作物の最新技術を広めた結果がハタの地名分布なのではなかろうか。
畑の文字は日本製の国字です、「ハタ・ケ=外来のケ」の意だったのではないかと考えています。

秦時代に山東半島の斉は瑯邪八主(八神)を祀っています。
天、地、日、月、陽、陰、四季が七神で大自然そのものを祀るものですが、
自然崇拝より象徴化されて、道教との中間にあるものではないかと思います(これが道教の一方の源かもしれません)。
もうひとつの兵主神は例外的に祖先神で、伝説の黄帝と戦って敗れた軍神蚩尤シユウを祀っています。
内陸の遊牧系の黄帝に対抗したのが東シナ海沿岸系の蚩尤です。敗れた神を祀るのは斉が東シナ海の国だからだと思いますが、始皇帝は征服地の祭祀に干渉しており、その関係で兵主神が登場したという論があります。
また、中国の最初の民族融合は黄帝(華夏族、中国西方)、炎帝(神農、シャンタイ族、中国西南方)、伏義・女カ(ミャオ・ヤオ族、中国南方)の争いの結果であるという論もあります。
(蚩尤はミャオ・ヤオ系、始皇帝は華夏族系です)

出雲は蛇、伏義・女カも蛇・・
兵庫周辺に兵主を冠する神社が少なからずありますが、この源は瑯邪八主の兵主神だと思います。
後の新出雲王朝と天孫との戦において出雲側が決戦地である兵庫で勝利祈願に兵主神を祀ったものと推定。

また、出雲系の王を「主」とするのは「八主」の主を用いたものではないかと考えています。
縄文系祭祀の代表も蛇でしょう、縄文系の自然崇拝との親和性もあって双方が融合したものが出雲祭祀だと考えています。


長江流域文化が大洪水で滅びた後、BC1400頃に洞庭湖付近に優れた青銅器を作る文化が復活します。
屈家嶺文化の復興といったところです。
まだ名称はないようですがここからは銅鐸埋納と同じ状況で青銅器が発見されています。
下図は猪像ですが背中にちょこんと鶏がのっています。牧歌的でユーモアを感じます。



戦国時代では楚となってその領土は東シナ海沿岸を含む強大な国家になります。
山東半島にも青銅器埋納の慣習があったようです。
BC470頃に越王句践は周最後の覇者として山東半島の瑯邪(ロウヤ)に遷都します
が、これも長江勢力の強い地域だったからでしょう。
当時の越の青銅剣は優秀で羨望の的だったそうです。その青銅技術が山東半島へ運ばれ、さらに日本へもやってきた。

出雲の青銅器埋納の源はここにあると考えています。
九州での生産開始はBC200を遡るかもしれませんが、スサノオとアマテラスの戦のさなかでは武器生産がようやくだったでしょう。
本格的な青銅器生産はスサノオが退陣して、伊都国、アマテラス族、出雲族が共存する平穏時代になってからの背振山南麓あたりで、BC130以降だと思います。

天之忍穂耳も生産拠点を作ります。これは春日市付近。
装飾的青銅器も作られ始めます。巴型飾りや十字型青銅器など道教的色彩のある青銅器も登場する。

青銅器の原料はどこから入手したのか。
下図は自然銅です。


銅鉱石の埋蔵されている地表に樹枝状の自然銅が露出しているのだそうです。
明治37年の日本鉱物誌に秋田、山形、宮崎に自然銅の産出が多い、とあるそうです。
アメリカ大陸でもBC5000頃に自然銅を使った文化があるそうで、AD708(和銅元年)の武蔵の国の銅献上でも自然銅の大塊が発見されたと推定されるようです(日本民族文化体系/稲と鉄/小学館)。


弥生初期の青銅器生産ではこれらの自然銅が原料のメインで、溶解技術の進歩で銅鉱石も使われるようになっていったのではないかと思います。
古い青銅器などを鋳つぶして使ったという説は銅成分の分析から成立しないようです。
少なくとも弥生初期では古い銅製品であろうと貴重品でそれを溶かすことはまずないだろうと思います。
ということは銅の存在を知った初期開拓者の時代から銅資源探査の行動があった可能性が高い。
弥生に入ってからはさらに探査が活発になり深山にも多くの人々が入り込んでいっただろうと思います。


呉越系であれ斉や秦系であれ、原始道教の方士であれば文字を知っています。
BC130頃には文字が持ち込まれていたのは確実だと思います。
始皇帝が文字の統一を行っていますが、三苗系方士なら巴蜀文字など南方系の文字も使ったかもしれません。
下図は春秋戦国時代に各国で使われた「馬」の文字です。


しかし、後に祭祀に使われたであろう銅鐸に文字が刻まれた様子がない。
文字の存在を知らないはずはない、この時点で絵文字からスタートすることはありえない。
民衆文化がまだ熟成していなかったために、文字(学問的文化)を使える体制になっていなかったからだと思います。

文字を読めない人々に文字をみせても模様にすぎない。せいぜいが神様の象徴として扱えるだけでしょう。
一般民衆にみせるための祭祀用青銅器ならだれでもわかる「絵」の方を良しとした。
銅鐸の原型は馬鐸や楽器にあるとして、祭祀用銅鐸は独自生産だったために文字をいれることがなかったのだと考えています。
対して鏡は100%模倣からはじまった。彫られた文字も意味はわからず形だけ模倣したものだろうと思います(実際に「変な漢字」の鏡もあります、裏返しの文字も同様だと思います)。


天孫系の文化は長江系ではあっても漢文化と合体後の呉越文化の影響下にあった。
出雲文化は漢以前の楚や斉、秦の影響の残る山東半島文化の影響下にあった。
繁栄の時代では神様に頼むことはあまりない(^^;
神頼みが必要になって銅鐸や鏡が祭祀化し象徴化されて銅鐸VS鏡の様相が生じるのはまだ先です。


スサノオの子等が東に進むほど、流れ込む縄文文化の影響が大きくなってゆきます。
スサノオ自身のもっていた文化は武力以外では初期開拓者より優れていたわけではありません。
武力による一撃は強烈だったがスサノオが消えて結局は圧倒的多数であった縄文の中に吸収されていった(九州では天之忍穂耳登場で様相が違ってきます)。

見方によっては文化的後退ともいえるかもしれませんが、その当時の環境ではそれが最もフィットする形態で自然にそうなっていったのだと思います。
最新の農耕技術の伝達によって食糧事情が好転し余剰が生じた。
海運力の発達によってその余剰作物をそれが不足する地域へ運べるようになった。
これは地域特性を生かした産物だけを生産することが可能になるということで、さらに地域の生産性が向上することになります。

この流通機構を海運力によって統括し調整していたのが「出雲」ではなかろうか。
これに山東半島から導入される最新文化の伝達者、祭祀者としての指導力が加わって西日本縄文社会をつづり合わせていたのが古出雲ではないか。

増大する人口を吸収できる新たな開発地があり、温暖化が続く限り、また外部からの攻撃がない限り、それは最適の形態だったのかもしれません。
大分や瀬戸内、近畿から立派な副葬品のでることが少ないのは、対外交易の窓口九州から遠くなるためもあると思いますが、古出雲王朝が原始共産社会の発展型で富の集積がまだ生じていなかったからだと思います。

出雲にある程度の中央集権の形ができるのはAD150以降ではなかろうか。
寒冷化がその大きな要因になったと思います。より強い統制が必要になった。
これが中央集権の登場のきっかけではないかと思います。
同時にこれが権力の芽生えであり古墳の登場でもあり、そして倭国争乱勃発につながってゆきます。


天之忍穂耳は武力と文化、富と権力、すべてを最初から保有していた。その国も最初から中央集権国家になっただろうと思います。
三雲や須玖岡本、あるいは遠賀川上流の立岩に突然のように多くの副葬品を伴う墓が登場するのは、段階を経ずに中央集権となりえる勢力がその地にやってきたことを示すものと思います。

しかし、熟成してできあがった中央集権ではなく突出した一部の人々による支配で基盤が弱く、支配者一族になにかがあればたちまち消えた。
九州統一といった本当の中央集権は民衆レベルからの富の集積が不可欠で、これは商業の発達とイコールになるとになると考えています。
それは大陸文化の影響によって出雲よりだいぶ早い時期にはじまったのではないかと思います。

記紀が神武を天皇の始祖とするのも本当の中央集権のはじまりが神武時代であるという認識があったからだと思うのです。
大国主の国譲りはその認識の差から生じた事象を源にした伝承だと思います。
神武には権力や支配の認識が濃厚に生じていたが、大国主にはまだそれが薄く生産力の中心が豊前豊後から瀬戸内近畿に移っていたために豊前豊後の死守を放棄したのだ、と考えています。



五十猛

五十猛様、紀州へお渡りになるのですか。

うむ、紀州に天火明がやってきているからな、てこ入れせねばならん。
ここはおまえ達に任せるぞ。
天之忍穂耳がムラの周りの堀を広げ始めている、水田用の水路というふれこみだがあんな形の水路があるものか。

戦に備えた堀に間違いない。よくよく気をつけることだ。
こちらも大陸の築城のベテランを呼んだところだ。
ここに難攻不落の拠点を作るのだ。オオトシもいっしょにここへくるぞ。

オオトシ様がおいでになるのですか?

うむ、青銅の工人を大勢連れてくるからな、その工房と住まいの手配をしておけ。
炭と薪を大量に使うから背振山の南麓あたりがよかろう。
これで青銅に不足することはなくなるぞ。

鉄はいかでございましょう。鍬鍬の先に鉄をつけるとたいそう耕すのが早くなりますが、海運者から買いますとおそろしくふっかけてくるのです。

それは大己貴に相談してくれ。鉄を作れる者はおらんが入手の便ははかれるかもしれぬ。


五十猛、またの名を大屋彦。
スサノオの長男、実子とみておきます。スサノオ渡来後のBC180頃誕生、母は不明。福岡付近の半島渡来系の娘あたりか。
「猛」といった名はやはり戦との関係をイメージします。
上陸した天之忍穂耳を迎え撃ったスサノオ軍の将軍といったところか。

当初は吉野ケ里の主、天之忍穂耳との戦闘終結でBC130頃に紀州に移動し近畿瀬戸内開発を統括した。
子孫伝承はありませんが天火明の濃尾上陸に対抗しながら和歌山ないし奈良付近でBC100頃に没したと推定。
和歌山市の伊太祁曽神社に祭られますが、これは先代舊事本紀による縁起のようです。
(略称旧事紀:AD900頃に書かれた神代〜推古の古伝、この内容に対する姿勢はいろいろあるようです)

紀ノ川流域の土器は縄文末期の土器にBC200前後の土器が混じるといった状態のようで、先住縄文のなかに初期開拓者がやってきた、といったところでしょう。朝鮮半島系の遺物もでています。
紀ノ川流域からは銅鐸がでたり高地性の集落が登場したりしますがこれは後の第二次倭国争乱の新出雲王朝の防衛線となる場所で必然の状況です。

初期開拓時代やスサノオ時代では重要な場所ではなかったが、奈良や河内開発に伴って材木の需要が増大しその紀ノ川流域の材木管理も五十猛がおこなった。
五十猛が植物の種を蒔いたといった伝承が生まれたのはこのあたりが源ではなかろうか。

杉にはいろいろな種類がありますが一般には降水量が多い場所を好み縄文でも杉は利用されています。
各地にいろいろな種類の杉が点在していて、これは植林されたものが広がったためだろうと見られています。

杉の用途はまずは船材、海運者は適地があれば杉をどんどん植林したでしょう。
節のない杉や檜丸太なら木をクサビで割るだけで板材も作れ、鋸のない時代にこれは重要な性質です。
兵庫の武庫庄遺跡からBC245伐採のヒノキ板がでています。
縄文の栗など広葉樹では板を作れません。
海運者は林業者でもあったわけで、神社に杉の巨木が多いのはこれが源かもしれません。

ひょっとして屋久島の縄文杉も植林か?
屋久杉は油成分が多いそうで屋久島の多雨のためだそうですが、そういう性質を持った杉が生き残った結果だろうと思います。
鬼界カルデラの大爆発(BC4300頃)で周辺の動植物は壊滅したが、縄文の海洋民が船材用として屋久島にも植林し屋久島の環境に適応できた杉が現在の縄文杉なのかも・・
だとすれば最古の屋久杉は樹齢6000年あたりになりそうです。



オオトシ

記紀に書かれる大年神はスサノオの実子ではないと考えますが、オオトシというスサノオの子がいたと仮定しておきます。

古事記では母は大山津見神の娘の大市姫となっています。
子孫が伝承されているところから重要人物だったと思います。

スサノオの実子としての大年はBC180頃に福岡付近で生まれ、現在の慶尚南道の馬山市マサン付近に拠点をおいて最新の中国文化と物資を九州へ送っていた人物。五十猛と同年代とみておきます。
九州で勢力を拡大しても半島側に受け入れ口がなければ軍勢は動かせない。
半島から人材や兵器を補給する任務も重要です。

神話上の大年の子等のうちの大国御魂神、韓神、曾富理神、白日神、聖神はその名から半島側の人物群とみえます。母は伊怒姫ですが出自不詳。
半島西南部の歴史上の「大歳族」を包含させた人物群がこれで、スサノオ登場以前から北九州と半島を行き来してアマテラス族など初期開拓者と共に中国最新文化を持って各地に展開していた人々と推定。

伊怒姫の名からは伊都、伊津、夷津といったイメージを感じます。
他の母に香用姫の名も見えますが、伊怒姫ともども北九州ないし半島南岸の海運者の娘と推定。
これらの女性群は宗像三女神五男神神話の源にもなっているものだと思います。

他の羽山戸神などの子等の母は天知迦流美豆姫です。
羽山戸神の妃は大気都比賣(伊勢神宮外宮の豊宇気比賣神とされる)で後の系譜が続きます。
天知迦流美豆の名からこの姫は天之忍穂耳系か天穂日系の人物ではないかと推定。
すなわち天之忍穂耳との戦が終わり「停戦協定」が締結された後にスサノオの子に嫁いだ人物。
この婚姻はBC130頃か。

オオトシは半島南岸に拠点を作り後に列島を追われたスサノオを迎えて半島側に強力な勢力を持つようになります。
第2の古出雲であり、後の「伽耶」の原形です。

山東半島からの最新の中国文化を日本へもたらすパイプともなり、馬韓、弁韓、辰韓諸国群の形成の接点となり、後の任那日本府など日本と半島の関係に重要な役割をはたす地域となります。

参:大年神系譜と弥生農耕(2005/05)


八島士奴美

誕生はBC150頃の大分。母は日向耳川の山岳縄文の櫛名田姫。
大野川上流、阿蘇山麓の山岳縄文の木花知流姫をめとる。
後の出雲王朝の事実上の初代、居城は宇佐としておきます。

瓊々杵の妃の木花開耶姫は木花知流姫の妹とされますが実際には同じ地域の同族の娘でしょう。
これは年代的にも地理的にもありえると思います。少なくとも両者のかみさんは地元の人ということで母系からみれば天孫とも縁戚関係となります。

事跡は残されていないようですが、天之忍穂耳との戦闘が終結して後の指導者で、天孫系譜との直接接触がないままに次世代へ移ったために伝承が残らなかったのだろうと思います。



大己貴

大己貴は北九州〜半島南岸を拠点にする海運者。五十猛と同年代でしょう。
出自は不明、山東半島か江蘇省沿岸の可能性が高いとみます。
スサノオ族は海運力の獲得に必死で、大己貴に白羽の矢がたてられて須勢理姫と結婚。
結婚はBC160頃か、以後はスサノオの養子として扱われることになります。

スサノオによるいびり伝承は(^^; 婿にせよ嫁にゆかせるにせよ、かわいい娘をそう簡単に渡せるかい、といった今も変わらぬ感情が源。
大己貴によってスサノオ族の海運力不足が解消されスサノオ族の行動範囲が一気に拡大されます。
出雲海運の創始者。

大己貴は東シナ海で活動する海運者ともつながり深く、遠く東南アジア海運者と接していたかもしれません。
文化伝達者として古出雲の最重要人物となりますがスサノオ族ではないために「主」にはならなかった。

後に登場する「大国主」とは全くの別人です。年代も150年ほど違うとみます。
ちなみにアジスキタカヒコネは大己貴と同族の海運者。大己貴の実子である可能性もあります(ただし須勢理姫との結婚以前の子)。
アジスキタカヒコネは中国地方側での重要人物ではないかと思います。
九州北岸と島根半島の海運ルートを確立した人物で、出雲国風土記の記述からは島根の天穂日系譜と最初に接触した人物である可能性あり。

BC130頃から島根出雲は日本海側の物資集散地になってゆきます。
福岡あたりから若狭まで物資を運ぶのにひとりの海運者が通しで航海するのは得策とはいいにくい。
島根まで運んで島根から先は別の海運者が引き継ぐといった方式が登場し、島根半島はその拠点になった。
(荒神谷の銅剣も「最前線」に送る予定だったが終戦となって隠匿された(^^;)
海運者の集会は集散地で開かれるでしょうから、これが神様が出雲に集まるといった伝承のきっかけにもなりそうです。


なお、「大国主」は個人名ではなく国譲りまでの九州時代の出雲王朝歴代王の共通称号だとみます。
「大国主命」に5つの別名があるとされるのもそのあたりと関係ありと思います。
大国主は国譲りの当事者の大分の王で、国譲り後に島根半島に移動しここが祭祀の中枢となって各地の出雲伝承が島根に集中されて伝承に混乱が生じたのではないかと思います。

「大物主」は国譲り以後の出雲王朝の王の共通称号で、最後の王が奈良纒向(三輪山)在住か。

「大穴持」は初期開拓者や先住縄文系の主。出雲における初期開拓者の文化の影響の大きさを示すものではないかとみています。
ただし、出雲伝承もスサノオ系と天穂日系の2種があって大穴持の名は天穂日系伝承の伝える名かもしれません。



伽耶国

さてスサノオの引退によって新たな指導者として、列島では八島士奴美、半島ではオオトシが就任します。
八島士奴美は宇佐に、オオトシは現在の馬山市に拠点をおいた。
五十猛は吉野ケ里にいたが宗像協定成立後に佐賀をオオトシの子にまかせて瀬戸内の開拓地全般の統括者となります。
大己貴は山東半島との交易に専心、アジスキタカヒコネは周防灘に商船学校を設立(^^; 船団の拡張と訓練をおこなっています(後の建御名方はその主席卒業者(^^;)。

スサノオの子等は伽耶山麓の現在の高霊市に小国を作って引退したスサノオを住まわせています。
伽耶国、生まれ故郷は無理だがすこしでも故郷に近い場所。




父上、川の者が鯉を届けて参りました。
田の者も茅で巻いた蒸し米を届けてまいりました。
よい香りが米に移ってなかなかのものでございます。
どうぞお召し上がりください。茅は毒気をはらうそうでございます。

毒気をはらうか、いまさら伽耶の爺の毒気を消してもしかたあるまいよ。
なにを仰せですか、宇佐から使者の言上が届いておりますぞ。
おお、なんといってきた。

八島士奴美殿は着々と瀬戸内方面へ領土を広げておるそうにございます。
すでに奪われた九州の領土以上になったとのこと。
大己貴殿は父上のご期待通り海運者を統率して大陸との交易を広げております。

私の息子は背振山南麓の吉野ケ里に難攻不落の城を築きましたぞ。
これで筑後川南岸のアマテラスは動きがとれなくなっております。
もう一カ所鳥栖に城を築けば天之忍穂耳とアマテラスを分断できます。そうなれば・・

うむうむ、まかせるぞ。だが忘れんでくれ、わしの故郷のことも。
機会あらば・・わが魂をわが故郷へ運んでほしいのだ。

  この言葉は子等に伝えられ、その心の奥底に秘められることになります。

川と田の者に礼をいわねばならんな。なにか手みやげになるものはないか。

山東産の麦がございます。
播くように申してみてはいかがでございましょう。



五穀とする作物は時代によって変わるようです。
春秋戦国時代あたりでは、稗ヒエ、黍キビ、麦、菽シュク(大豆)、麻(の実)、のようで、後漢時代では麻を稲に変えた説明がでてくるようです。
粟アワがでてきませんが、禾(カ:稲科全般)や黍を総称する文字が粟のようです。

麦は水利の悪いところでも作れますが積雪の多い地域では作れません。
稲は水利が必要で冬の積雪は無関係。

稲と麦の住み分けは微妙になりますが稲作地でも冬作に麦を活用すれば、食料生産力は大幅に増強されただろうと思います。
山陰西部禹と山陽全般は冬の麦作にむく地域だと思います。

全国納豆協同組合の納豆発展の歴史、西日本でも納豆消費が増加中のグラフを見ますと、ふーむ出雲は納豆嫌いだったのかな・・なんて空想も(^^;
納豆は照葉樹林文化という論がありますが、その通りかもしれません(神産巣日神の子等の文化)。
ネバネバは南の嗜好、納豆を作るには稲藁が必要。
スサノオは納豆を食べたことがなかった・・納豆の消費の少ない地域は出雲文化の地域(^^;


白髭の老王となったスサノオは半島の悪疫退散の蘇民将来伝承の源となります。
伽耶山にてスサノオ死去BC130頃。

伽耶山は牛頭山とも呼ぶそうですが、山の名として牛頭は半島に少なからず存在します。
日本では牛の背といった山の地名が各地にあります。
牛頭はそういった地形から生じた一般地名で特段の意味はないと思われます。



弥生の鉄

漢時代の河南省洛陽付近の製鉄遺跡では低温還元による海綿鉄を作る炉が発見されています。
高温を作れない時代ではありませんから、あえてそうすることで不純物の少ない鉄を得るのが目的ではないかと思えます。
付近の別の遺跡ではるつぼ式の炉などもでています。

インドのダマスカス鋼(ウーツ鋼)はBC400頃には存在していていたようで、アレキサンダー大王もこれを入手しています。
この鋼で作られたダマスクス剣の名声(恐怖)はヨーロッパにも知られていました。
特殊な結晶構造をもつ鋼だそうで、この研究によってステンレス鋼が開発された。
まだダマスカス鋼そのものの再現はできていないようで、ダマスカス鋼として市販される鋼はみかけだけを似せた別物だそうです。


インドの鍛冶アスールの物語では製鉄炉の煙が神を悩ましたので神が策略で人間を炉にいれて灰にしてしまう話があります(インド製鉄は砂鉄系の可能性がありますが情報不足(^^;)。

ビルマやインドネシアにも類似の話があり鍛冶屋が火の犠牲になります。
「呉越春秋」にもBC490頃の干将という鍛冶屋が妻の髪と爪を炉にいれて剣の製作に成功する話があります。
干将は呉王夫差の剣を作り、干将の師匠の欧冶子は越王勾銭と楚王の剣を作り、邪を滅ぼす宝剣となっています。
ベトナムやカンボジアにも類似の宝剣伝承があるようです。
インドや中国には片足の神もいます。
これらはインド系の製鉄技術が東南アジアを経て中国南部へ伝わったことを示すものと思います。

ただしフィゴや剣、雷神と鉄の関係は中央アジアなどにみられる伝承のようです。
中国の製鉄には南方系と西方系があり、秦や趙の製鉄は西方系で当初は鋳鉄だったために秦の武器が鉄製になるのが遅れたのではないかと考えています。
鋳鉄は精錬脱炭しないと武器用の鉄にはなりませんが、漢時代の河南省の製鉄遺跡からは鋳鉄を精錬した鉄塊がでています。

先に書いた漢の洛陽付近の製鉄遺跡の低温還元法の炉は南方系で、漢に至ってから呉越などからもたらされた技ではなかろうか。
中国で硬くかつ弾力のある鋼鉄が登場するのはBC50頃からのようです。
それ以前では干将の伝説のごとく運や偶然が作用したときにだけ良い鋼が作れたのでしょう。

日本では西方系と南方系の技が弥生〜古墳で交錯し、南方系の技が後に砂鉄精錬、タタラにつながっていったのだろうと考えています。
このあたりは中国やインド、東南アジアでの研究を待つところです。


九州から鉄滓や鉄片のある遺跡がたくさんでています。しかし鉄滓は製鉄のものではなく鍛錬ないし精錬を示すようでこれらは鍛冶工房とされています。
ここでは
製鉄:鉄鉱石や砂鉄から鉄素材を作る、還元反応など高度な技が必要。
精錬:鉄素材を溶融し脱炭など鉄素材を実用の鉄に変換する。
鍛錬:鉄素材を赤熱させて叩き不純物を追い出して実用の鉄にする。
としておきます。

長崎県富の原遺跡から出土した鉄戈は、刃の部分には高炭素鋼を使いその他には低炭素鋼を使っています。

いまのところ大陸や半島に同種の鉄戈はないようで、高度な鍛冶工房が九州に存在したことになります。
長崎ということは南方系の技術によるものかもしれません。

以下は弥生初期〜中期の鍛冶工房とみられる遺跡の例です。

長崎県小原下遺跡縄文晩期の出土物といっしょに炉の遺構がでていますが、いまのところ縄文の遺物は土層の攪乱によるとみられています。

長崎県北岡金刀比羅遺跡BC200〜BC100の土器がでており、溶けてガラス質になった炉底があります。

福岡県今川遺跡BC200〜150頃の遺跡で最古の鉄鏃とともに円形炉と鉄滓がでています。
出土土器の様子と位置からはスサノオ族の最初の鍛冶工房か?

福岡県立岩遺跡前漢鏡など副葬品が三雲遺跡と類似で同時期の遺跡とみられています。
遠賀川西岸・・ここが宗像協定の境界線・・(^^;

福岡県赤井出遺跡BC100以降の遺跡で素材鉄に端部が溶解した痕跡があり、溶けて滴になったものもでています。
ということはこの頃に鉄を溶解できる状態になっていた、ということです。

長崎に古い時期の鍛冶工房が少なからずあるのは対馬経由ではないルートが存在した証拠だと思います。
東シナ海経由の鍛冶技術が九州北西岸にもたらされ、それが硬軟を合わせた鉄戈の登場につながっているのではなかろうか。

弥生中期〜後期では熊本の玉名市周辺にも鍛冶工房があります。
瀬戸内でもその頃に鍛冶工房が登場(近畿の鍛冶工房はもうすこし遅い、大阪星ヶ丘遺跡など)。


鉄鉱石を用いる製鉄技の入手は弥生でも可能、問題は原料だと思います。
朝鮮半島では伽耶周辺で鉄鉱石がとれる。戦国時代の韓、魏、趙あるいは秦系技術者が製鉄をはじめるのは時間の問題だろうと思います。
スサノオや天之忍穂耳がその人々と接触できない理由はないと思います。
日本にも情報ははいっていると思います。しかし鉄鉱石がなかった。

砂鉄はチタン含有量が多くチタンが還元作用を阻害するために製鉄が困難な原料で、中国にもその技はなかった。
糸島半島と島根半島からチタン量の少ない砂鉄が採れますが製鉄はできず、鉄はしばらく輸入に頼ることになります(成分分析による最古の砂鉄原料による鉄刀は長野と神奈川のAD600前後です)。

しかし、鉄鉱石よりはるかに純度が高く製鉄容易な原料が存在しています。
鉄の含有量が多く溶かさずに鍛錬で鉄が得られる自然鉄です。
それをいつ発見したか、それを日本での製鉄の始まりとみなすなら、弥生に製鉄がはじまっている可能性は非常に高いと思います。


餅鉄と蝦夷

敏達紀10年に、投降した蝦夷のオサが奈良の三諸山(三輪山)にむかって誓いをたてる記述があります。
なぜ三輪山にむかって誓いをたてたのか。

三輪山一帯の支配者が大物主であったことは崇神紀での崇神の行動から明白です。
崇神の直前まで奈良一帯が出雲の勢力範囲だったということです。
蝦夷が三輪山にむかって誓いをたてるとは大物主に対して誓いをたてたことに他ならない。
敏達紀の記述は蝦夷が出雲族の流れを引く氏族である証拠だと思います。

出雲弁と東北弁がズーズー弁で似ているそうですが、当然ということになります。
東北争乱での俘囚を出雲が寛大に扱っている、奥州藤原三代の容姿が大和王朝的である・・みな蝦夷と出雲のつながりを指し示す。

いったん時代が下りますが、BC50頃の千曲川流域・・
(改訂前ではAD1〜100頃でしたが修正します)


おい、この鍬は鉄じゃないのか。
こんなところに鉄の鍬などあるはずないぞ。
これをよく見ろ、これが鉄じゃなくてなんだというのだ。

ご老人、この鍬はどこで手に入れたのかね。
村オサのところで作ってもらうのよ。
石より柔らかいですぐ減ってしまうが作るのはずっと楽だで。
岩にぶちあてても欠けたりせんから安心だしの。

そ、その材料はどこから・・
東北の連中がたくさん持ってくるでな、釣り針なんぞはみんなそれで作ってるだで。
鍬はでかいのでないと作れんから村オサのところじゃで。

すまんが村オサのところへ案内してくれんか。
あいよ。あんたらはどこから来たんかね。

村オサの家にて

今の物とは違う迫力があるからよ、頼んで集めているじゃ。
これは漆塗りの皿で土中に埋もれていた品だで。
ふーむ、この壺もずいぶんと細かい細工で見事だな。
そいつは今の品だがいいできだわなあ。

とろでその奥にある奇妙な立像はなんだね、さっきから気になっているんだが。
大昔に東北へ北からきた人々の姿を写したものだそうだわ、これも土中から出た物だで。
目には雪原のまぶしさを遮る板をつけとるで、はずした像もあるでよ。
今でもむこうの巫のもんが秘蔵しとるそうでめったにはない貴重品じゃで。

その箱は?
ああ、それはがらくたをほおりこんでおく箱じゃい。
見てもいいかね。
いいともよ。

ガサゴソ・・
この腕輪、鉄だぞ。

村オサ、この腕輪はなにで作ったものかな。
クロタマじゃい、しばらく前に流行った腕輪だが今は使う者はおらんで。螺旋に巻いたのもあるでよ。

クロタマとはなんだね?
ほれこれじゃよ、東北の北上あたりでとれる石じゃ、わしらはそこと交易しとるでそこの連中が持ってくるじゃい。
ちょいと炭火につっこんで叩けば平たくも細長くもできる便利な石じゃで。






岩手で「高度な製鉄技術なしで鉄となる餅鉄」が発見された。
今も餅鉄の現物がみつかっており、釜石市では餅鉄による製鉄を観光行事として行っているようです。
参:城下もりおか400年Vol.121餅鉄による刀剣、(分析資料M-9072は現在削除されています)、釜石鉱山資料展示室No.57など。



餅鉄は純度の高い鉄を含んで産出する自然鉄(磁鉄鉱)です。
他にも、琵琶湖の湖成鉄、関東の鬼板、湖岸などに生ずる高師小僧(褐鉄鉱)があります。
特に餅鉄は純度が高く鉄の含有量が70%に達し0.17%の炭素を含む理想的な組成のようです。

1977年に釜石西中学校の生徒達が小さい炉を作り、餅鉄約24kgから12.5kgの還元鉄を作ることに成功しています(炉本体内部は40×60×高さ60cm、レンガと粘土)。
これは古代タタラ復元による砂鉄製鉄に比べて、原料半分、炭半分、製鉄時間1/13(5時間)(鉄鋼界1978/3、東アジアの古代文化26)という驚異的なものだったようです。


餅鉄を発見した出雲は歓喜勇躍。これなら鍛冶屋+土器窯で鉄を作れた。
開発部隊の全力が東北へ向けられ島根、若狭、北陸沿岸の港は大忙しとなった。
出雲各地に鉄製品が出回るようになります。

鍛錬場所は炭の入手が容易で良港のある場所、若狭湾沿岸。
秋田や岩手でも鍛錬が行われ、それが後の蕨手刀など東北の製鉄技術につながったかもしれません。
自然鉄に依存するものではあるが、BC50頃に最初の製鉄がはじまった。

金属資源探索部隊がさらに山奥深くにも送り込まれるようになります。
この頃の利根川や霞ヶ浦への入植者も金属資源の探索者だったのではないかと思います。
千葉県の菅生遺跡ではAD1頃に鉄斧がでています。探索者達がもちこんだものかもしれません。

河内の池上曽根遺跡では弥生中期頃に大陸系の磨製石器が急速に消えています。
石の槍を200本も「破棄」してもいます。
道具が鉄製に、槍が青銅製に切り替わったからだと思います。

餅鉄発見による秋田や岩手内陸への大量の人と弥生文化到来が周辺の東北縄文の様相を一変させます。
蝦夷は出雲と東北縄文の融合によって誕生した人々。

敏達紀に大和政権に降伏した蝦夷のオサが三輪山に対して誓いをたてた。
敏達天皇ではなく、「出雲の王」に誓いをたてたのは出雲の主が蝦夷の主でもあったからに他ならないと思います。
蝦夷の中枢地域であろう岩手と秋田にハタの地名が分布しているのも納得できます。

なお、アイヌの人々(文化)は寒冷化と温暖化の変動に合わせて津軽海峡をはさんで北上と南下がくりかえされ、縄文文化にオホーツク文化と弥生文化が混合拡散しながら北海道側に残った人々とみています。
蝦夷との混血もあったと思いますが、蝦夷とは異なる人々です。


自然鉄の量はわずかで弥生時代が終わらぬうちに取りつくされてしまったと思います。
(釜石は餅鉄産地の東端だったために現在でも若干の餅鉄が残ったのではないか)
弥生後期には鉄鉱石を溶かせる炉も技もあったのではないかと思いますが、鉄鉱石がなければどうにもなりません。
弥生末期〜古墳時代では再び中国や半島から鉄を輸入せざるを得ず、同時に鉄鉱石産地の入手をもくろむことになります。
それに成功したのが応神で、これが韓鍛冶の源流ではないかと考えています。

もうひとつの製鉄のはじまりは、砂鉄から鉄を作る技を手に入れたときだと考えています。
砂鉄製鉄がはじまったのはAD400〜AD500頃の九州だと考えています。
九州が独立状態となって東シナ海を渡るパワーをもっていたであろう時代です。
梁書(636)にはこの頃の「日本の仏僧」が渡来して日本の国内事情を語った記述があり、いくつかの国に分かれていたことがうかがえます。

中国の南朝はインド交易をおこなっており、九州の海洋民もそれに参与してインドないし東南アジアの製鉄技を知るチャンスがあったのではないか。
これがタタラ製鉄と倭鍛冶の源流ではないかと考えています。
タタラ製鉄はヒントのみの導入で砂鉄によるタタラ製鉄は日本で開発された可能性も少なくないと思います。

台湾のヤミ族は小舟のことをタタラ(tatala)と呼んでいます。
(ヤミ族はフィリピン北部のパタン諸島から移住してきた人々のようです)
日本のタタラ製鉄でも大船、小船と呼ぶ構造呼称があります。
タタラとは舟の意・・その可能性は高いと思います。


製鉄の起源は連続していてひとことではいえない。
餅鉄など自然鉄を鍛錬して鉄を得た時代、炉と技を得たが鉄鉱石がなく国内生産はできなかった時代、砂鉄製鉄によってすべてが国内生産となった時代、500年近い幅がでてきそうです。






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