【 第9章 スサノオと天之忍穂耳 】



箕子朝鮮

箕子朝鮮の起源には説がいろいろありますが、殷の紂王の親族(箕伯ともされる)が紂王の暴虐をいさめ幽閉されていたが、殷が滅びたとき周が半島に移封して王とした、としておきます。
周の首都のあった現在の洛陽付近には春秋戦国時代に「韓」という国もあることから、このあたりの氏族が箕伯とつながっているかもしれません。

BC1000頃の山東半島には「箕族」があったといわれ、この人々が祖先であるか、その箕族もまた殷滅亡時に山東に避難してきた人々である可能性もあります。
どのみち箕子朝鮮と山東半島は位置的にも切り離すことはできないです。

ちなみに箕伯は風神とされ、箕子はその子孫といった意味でしょう。
「箕」はあおいで穀物の殻を風にとばす農耕用具で、風神と関係ありそうです。


西日本や東海沿岸の初期開発が行われているころ、箕子朝鮮で政変が起きます。

BC195、燕から亡命していた衛満が策略をもって箕子朝鮮を奪取して衛氏朝鮮を建国。
史記によれば燕は穢ワイ、貉バク、箕子朝鮮、真番と交易をしていたようで、朝鮮半島北部から明刀銭が多数出土しています。
穢、貉は朝鮮半島北東岸、真番の位置は諸説あるようですが、漁業を得意としていたようで
箕子朝鮮南部の現在の忠清南道沿岸としておきます。

燕の起源は殷の祭祀者であった召氏族が燕地に封じられたことによるといわれています。
箕子朝鮮の起源と連動しているのかもしれません。

戦国時代の箕子朝鮮には大量の中国系戦争避難民が到来していたようで、それだけでも混乱状態だっただろうと思います。
三国志東夷伝に、秦、燕、斉、趙の戦の避難民数万が到来、とあります。

三国志魏志韓伝:侯準既僭號稱王、為燕亡人衛満所攻撃、将其左右宮人走入海、居韓地、自號韓王。其後絶滅、今韓人猶有奉其祭祀者。漢時属楽浪郡、四時朝謁

冷や汗ものの意訳をすれば、
箕子王朝へ亡命していた燕の衛満がクーデターを起こし箕準王等王朝の人々は海へ逃れあるいは韓の地で韓王を名乗ったが滅びた。
現在も韓人に祭祀者となっている者がいる。漢の時代には楽浪郡に属した。
韓を自称したのは周時代の先祖の姓を名乗ったといったところか。

三国志の魏史部分の種本とされる「魏略」にこういう一節があります。
箕子及親留在国者、因冒姓韓氏。準王海中、不興朝鮮相往来
国に残った箕子一族は韓を名乗り、準王は海中にあって(朝鮮と)行き来したが(箕子)朝鮮の再興はできず。

海中にあるとは半島から海を渡って他の土地へいったということでしょう。
沿岸の島であれば国の一部であってわざわざ海中とは書かないと思います。
勢力を回復できるような海の向こうの土地とは「九州島」以外には考えにくいです。




辰国

三国志東夷伝では馬韓が秦の賦役から逃れた人々を東岸へ移住させたとあります。
年代が不明です。避難民到来から300年もたってからそれをおこなったとは考えにくい。
BC200頃の話を後に馬韓となった国名を用いて書いているのでしょう。

BC100頃に真番に隣接して「辰国」があった。
三国志東夷伝には「辰王不得自立為王」、辰王は自ら王となることができない、という奇妙な一節があります。
王族ではあるが外来者のために、その地では先住者の賛同がなければ王にはなれなかった・・という意味と解釈しておきます。

東夷伝はAD250の時点での話で、東夷伝でいう辰王がBC100の辰国の王であるかどうかは?ですが「辰韓者、古之辰国也」ともあるので、昔の辰国が今の辰韓のひとつとなったのは間違いないでしょう。
(辰韓は国名ではなく東岸一帯の小国家群の総称)
しかし新羅本紀ではBC57赫居世建国以前にそれらしき話はなく、三国遺事にもありません。
編纂者はなんらかの理由で辰国と新羅を切り離しているのでしょう。

秦の滅亡、その王朝の一族が朝鮮半島へ亡命した。その集団が東夷伝で辰国と称されたが中国系の国であって朝鮮の国とは認められない、それで新羅本紀ではずっと後の赫居世を降臨者として新羅の祖にしているのではないかと思います。

高い文化を持つゆえに降臨と称するわけで、新羅建国の赫居世は中国系王族の後裔でしょう。
かっての辰国の王族と先住者との子孫が「降臨」して辰韓地域を統合したということで、これは日本の天孫降臨と同じ。降臨者が黄河系か長江系かの違いだけとみました。

東夷伝で辰韓を秦韓ともいうとあります。AD250時点では秦との関係を確認できなかったのでそこまでの表現なのだと推定。
年代的に赫居世は秦王族の5世代ほど後の人物である可能性が高い。
新羅本紀編纂者には5世代目なら先住者と区別はできない新羅地域の住人であり、新羅建国の祖として問題はない・・そういう意識があったのではなかろうか。
神武の場合もまた同じです。渡来者の4〜6代目なら天皇の祖として問題はない、同じ考え方だと思います。

朝鮮半島には秦の賦役から逃れてきた人々もいて反秦と親秦の中国避難民が混在することになります。
先住者のなかに箕子朝鮮から南下した人々も混じる。
この複雑な状況が弥生のキーワードのひとつだと思います。



スサノオ登場

「スサノオ、大気都比賣に食べ物を乞いたまいき」、古事記。
アマテラスと同格の存在なら食べ物で困ることなどあり得ないです。
貧者から出世した人物である様子もない。
このひとことがスサノオが旅人(外来者)であることを示すと考えます。

著名人物には複数の名があったりするのにスサノオにはそれがありません。
日本における関連事象のない突然の登場だったからではないかと思います。
記紀編纂時代には出自を推定できず、適当な命名があるのみだったという可能性もあります。
段階を踏まずに突然のように日本に登場した王。

船が不得手で対馬海流にながされて上陸地点は山口県の須佐湾あたりか。
ま、上陸地は福岡から島根半島の間ならどこでも大差はありません(^^;

スサノオは洲狭の男、小さな浜へ漂着した男の意か。
スサの男と呼ばれていたとしておきます。

信州の諏訪の地名は山口の佐波、周防あたりが出雲時代に運ばれたものだと思います。
諏訪は諏方、周方、洲波とも書くようです。
スハ、スワ、サワ、これらはなにか共通項があるだろうと思います。

書紀に書かれるスサノオは半島へ行き来しているように見えます。
母の国にゆきたいとか根の国へ帰るとは抽象的なことではなく、半島の故国へゆく(帰る)ということ。
わあわあ泣きわめいたというのは、国を失った悲しみを寒冷化に伴う環境劣化にのせて表現したものでしょう。
子孫のために船を造らねばならない、といっているのは船が苦手な国の出自だったから。

渡来した人物が箕子朝鮮の王族である可能性は高いと思います。
王の資格を持つ人物・・改訂前までは単純明快に箕準王でしたが・・

箕準王自身は日本側に定住はせずその王子が定住した、に修正しておきます(^^;
スサノオは箕準王の息子。
泣きわめくのも渡来時に若年であったなら自然です。
ま、しかし親父であれ息子であれ箕子朝鮮王族に変わりはなく以降の流れには関係なしです。
渡来はBC190頃、スサノオ15〜20才あたりか・・



武器

上陸時の手勢は数十名といったところか。
福岡あたりには半島から渡来している者が多くそこが目的地だったが、はるか東の山陰沿岸へ流されてしまい目的地へたどり着くのに数ヶ月を要した。
手持ち食料はとうに底をつき、略奪する他はなかった。
食べ物を大気都比賣に乞うたが、ばっさりやってしまうのはそのあたりのこと。
これは半島側での脱出中の事象を受けている可能性もあります。

よれよれの小集団でも(^^;甲冑と青銅剣を持つ軍隊です。
王も軍隊も知らぬ一般人は赤子の手をひねるように制圧されたでしょう。
家臣だった人々も次々と渡来し、数年後には九州北岸を掌握してゆきます。


武のスサノオ。ではいかなる剣を使っていたのか。
下図は燕で用いられていた遼寧式銅剣です。実用品というよりほとんど祭祀具でしょう。

春秋時代に遼寧省の少数民族が使用した剣とされています。
このようなタイプの柄は他にみあたりません。
この柄は見せるための装飾用の「台」の意味ではなかろうか。

柄の形が「エ」の字型では手首にひっかかって実用にならないと思いますが、後述する全羅南道や吉野ケ里の銅剣の柄はこれを継承しているとみえます。
箕子朝鮮は燕と交流が深かったようで、スサノオもこの剣を使う氏族の流れで、半島南部や九州にこのタイプを運んでこの形が剣として九州で一般化した可能性は大きいと思います。

下図は戦国期の中国の剣と福岡三雲遺跡出土の剣です(縮尺はおおざっぱです)。


桃氏銅剣は長江中流域の洞庭湖の長沙付近の形式の剣です。
越王勾銭剣も同系の剣だと思いますが、表面に硫化処理が施してありいわば「ステンレス銅」になっています。

三雲の剣は遼寧式に近いとみえますが、実戦向きに変化した三雲オリジナルなのかもしれません。
この剣がいつ使われたものか、正確な年代が知りたいところです。

秦の銅剣は兵馬俑の兵士に装着されていたものでクロームメッキが施された長大な剣です。
クロームメッキは近代の発明とされていましたが、越王勾銭剣といいBC500〜200の戦国期にたいへんな技術が存在していたわけです。

下図は三雲王墓から出土したとされる桃氏銅剣で成分分析から江南で作られた剣のようです。


同じタイプの剣が福岡県中寒水屋敷遺跡からでていますが、こちらは研磨されておらず柄が扁平になっています。
朝鮮半島の上林里からも柄が扁平の研磨されていない剣が出土しており、成分分析から朝鮮半島で作られた剣のようです。
桃氏銅剣の存在は弥生中期の北九州と朝鮮半島南西岸が長江中流域とつながりのあった証拠でしょう。


八岐大蛇を退治したときの剣にはいろいろの名がありますが、十握剣の名は10の拳の長さの剣の意でしょう。1mほどの長剣になります。
青銅剣であれば秦の長剣である可能性もありそうです。
下図は前漢末期と推定される平壌の楽浪漢墓出土の鉄剣。約1mの長大な直刀です。


スサノオが渡来後に前漢の鉄剣を入手していた可能性もないとはいえないでしょう。
これも十握の名にふさわしい剣になりそうです。

長大な剣は槍や矛の機能をもたせるためのものだろうと思います。
刀や剣の戦いは高度な訓練が必要です。
槍なら徴用兵でも戦力になる。長大な剣なら槍の代わりにもなるわけです。
日本の戦国時代の主戦武器は槍です。
弥生時代でも主戦武器は矛や槍で、剣や刀は武人の象徴としての武器だったと考えています。
(矛は身の中に柄を差し込むもの、槍は柄の中に身を差し込むもの、と区別するようです)


後に細身銅剣と呼ばれる武器が多数登場しますが、実際には槍の穂先ではないかと思います。
武将は主戦武器に矛を使い、一般兵が槍を使った。
矛は柄を差し込むための穴が必要で細身銅剣より加工に手間がかかる。
細身銅剣の形はシンプルで大量生産するのに最適にみえます。

剣として使うには柄の取り付け部が小さすぎて木製の柄では棍棒に打たれただけで根本から折れてしまい戦場では役にたたないと思います。
剣として使う場合はしっかり固定できる銅製の柄をとりつけて、士官クラスの護身用として使われたのではないかと考えています。


下図は細身銅剣(槍)と戈の使用推定図です。一体化すると戟ゲキという武器になりますが日本ではみあたらないようです。

戈は戦車兵ないし騎馬兵を引き倒すための武器で、歩兵の接近戦では扱いにくい武器だと思います。
まだ日本では馬の戦いはなかった、無用のはずですがけっこうたくさんでる。
下図は中国の戦国時代の船の戦で、兵が戈をもっています。相手の船を引き寄せたり船上の相手を引き倒すために使ったのでしょう。

効果の少ない武器に貴重な金属を使うはずがない。日本では水上戦が弥生の重要な戦だったのではないかと思います。
幅広の戈が出土するのも水上戦での勝利祈願の祭祀をおこなったためだと考えています。


下図は吉野ケ里出土の剣。細身銅剣と遼寧式銅剣の柄を合体させた形で剣と柄は一体鋳造。
同型剣が山口県でも出土しているようです。

この柄の形では戦えないと思います。祭祀用あるいは武人の象徴としての剣とみます。
実用となってきた剣先の形に遼寧式銅剣の柄の慣習が残されたものではないでしょうか。

下図は全羅南道茶戸里出土の復元モデルです。

吉野ケ里出土の剣とそっくりですが、柄の部分は木製を含む組み立て式で朝鮮半島からは吉野ケ里のような一体鋳造の剣は出土していません。
遼寧系と桃氏系の剣、どの時代にだれが使ったのか、出土物の10年単位の年代確定がほしいです。

下図は唐津市出土の銅剣です(年代不詳)。

柄と剣は一体鋳造ではありません。
このタイプの剣は吉林省の松花江流域から多数発見されており、
ここから朝鮮半島を経由して運ばれたものと思われます。

下図は沿海州ウラジオストックの北約100キロのウスリースクの石棺墓から発見された細型銅剣です。
朝鮮半島で変化したものがはるか北のウラジオストックへも伝播したのか・・
それとも吉林省付近で遼寧型銅剣が細身型となってウラジオストックや朝鮮半島に広まったのか・・




下図は糸島の三雲王墓出土の銅剣です。剣本体の形は吉野ケ里や全羅南道剣の形式に類似ですが柄は実用的な形になっています。

青銅剣が祭祀具から実戦用武器となってゆくその過程がみえるように思えます。
三雲王墓剣の形が日本での変化の結果である可能性もありそうです。

この剣に春秋戦国の中国南方型の剣(桃氏剣や越王勾銭剣など)のイメージはありません。
弥生初期の剣は「燕」の形式が主流にあって、実用的な形に変化していったのかもしれません。
あいにくBC200〜BC150頃の呉越楚、加えて斉でどのような剣が使われていたのか、まだデータを入手していません。それによっては三雲王墓の剣の形との関連や北九州での戦の様相などが見えてくるかもしれません。


日向攻略

BC190頃にスサノオが北九州を制圧しつつあるときの勢力は100人あたりか。
生活物資はすべて略奪に頼る(^^;
武器の優劣以外に兵の統率と指揮がなければ戦には勝てません。
スサノオにある程度対抗できたのは海運者のみだった。

「軍隊」を持つスサノオは戦にもならないうちに九州北岸を制圧します。
海運者はアマテラス族へ青銅剣を供給しただろうと思いますが、武器があっても烏合の衆では戦にはならず。

BC180頃、北九州を制圧したスサノオは兵力を着々と増強、半島のオオトシは武器と食料を調達してスサノオ部隊へ補給します。
物資だけでなく兵も徴用して送り込んだでしょう。
ひょっとすると半島南部の困窮者は望んで応じたかもしれません。半島からの徴用兵は千人の単位でありえると思います。

スサノオの目的はお家再興、戦力となる人間と土地(徴兵と収奪)の確保が優先です。
佐賀平野を占領し周防灘沿岸へも展開した。
総兵力は数千に達したか。スサノオ王国の誕生。

書紀ではスサノオが機織り小屋へ馬を投げ込んだりしますが、自分の手足とする馬であればそんなことはしないでしょう。
この話はかえってアマテラス側に労役馬がいたことをうかがわせます。
スサノオと馬のつながりをイメージさせる事象はみあたらないのでスサノオ部隊は歩兵だったと見ておきます。

BC170頃、スサノオは大分から南下して日向(市)を制圧し、アマテラス族の阿蘇〜五ヶ瀬川〜宮崎の道を分断した。
ついで五ヶ瀬川を遡上してアマテラスの背後を突こうとしたが山岳族の反撃が激しくこれは失敗。
このとき耳川の山岳族と戦った話が八岐大蛇伝承となった・・(^^;

草薙の剣はアマテラスが山岳族のオサへ貸与した剣、貴重品でひと振りのみ(^^;
現在伝えられる草薙の剣がこのときの剣かどうかはおくとして、アマテラス族が入手できる剣は半島の慶尚南道あたりか山東半島で使われている剣でしょう。

伝来する草薙の剣が銅剣ないし白銅剣であるのは確実と思われます。
楠の箱に納められており、楠は樟脳の原料で樟脳は鉄を腐食させるゆえだそうです。
熱田伝来の草薙の剣は実見記録からは前出の三雲王墓出土の剣か桃氏剣の形が有力なようです。
三雲の剣は実用の剣に見えますが他に類似剣が見あたりません。天之忍穂耳上陸以後に独自の形が生まれたのかもしれません。


その山岳族は苔むし檜や杉の密生する八筋の耳川支流に住んでいた。
この山岳族と反目していた山岳族もいます。
それがアシナヅチ、テナヅチで後にスガノヤツミミと名をかえてこの一帯の主となります。
スサノオは味方となった山岳族の櫛名田姫を妃にいれて八島士奴美が生まれる。
(出雲風土記にこの話がないのは日向の話ですから当然というわけです)

日向を押さえれば宮崎を手中にできるのは時間の問題です。
しかしスサノオの最大の敵はその時間だった。

日向を制圧したものの日向沿岸と宇和島の海神族に海上を封鎖され海路での物資補給が不可能となった。
大己貴の艦隊(船団)は半島との物資補給で手一杯でここまで進出することはできなかった。
険しい山岳越えの陸路では兵器補給がおいつかず、宮崎戦線は膠着状態となった。


スサノオの目的はお家再興のための戦力蓄積で略奪もやぶさかではなかった。
だがその子等も同じか・・食べるためには畑を耕さねばならない。妻をめとり子が産まれる。
先住者とのつながりも深まって、父のように日本を踏み台として考えることはできなくなってゆきます。



故郷


俺のいうことが聞けないのか。国を再興したくはないのか。

五十猛は父をじっとみあげていった。
私はここで産まれました。私の母も妻も子もそうです。ここが私たちの故郷なのです。
伝え聞けば仇の衛満はすでに亡く、父上の国には扶余の一族が入り込んでもいるようです。
今ここには豊かな土地がたくさんあります。ここを開拓して新たな国を作ることが再興の目的にもかなうのではありませんか。

ここは私の国ではない。
それだけいってスサノオはだまりこんだ。
その横で櫛名田姫がむずかる赤子(八島士奴美)を抱きかかえてうなだれている。

しばらくして五十猛がいった。
ここからでは父上の国の様子がよくわかりません。この目で確かめにゆきましょう。
糸島の船大工の造ったいい船があります。それなら数日で半島へ渡れます。

紀元前160年。
スサノオは故国の土を再び踏み、鎮海のオオトシの拠点でかっての家臣たちとの再会を喜びあった。
衛氏の兵力はさほどではなく、半島で呼応してくれる兵力を見込めば王国を取り戻すのは不可能ではないように思えた。
伽耶山を越えたところにかっての家臣が祭祀者となっていると聞いて、スサノオは五十猛とともにその地へ向かった。

伽耶山を越えると眼下に平野が広がり、そのはるかかなたに故国の山々が遠望できた。
取り戻すのだ、あの山河を・・

だが祭祀者の話はその期待を裏切るものだった。
漢の使者がたびたびやってきており、衛氏となんらかの協調ができていると思われた。
漢は強大無比で、援軍がくればその将軍の一人とでも太刀打ちできないのは明白だった。


  実は衛氏はくりかえし服属を迫る漢の使者を追い返していたのである。

今は無理か。子等の地でもっと勢力を増さねばならぬ。この山の木々の苗を持ち帰ろう。それが大きく育つ頃には・・

だがスサノオの齢すでに五十。
生きてはできぬかもしれぬ、その思いを伽耶の山風が運び去っていった。



半島から帰ったスサノオは以前にもまして強引に領土拡大を計った。
全軍を筑後川南方に集結させ、正面からアマテラスの中枢である熊本を占領すべく玉名、大牟田へ進撃を開始した。
八女や玉名にはアマテラスの機織り官女が大勢いた、これをけちらしていったわけです(^^;
アマテラスは阿蘇山中へ避難せざるを得なくなります。いうまでもなくこれが天の岩戸隠れ。

記紀で乱暴者として書かれるのは攻撃されたアマテラス側からみれば当然として、古墳時代では反乱などの旗印に復活されては困ることも理由になったと思います。
後の神仏習合でスサノオに牛頭をかぶせたのはそのあたりの火種消しのねらいがあったのでしょう。

スサノオは落ち武者である、こう考えればわかりやすいと思います。
スサノオの目的は故国のお家再興、だがその子等の意識は違った。
父の故国を知る者はおらず、父の強引な行動に離反していったのではないかと思うのです。




呉楚七国の乱

アマテラス族がスサノオに苦戦している頃、あるいはスサノオが着々と領土を広げている頃。

前漢を建国した劉邦(高祖)は長江の淮南王を破って功をあげた兄の子の劉ヒ(サンズイ+鼻)にその領土を与え王に任命します。これが呉です。
さらに南の南越では旧来の王にその領土支配を認めています。秦との戦の疲弊があって南越まで制圧するのが困難だったのでしょう。
南越は後に武帝に滅ぼされますが、南越王墓から大量の副葬品が出土していて貴重な資料になっています。
日本の鏡の大量埋納と同じ慣習があるのはここだけのようです。

2代目の文帝となって宰相の晁錯が提言した諸侯領土の削減がはじまります。
当時の呉は銅と塩の生産と海運力で莫大な富を得ていたようです。
3代目の景帝となって領土削り取りは激しくなり、劉ヒの王子が景帝に殺されるという事態も生じてBC154に呉王劉ヒは周辺国を巻き込んで反乱を起こします。



白文字と赤地が反乱国とその範囲ですが東シナ海〜黄海沿岸国すべてが反乱に参加したわけで、兵力は20万に達したようです。
この一帯が豊かな地域であったから漢の締め付けに対する反感も強かったのでしょう。
東シナ海沿岸は後々まで内陸王朝と意識を異にする地域のようにみえます。

当初は反乱側優勢で景帝は宰相の晁錯を自ら殺して反乱を静めようとするが失敗する。
しかし反乱諸国にも強い連携意識はなかったようで次第に勢力を弱めて3ヶ月後に敗北します。
これが呉楚七国の乱です。あくまで反乱なので中国史書では良くは書かれないようですが、反乱側にも理はあるようです。

後世の作かもしれませんが、高祖劉邦が劉ヒを呉王に任じるとき、占いに50年後に南で争乱があるとでて、劉ヒにも謀反の相があったために劉ヒにくれぐれも逆らうようなことはするなと言った逸話があるようです。
劉ヒは長江の南まで逃げて殺され、他の反乱国の王も殺されるか自殺したようです。
その王朝関係者はどう行動したか。
少なくとも反乱の主体となった呉と楚の場合はただではすまないでしょう。へたをすれば死罪。
どこかへ逃げるほかはなし(^^;

反乱に参与した王族は江蘇省沿岸や山東半島から海へ脱出した。
呉は海運国で大型船が多数あったでしょう。
山東半島諸国は朝鮮半島情勢に詳しく、日本の情報もあったでしょう。
とりあえずそれぞれは済州島へむかった。



古代船1

BC400頃の戦国時代に呉越が争っていたとき、呉には橋船、小翼、大翼といった名の船があります。
どんな形だったかの記録はないようですが、造船台の遺物がでているようです。

呉王夫差は福建省の福州に福建という造船所を作りここで建造した帆船を福船と呼んだそうです
(これが福建省の名の由来?)。
造船所の位置から見ても東南アジアとの交易を考えた外洋船だろうと思います。

当時の中国は船を鳥に見立てていたようで、翼は帆からのイメージでしょう。
中国や東南アジアのジャンク船に使われる竹の桟を横にいれた帆は優秀だそうで、現在でもこれを支持するヨット設計者もいるようです。
マニラ麻で造ったロープは軽く丈夫で海水に強く水に浮きます。マニラ麻の90%がフィリピン産です。
東シナ海の海洋民はタパ布で帆を作り、風に乗って南海を渡っていた。
(タパ、タク:桑や梶などの木の繊維で作る布、ハワイなどを含めて東南アジアにある布、沖縄の芭蕉布などもその仲間だろうと思います)

橋船からは浮き橋を思い浮かべます。「浮き」を並べてその上に板を敷く橋です。
2隻の船を並べてその間を橋でつないだものが橋船、すなわちすなわち双胴船と推定。
用途は外洋での輸送と戦闘用。
双胴船はハワイ、タヒチ、ニュージーランド、などの外洋船で使われています。
古文献で方船とされるのが双胴船である可能性があるそうで、ごく小型ですが双胴船が長江湖北省の宜昌にあります。


秦、漢代に楼船と呼ぶ船があるようですがこれも形はわかりません。
お城のような楼閣を乗せた絵がありますが、風がなくてもひっくりかえりそうです(^^;
漢が船を必要とするのは遼東半島や朝鮮半島に渡るためだと思います。
楼船は浅瀬の多い黄海を渡るための幅広の平底船に盾をめぐらした櫓を持つ船、といったところか。

漢での海の情報は漢書地理志にありますが(8章インド商人参照)船の情報はありません。
BC100頃にインド南部のマドラス付近からベトナム北部に至るのに10ヶ月かかっていて、南シナ海の寄港地の状況から、この頃の船の航続距離は500〜1000キロといったところにみえます。

後漢時代は海の情報がみえません。
AD250頃の三国時代では魏呉蜀の内戦で手一杯で船も軍事優先だと思います。孫権艦隊の船も運河や河川を利用しての兵員輸送用ですから外洋船ではないと思います。
大型であってもこれで東シナ海を横断して日本に向かえば難破もしたでしょう(^^;

南北朝時代の南朝では海を重視しているようで、海に関する情報が見えてきます。
東晋(317〜420)の仏僧法顕ホッケンは長安(西安)からシルクロードでインドにはいり、ガンジスからスリランカまで海路南下して東南アジアを経て山東省に帰還し、その記録を残しています。

法顕伝によると、スリランカからインドネシアの推定ニコバル諸島までが13日、ここから10日ほどで推定スマトラ島の耶婆堤国へ到着、ここからは別船に乗り換えて広東省まで50日のようです。
法顕は広東にむかう途中で嵐にあって漂流し食料と水がつきた70日めに山東省の南岸に漂着しています。
船の形の記述はありませんがインド洋と南シナ海、どちらの船も200人ほどの乗員だったようです。

AD412の航海ではスリランカ〜広東省で2ヶ月半、前漢時代より1/4に短縮。
船の航続距離も3000キロ以上になっていることになります。

梁書(636)には450頃の日本からやってきた仏僧の話が書かれています。
梁は南朝のひとつ、この仏僧も海を利して行動した人物なのでしょう。
法顕と同じ船なら九州から数週間ほどの航海か。

下図は山東省の渤海に面した来洲湾沿岸で発見された随船の復元図です。
他の出土品から随末期(随滅亡はAD618)の船で全長約23mで積載量は23トン程度で乗員は10〜20人と推定できるようです。
船材は一部が樟(クス)の他は金楼梅科の楓香で山東半島にはない南方産の木です。

(楓香は楓フウ、マンサク科の木と思われます。中国、台湾原産で樹脂は楓香脂として漢方で使われるようです)
全体の姿がきゃしゃなので外洋用ではなさそう。沿岸での運搬船にみえますが山東半島に南方系の技術による双胴船が実在していたわけです。


AD600以降、インドは混乱時代となって内陸国の唐にとって南シナ海貿易のメリットがなくなります。
シルクロード経由のイスラムや東ローマ貿易に重点が移って外洋船の技は停滞したと推定。
船は南北朝時代の宋船を使っているようにみえます(遣唐使の帰還船に宋船を提供している)。

唐がAD907に滅びて分裂時代になると沿岸国では再び海の情報がみえてきます。
福建省で外洋航海用の宋船の船底部分が出土しており、推定全長35m、幅10m、排水量374トンと推定されています。
船底の形状はV字型で喫水の深い構造船のようです。

北宋が滅びて南宋(1127-1279)となって福船と称する船が登場します。
南北朝時代の宋船の発達型だろうと思います。
この頃、南宋はインド洋の船と貿易の主導権を握っているようで、遠距離洋のジャンク船(おそらくは福船)は天候にめぐまれれば1日に480キロをこなしたそうです。
中国が世界最強の海運国となる時代です。

1292年、マルコポーロが中国(元)から帰還するとき14隻の福船が随伴したそうで、元はマダガスカルにまで使者を送っています。
元は農耕民ではないために海への進出に意欲的で海からも世界制覇を目指したのかもしれません。

宋(元)の福船は乗組員250人、複数の船殻に区切られた3本マストのジャンク型の帆。
これが後の明の鄭和(1405)の全長120mともされる世界最大の木造船「宝船ホウセン」へ発達する。
「福」「宝」は貿易による富を象徴する名称だろうと思います。
なお、明代の造船所から発見された舵の大きさ(長さ約11m)を一般的な外洋船にあてはめると全長40m程度の船の舵なのだそうで宝船を120mとする根拠は薄いようです。


しかし明は1430頃から対外交流を封鎖して海から撤退し、以後世界の海はヨーロッパが支配する時代になります。



蒙古襲来とはいうけれどはたして蒙古軍本隊がどれだけ参加していたのだろうか。
またその船も宋滅亡以前では多くが高麗船で少数の蒙古軍だけが宋船を使っていたのではなかろうか・・
(某放送局の船のCGは宋船がモデルのようにみえます)



古代船2

遣唐使船の多くの絵図は1200年頃に書かれたもので当時の宋船(北宋980〜南宋1127〜1279)を参考にしている可能性もあって、本当に600年前の遣唐使船の姿かどうかは?のようです。


円仁(慈覚大師794‐864)の乗った遣唐使船は大陸の浅瀬に乗り上げて座礁し、船は左右に傾き乗員はそれに合わせて左右に移動したそうです。
平底船ならそのような傾き方にはならないという論があります。

その通りなら円仁の遣唐使船はV字型の船底、南北朝時代の宋船型であった可能性が高い。
乗員数から推定して遣唐使船の排水量は300トン程度のようで、出土した宋船よりひとまわり小さい船になるそうです。
遣唐使船について書かれた記述は宋船の構造をいっていると解釈できるそうで、遣唐使船は平底船という常識はちょっと待て、です(^^;

黄海は黄河の堆積物で浅瀬があちこちに移動している海で、明代(1368-1662)に黄海の横断用に「沙船サセン」と呼ぶ喫水の浅い平底船を作っています。
下図は1100年代の北宋の海鶻(海の隼)と呼ぶ黄海用の平底船です。
外洋でも運行できるように安定用のヒレがあります(台湾の外洋筏にもこれがあります)。
(注意:左側が船首です、船尾が高くそり上がっています)


多くの遣唐使船は安芸(広島)で建造されていて、安芸はAD650に百済船の建造をおこなっています。
百済が東シナ海へでる可能性は少ないと思います。百済の船は後漢や北朝との交流と高句麗との戦闘用で黄海や沿岸の浅瀬でも運用できる平底船だった可能性が高い。
初期の遣唐使のルートは朝鮮半島経由で黄海横断ですから、この頃の遣唐使船も同様に平底船でしょう。
日本の建築技術が急上昇する時代です。構造船の技術もこのころに定着したのではないか。

そして百済は滅亡し、AD759に大和王朝は新羅攻撃用の船500隻を北陸と西日本各地に作らせます。
百済から避難してきた技術者が大勢いたでしょう、このときの船も百済船だと思います。
しかし新羅攻撃は中止になります。大量の百済船が民間に払い下げになったのではなかろうか。
大型フェリー500隻の払い下げといったところで、この船が海運者へ与えた影響は甚大と思います。

そして遣唐使のルートは新羅との関係悪化で東シナ海横断航路に変更されます。
外洋では宋船型が必要なことは知っていると思います。
貴重な人材を派遣するのに外洋で危険な平底船を使うとは思えません。

宋船を作れる技術者は中国からの渡来者でわずかな人数でしょう、輸入船を使ったかもしれません。
しかしその遣唐使も唐の衰退で838年に中止され、公式の外洋航海は1100年頃まで途絶えます。
その間の外洋航海は「民間海運者」のみとなった。

百済船の技術者は大勢います。沿岸航海と対馬海峡横断なら百済船で不都合はなく、喫水が浅ければ河川でも運用できて港の制約も少ない。
民間需要は圧倒的にこちらの方が多く平底構造船が海運者の間に定着していった。

遣唐使船の難破のイメージが多いのは航海技術の不足が大きな原因ではないかと思います。
最後の遣唐使船では進路の助言者に新羅人を乗せています。 百済滅亡から150年の間、日本の造船と航海術が停滞したのに対して新羅は進歩していたことが推定できます。


明時代(1368-1644)の倭寇のことを書いた「籌海図編チウカイズヘン」という本があります。
中国船の帆は偏って取り付けてあるが、倭寇の帆は中央に取り付け、帆柱は取り外し式で順風のときだけ使用し、その他では櫂でこぐとあります。
倭寇は一人あたり水を7〜8百椀持参し1日5〜6椀を使ったそうです。

倭寇の多くは福建や広東の中国人のようですが、日本人では薩摩、肥後、長門の者が多く、次いで大隅、筑前筑後、日向、摂津、紀伊、種子島だそうです。
倭寇の船は平底で波を切れず東シナ海を渡るのに1ヶ月を要したが、外国の船を買って船底に尖った2重底を取り付けて数日で海を渡れるようになった、ともあります。
日本の海の民が旧式の平底船で東シナ海に進出していたが、外洋船の技術を導入して航海術を向上させていったのでしょう。

1413に倭寇に悩む李朝の太宗が李朝に帰化した倭人に船を造らせて性能比較をやっています。
その船は李朝の兵船よりずっと高速で運動性も優れていたようです。
この頃では倭寇の船は最新型となっていたが、李朝の船はかっての新羅船を継承する旧型だったことを示すものと思います。

吾妻鏡に源実朝(1203)が宋人に船を造らせ宋に渡ろうとしたとあります。
しかし完成した船を海中へ移動させることができず、砂浜に鎮座したままとなったそうです(^^;
外洋型のV字船底で喫水が深かったために満潮になっても着底したままだったからだ、という説があります。
その宋人技術者が二流だったのでしょうけれど、王朝としての海への行動力の衰退をうかがえる話です。


帆を偏って取り付けているというのはジャンク船や沖縄のサパニの帆の取り付け方のことだろうと思います。サバニはヨット同様に風に向かって進むこともでき、小型船ですが応用範囲が広く必要に応じて2艘のサバニを結合して双胴船としても使い、ジャワあたりまで漁にでることもあったそうです。

下図は古典的サバニで現代のものより船体断面がV字型で喫水が深かったようです。
(双胴サバニはこれを単に2艘並べた推定図です)
喫水を深くすることで波を切るだけでなく、帆を用いる場合に風に流されるのを防ぐことができますが、現在のサバニはエンジン駆動となって船幅を広げ喫水も浅く変化しているそうです。


船体も原型は刳船(クリフネ=丸木船)で次いで刳船+杉板となり、巨木の枯渇で板材のみで作るように変化していったのではないかと思います。
帆も弥生で作れる形だと思います。縄文時代であっても草の葉を編んだ帆を使えたでしょう。
竹を編んだ網代帆は遣唐使船でも使われており、近代でもムシロの帆が使われています。

現在のサバニは順風で平均7ノット前後(13km/時)で帆走するようです。
刳船で船足が遅かった時代でも沖縄〜台湾〜長江の会稽まで島づたいで2週間あればゆけたのではなかろうか。
フィリピン経由でジャワまででも1ヶ月ほどか。弥生時代でも東南アジア交易は可能にみえます。

下図は江戸時代のアイヌのイタオマチブという船です。


刳船を船底として側面に板材を張り上げています。板の接合は釘を使わず樹皮で縫い合わせて水苔などを詰めて水封したものだそうです。
櫂をあてる棒が舷側に4カ所みえます。帆はみえませんが安定した風が吹かない地域では帆は意味がなかったかもしれません。

弥生〜古墳での基本的な大型船の形態がこれではないかと思います。
下図の西都出土の埴輪とうりふたつです。
狭い水路でも船の向きを変えずに前進後退ができるのが櫂でこぐ場合のメリット。前後対称の形になっているのはそのあたりの理由だろうと思います。


下図は台湾のヤミ族の船です。木釘と樹脂で接合した船で鉄釘は使っていないようです。
西都の舟形に帆を加えた形といったところ。銅鐸や土器に帆らしきのある絵がありますがそういう船もあったのだろうと思います。
現在の船はサバニ同様に板材で作っているようですが(ニニナプン・ア・タタラ)原型は刳船+板材だったようで(ニソサワン・ア・タタラ)、船底に指4本分のヒレ(竜骨)を刻むなど制作手法が古老には残っているようです。(タタラ=小舟に注目)
また揺れ防止に船の側面に一種のビルジキールないしアウトリガーを取り付ける手法も残っています(ニニナブン・ア・タタラにはない)。
なお船尾の高くそりあがった場所には松明をとりつけて漁労の助けにするようです。
(えとのす14号/海南の船と文化)


下図は台湾の外洋用の竹筏です。安定を保ち風に流されないように板を筏の隙間から海中に突き出す工夫があります。
帆を用いるので長距離航海も可能で、1977年に7人が乗った竹筏ヤム号がルソンから鹿児島の2000qを黒潮に乗って34日の漂流航海に成功しています。


下図は中国の戦国時代の戦船の絵ですが2段構造になっています。



下図はBC1500頃のエジプトの外洋船です。船体の前後を結ぶロープ(赤線)は船首と船尾を持ち上げるために張ってあるロープです。


エジプトでは大木が得られず小さい木材をつないで船を造っているために船首と船尾を支えないとたわんでしまうためにこのような工夫があり、BC3000に遡るエジプト船の絵にもこれがみえます。
航海は順風のときだけおこなったようで、帆と船体が横風に対応できなかったのでしょう。
BC1000頃まで基本形は変化しておらず、その後エジプトの海運はフェニキアやギリシャに取って代わられて衰退してゆきます。
良い船材が得られなかったことが衰退の理由ではないかと思います。



弥生〜古墳の九州周辺国のありようは東シナ海沿岸国とその船ぬきでは考えられません。
近畿周辺や日本海沿岸国の海外交流は高句麗や新羅経由での中国北部でしょう。
九州沿岸国では東シナ海沿岸国が相手でしょう。
古墳時代あたりから日本の船の形式(思想)に異なる方向が生じていたのではないかと思います。

漢時代の呉越の大翼、小翼の翼は鳥のイメージ、鳥船とは空を飛ぶ鳥の羽と海を渡る船の帆におなじものを感じていた海洋民のイメージからの呼称でしょう。
戦国時代の越では剣に鳥の翼の文様を刻んでいて、この文様は越族のシンボルです。

東南アジアとの交易を計るなら外洋を遠距離こなせる帆船が必須。
外洋で横風に流されず転覆しないようにするには喫水が深く横幅のある船がよいが、そんな巨木はない。
2艘をつなげばよいではないか・・自然に生まれる発想だと思います。

帆は安定した風が得られる地域では最良。サバニの帆なら風に向かうこともできます。
櫂でこぐのは万能だが遠距離をこなすことはできない。しかし適当な間隔で停泊地があるなら遠距離も可能。
(櫓の推進効率は優秀だが川や湖、波風のない沿岸用でしょう)

対馬海峡、ここでは潮汐の影響で見かけ上の潮流が1日に2回逆転します。
風は安定していないようで距離も短い。ここでは潮流に乗って櫂でこぐ船が最良になると思われます。
日本海側や瀬戸内では帆船は発達しなかったと推定。

大国主が事代主に危急の使者を送った船は天鳩船、鳩の名から小型の帆船と推定します。
サバニの原型といった形ではなかろうか。
美保神社諸手船神事では2艘の船が用いられますが、双胴船としても使われたことの名残りではないかと思います。
本来は帆があったが、現在の美保神社に伝承される過程で帆の必要性が減って消えたのかもしれません。
競争する神事は快速船だったことを伝えているのでしょう。

古事記で神武が椎根津彦(サオネツヒコ)に出会うシーンでは「打ち羽振り来る人」といっています。綱を握って帆をコントロールしている様子だと思います。

饒速日が降臨したときの船は天の磐船とされています。鳥のイメージはないので帆船ではなさそう。
磐とは石の意ではなく丸いの意ではなかろうか。
下図は柳の枝などで作ったフレームに皮を貼り付けた船で、ウェールズのコラクルは小河川を渡るときに使う携帯用で、シーザーがスペインでの戦で川を渡るときこの種の船を使ったそうです。
饒速日が開拓者であるならこちらか。


磐を石の意でとらえるなら壺を多数浮かべて筏として使うものがインドにあります。
鴨緑江では壺や甕の輸送をかねた手段にも使われたようです。
饒速日を商人とみるならこれもありそうです。

なお、スサノオが埴土で作った船を使う表現が書紀にでてきますが鴨緑江の壺イカダをイメージした表現なのかもしれません。
朝鮮半島内の小河川を渡るときに使った、というわけです。

仁徳では枯野という快速船を作っていますがこれも鳥のイメージはありません。
枯野→カノ→canoe→カヌーかもしれません。
鳥船の名がみえなくなるのは、古墳時代での支配勢力の行動範囲が瀬戸内や近畿周辺となって、帆船有利の海ではなくなったことを示すのかもしれません。


沖縄の航海の信仰はオナリ神信仰(女性優位)で海と航海そのものへの信仰だと思います。
船に船霊フナダマを意識する本土の信仰とは違うものです。
(本土の船霊信仰の影響をうけたものはあります)
原始から船は生活に密着した手足と同じであって海に対する信仰は深くても道具に対する信仰は登場しなかったのではないでしょうか。
箸やゲタに特段の信仰がないのと同じです。

対して海洋民ではなかった「内陸型」支配者にとっての船は支配を強めるためにも貴重で重要な道具だった。
船そのものを神格化する意識が船霊信仰ではなかろうか。
古墳時代の舟形埴輪はこれに関連するもので、弥生〜古墳時代の海の民に南海型と内陸沿岸型の異なる流れが生じはじめたのではないかと考えています。


さて、戦国での呉楚の船はこれらのイメージに鉄と優秀な工具が組み合わさって作られていただろうと思います。
中国南部なら巨木を得ることができたと思います。
刳船を船底(竜骨)にしてこれに板を加えて上部構造を作る準構造船といったところか。

弥生の日本ではまだ構造船は作れません、鋸やチョウナのごとき道具の段階からの発達が必要です。
記紀の天孫降臨に登場する天の橋船、天の鳥船がBC150頃とすれば、その形はBC400頃の呉越の橋船、大翼、小翼、夫差の福船を継承する外洋航海可能の帆船。



脱出

梁書(636)の諸夷伝の東夷の項には「倭者自云太伯之後、俗皆文身・・」とあります。
倭は自らを(呉)太伯の子孫であると言っており、みな刺青をしている・・
(晋書648にも類文があるようです)

呉楚七国の乱の呉王劉ヒは前漢の劉邦の甥であって周の呉泰伯とつながるかどうかは疑問ですが、春秋時代の呉王諸梵は蘇州を都にしています。
出身地が同じであればより有名な方を祖というかもしれません。
呉王劉ヒの家臣にはほんとうに呉泰伯の後裔が含まれていたかもしれません。

江蘇省沿岸域の人々も倭と呼ばれた可能性はありますが、南朝時代の南朝領土の沿岸を東夷に含めるはずはないですから、ここでの倭とは日本からの人々とみていいでしょう。
500年頃に日本から大陸に渡っていた人々には呉泰伯の子孫という認識があったわけです。

梁書には480頃に日本からやってきた仏僧が話す扶桑国や大漢国の説明を詳細に載せています。
480頃には日本に仏教が存在しているわけで、晋の法顕のインド旅行とも関連しそうです(中国への仏教伝来はAD1頃とされます)。

記紀編纂者は南北朝頃の最新資料を熟読しているはずで、書紀編纂時代にその人々の伝承がすべて消えているとは思えません。
記紀編纂者はこれらのことを知った上で天孫降臨神話を作りだしていると思います。


呉と楚の関係者は江蘇省の沿岸から呉の艦船に分譲して脱出した。
これが天之忍穂耳とその一行です。
呉と楚の地域は時代によって重複していますから天之忍穂耳は周時代の呉泰伯のいた地域の出身者とみておきます。
天之忍穂耳がその地域の人物なら、現実に呉泰伯の子孫である可能性もあるでしょう。
鏡の大量埋納風習は南越にあります。長江付近の脱出者が鏡埋納の風習をもたらした可能性少なからず。

穀璧は宮崎の串間、糸島の三雲福岡の春日にあり、三雲はガラス製の破片だが南越で出土した完全品と一致している(春日の穀璧は焼失したとされる)。
串間の硬玉製穀璧がだれのものかはおくとして、ガラス製の穀璧は天之忍穂耳の所持品で、これを割ってその子等が継承し、子孫である証とした・・
春日の穀璧もその破片のひとつだったのかもしれません。もうひとつの王墓とみられる立岩遺跡にもあったかもしれない。


脱出者に艦船建造の職人や道具類を運び出す余裕はなかったと思います。
日本では修理不能、瓊々杵以後の伝承に橋船や鳥船らしきが登場しないのは、これを建造できる技術者がおらず船の寿命がきたとき朽ちて消えたからだと考えています。

山東半島からの脱出者もいます。これが天穂日らの一行。
越王勾銭は春秋末期に山東半島の瑯邪に拠点をおいて春秋最後の覇者となっています。
越と天穂日が関係者である可能性もあるかもしれません。
日本海の越の地名の文字は山東半島での越に関連するのではなかろうか。

加えて・・漢に滅ぼされた秦王族の後裔が呉楚七国の乱に参加していた可能性あり・・あわよくば秦の再興ができた・・その人々も脱出した。

山東半島〜長江沿岸からの脱出者は済州島で合流します。
ここなら景帝の追っ手もやってはこない。
さてこれからどうするかみなで額をよせて相談した結果、日本へ渡ることに決定(^^;

まずは天之稚彦を偵察に送り出した。乗る船は天鳥船。
常時は単独船だが、遠距離航海では2艘を竹ザオで結合して運用する快速船。



戦国から秦時代にかけて山東半島からは少なからぬ人々が朝鮮半島や九州へ渡来して、スサノオ族ともまじりあっていたでしょう。
江蘇省沿岸と長江中流域は「楚」という国でつながっています。
山東半島は三苗文化の影響下にあって、長江流域の楚文化や原始道教、青銅器埋納風習ともつながり瑯邪八神の信仰もこれと関連すると思います。
天之稚彦が鳥葬風習をもっていたことも納得できます。

記紀でいうアジスキタカヒコネと天之稚彦が容姿の似た友人であった可能性は十分あり。
大己貴はBC150頃に九州北岸と山東半島周辺で活動していた海運者だったとして、アジスキタカヒコネも天之稚彦もまた同じ。みな刺青たっぷりの海の男だった。
アジスキタカヒコネが大国主の子という話は、天之忍穂耳上陸と神武時代の出雲の国譲りが合成され、大己貴と大国主が同一人物化してしまったために生じた話だとみておきます。

しかし天之稚彦は福岡あたりの娘と意気投合して現地に安住してしまい戻ってこなかった。
このあたりは記紀の記述通り。
やむなく天穂日が再び偵察にむかったが・・使った船が低性能で対馬海流に流され、ようやっとで上陸したのが島根半島。
どこへついたのかもわからず天穂日もまたそこへ定住することになってしまった。



天之忍穂耳上陸

先発隊が日本に到着はしているらしいことを知った天之忍穂耳は再び偵察をかねてアマテラス族への密使を送り、ようやくアマテラスとの接触に成功した。

BC150頃、天之忍穂耳が九州へ出発します。全員がエリート集団、鉄剣装備。
船も高性能な呉の橋船と鳥船です。
スサノオ勢力の薄い唐津湾西岸にむかった。一気の敵前上陸。

架空実況中継・・(^^;

海風が吹きはじめています、朝日のあたる唐津湾西岸の丘の粟稗の穂がその風に波打っています。
静かです、周囲に人影はありません。

おお、沖合から2枚の帆を開いた鳥船が白波を蹴立てて浜へ突入してきます。
12隻・・いや24隻というべきか、船足を落とす様子はありません、そのまま磯へ乗り上げるつもりのようです。
驚き飛び立つ鳥の羽音の中に金属のふれあう響きと短い号令が聞こえてきます。
船から飛び降りた兵が銀色に光る長い剣を抜いて海辺から少し離れた位置へ散開しました。
総勢100人ほどか。

沖合から巨船3隻がゆっくり近づいてきます、みたことのない大きな船です。
ふたつの船体の間に橋を架けるように板が渡されて甲板となって屋根がかけられ、その周囲は盾で囲われています。
それぞれの船首と船尾は空高く跳ね上がってきらびやかな装飾が朝日に光っています。
これがうわさに聞く橋船でしょう。
浜の鳥はみな逃げ去って、巨船の櫂をこぐ音だけが近づいてきます。



鳥船はいざ知らず、この大きさときらびやかな装飾は海運者の船とは比較になりません。
おーっと、磯から少し離れて停泊した巨船の甲板から2枚の板が前方へのびてゆきます。
なるほど、海につからずに上陸できるのか。
重装備の兵がその板を渡って浜に降りてきます。全員が恐ろしげな形の矛を持って甲冑をつけています。
重装兵は1隻あたり20人ほどでしょうか。
こぎ手でもあるらしき軽装の兵が屋根の上にあがって弓をかまえています。

先に展開していた鳥船の兵士が剣を抜いたまま山裾へ向かって小走りに移動を始めました。
誰かいればうむをいわさず切り捨てるつもりかもしれません。
その動きは敏捷かつ整然として威圧的です、これが漢の軍隊なのか。

どうやら総兵力は200人以上のようです。
最後に着岸した橋船には王族と思える人影と女官らしき姿が遠望できます。
もうひとり女官がいるみたいだなあ、よくみえないな・・がさごそ(^^;
あっ、いかんこっちへ兵士が走ってくる、まずいっ・・

(中継員からの連絡が途絶えてしまいました。その後の様子は不明(^^;)


偵察員の案内で天之忍穂耳はただちにアマテラスと接触を開始した。
天之忍穂耳の使者は天兒屋根、護衛は手力男。
福岡側を通るのはむずかしい。現在の唐津市から松浦川を遡り有明海の西岸を渡って熊本へ。



唐津周辺の遺跡の状況は興味深いものです。
宇木汲田遺跡ウキクンデンはBC200頃までは甕棺墓で管玉などが副葬される縄文系出土物の遺跡です。
・・アマテラス族など初期開拓者の村だった・・

BC200頃から朝鮮半島系の細身銅剣や青銅器を副葬する墓が登場し、その墓や副葬品が増えてゆきます。支石墓と戦死者とみえる墓も登場。
・・スサノオ族がやってきてここを支配した・・

BC100頃にはこれらの墓が消えて、代わって前漢の鏡や青銅器を副葬する墓が登場してきます。
この一帯からは戦死者がいなくなりますが内陸部では戦死者が増大。
・・天之忍穂耳がここを支配し福岡や佐賀でスサノオ族と戦っていた・・

その後この地域はしばらく閑散としてAD50頃から後漢鏡や巴型銅器、鉄剣などを副葬する墓が登場しはじめます。
・・天之忍穂耳は東隣の糸島半島に引っ越して伊都国を建国した・・
・・AD50頃に神武の登場で後漢との交易が始まり松浦が再び盛んとなる・・

年代は土器編年によるもので誤差があると思いますが、ぴったり「神話」と重ねることができそうです。


アマテラスは阿蘇山中の岩屋に陣をかまえていたが、使者の到着を聞いて熊本までこれを出迎えた(いうまでもなくこれが天の岩戸隠れ伝承です)。
使者の天兒屋根の挨拶の言葉はアマテラスにはちんぷんかんぷんだったが海運者が通訳。
(これが祝詞ノリトの起源(^^;)

天之忍穂耳は領土がほしい。アマテラスはスサノオを追い払ってほしい。同盟成立。
アマテラスとスサノオの戦は新しい局面をむかえることになります。


王と王の戦

九州北部からは戦死者とみられる遺骨が多数発見されています。
しかし戦死者かどうかの判断は遺骨に伴う傷跡や武器の破片によるもので、それがない場合は判断できないようです。 年代を含めて今後の精査研究に期待するところです。

福岡の弥生墓地の甕棺の数はBC150あたりから急増しBC120頃にはBC150当時の10倍ほどに増えて以降は徐々に減ってBC70あたりではほとんどゼロになります。
男性の死者は女性のおおよそ2倍になるようで、戦死者の変化を示すとみて間違いないでしょう。
(国立民族歴史博物館図録倭国乱る、による)
ただし土器編年による年代推定なので実年代との誤差は数十年の単位であると思います。


一般に倭国争乱は三国志魏志倭人伝に書かれる卑弥呼時代の争いをいいますが、ここではBC190頃〜BC100頃のスサノオとアマテラス等の争いを第一次倭国争乱、卑弥呼時代の争いを第二次倭国争乱としておきます。
(スサノオ時代では倭国は存在しませんけど)

弥生初期の争乱の一般的解釈は、土地や水、資材調達の争いで、国家形成が終わった地域から戦も終了していった、といった論が多いようですが・・うーむむ、そういう争いもあったでしょうけれど、そうではないと考えています。

おおざっぱにピークをはさむ60年間の合計で確認されている九州北部の戦死者は850人ほど。
戦のさなかに甕棺を作る余裕がどれだけあるだろうか、単に土壙墓に埋められればまったく痕跡は残らずに消えると思います。
甕棺などに丁重に埋葬されたのは「有力者」だけでそれが850人・・だと思うのです。

未発見あるいは確認できない戦死者はその10倍、ひょっとすると1万に近いのではないか。
60年間ということはせいぜいが3世代、成人が3交代しかない。
当時の人口増加率は年1%くらいのようで、おおよそ100年で倍増(これは人口爆発です)。

魏志倭人伝時代の九州の人口が津々浦々で40万だったと仮定して、逆算すればBC100頃の九州全体の人口は数万程度。
九州北岸だけならせいぜい2万人あたりではなかろうか。その5%〜50%が戦死・・

太平洋戦争では総人口7千万で終戦時ではその1割の700万の軍人がいて(少年兵含む)軍人の戦死者は総数で220万を越えた(民間人死者は50万人くらい)。
人口の10%が兵士となり、人口の4%が戦死する状況で国家は壊滅状況になった。

農業だけの場合と商工業を含む場合では違うとしても弥生に大量殺傷兵器はなく、日本全体といったスケールもない時代です。
唐津湾から遠賀川まで100kmほどの狭い範囲の中で、それだけの住民(成人男子)が戦死するような状況が集落間紛争だけでありえるか。


仮に戦死者が人口の10%だったとしても、負傷者はその数倍でしょう。
生き残った人々に生産に従事するエネルギーは残らないのではないでしょうか。
それだけの戦死者が発生しうるのは、他所から兵力を徴用できる王対王の戦の場合だけではないか。

兵力を北九州の最前線へ送り込むことのできる勢力が存在し、激戦地域が移動しながら終息していった、とみるのが自然ではないかと思います。
その勢力が福岡以東と佐賀のスサノオ、熊本と日向のアマテラス、後に糸島の天之忍穂耳。
神話上の人物が歴史に躍り出れば九州の戦の問題は解決・・(^^;

戦死者の多い地域の年代遷移も興味深いです。
遺骨が残っていない場合と考古学的年代の問題がありますが、最初期の戦死者は糸島半島周辺で、BC200あたりです。
刺した剣も刺された人物も半島系のようですが、縄文系と思われる死者もいます。
戦死者を葬った墳墓も当初は半島に多い支石墓があります。

死者数は少ないのでここでの争いは半島から渡来してくる人々が増えたことによる民間レベルの局地紛争かもしれません。それも支石墓に埋葬できるなら有力者グループでしょう。
ただし、墳墓形式とそこに埋葬された人が同じ文化圏の人間かどうかはなんともいえないと思います。
(半島からも遠賀川形式の甕棺がでています)
徴用された兵士も戦死した場所の埋葬方式で埋葬されることもあると思います。
吉野ケ里の整然とならぶ墓、これなどは戦没者墓地としか思えません。

BC150あたりでは福岡湾周辺で戦死者が多くなり、ついで遠賀川下流域に移動します。
内陸では久留米市、甘木市、吉野ケ里周辺に戦死者が多く、時代が下っても若干福岡側へ移動するだけで大きく変化していません。


強力な艦隊と軍隊をもつ忍穂耳にとって唐津湾岸の集落を制圧するのは朝飯前。
数日でスサノオ勢力を駆逐し拠点を確保。
天穂日との連絡はまだとれないがやむなし。

アマテラス族は八女の女軍(^^;を再編成してスサノオへの反攻を開始。
スサノオは各地の勢力を北九州へ集結して対抗する。
このころ天之稚彦は糸島半島で忍穂耳の長弓部隊の流れ矢に当たって戦死(^^;

山東半島や江蘇省沿岸から武器の輸入がはじまりアマテラスへ供給されます。
ただし最新の鉄剣は無理で、青銅の中古武器だけです(^^;
天之忍穂耳でさえも最新武器は脱出時に持参したものだけで、武器と船の消耗を恐れて大規模な作戦の実行はできないでいます。

九州北岸の海運者の動きは微妙になってきます。
スサノオ優勢とはいいがたくなってきた。忍穂耳、アマテラス側につくべきか・・
どちらにつくにせよ手当たり次第に武器や物資を運び、大きく勢力を伸ばす海運者も登場してきます。

唐津湾上陸後1年ほどで忍穂耳は糸島を制圧し、拠点をここへ移します。
最前線は福岡湾周辺と筑後川流域です。
忍穂耳は福岡沿岸も数年で制して宗像まで進出し、スサノオ主力部隊は遠賀川まで撤退。

スサノオ側の海軍はないに等しく、忍穂耳は船で敵前上陸し一撃離脱する戦術を使った。
鉄剣装備の精鋭部隊といえど暗闇の山谷で敵に囲まれれば危ない。
忍穂耳の戦闘範囲は明るいうちに「母船」に戻れる範囲、沿岸から数キロだったのではなかろうか。
戦には勝つが兵員数が少ないために占領はできないという状況です。

内陸の戦闘には「軍事顧問」を送るだけでアマテラスに任せます。
現代でも少なからずあるシチュエーションで、筑後川や遠賀川流域ではアマテラス軍とスサノオ軍が一進一退を繰り返しています。

各地から徴用された人々が最前線に送り込まれ戦死者はうなぎのぼりとなります。
福岡内陸部の戦死者の位置に目立った変化がないのは決定打のない消耗戦だったからでしょう。

このころ遠く離れた開拓村も九州の戦の余波を浴びています。
スサノオが進出してくるかもしれなかった。各地の開拓村にも防衛体制が整えられます。
これはスサノオ側も同じで遠隔地であっても無防備にしてはおけません。
それだけでも労働力がさかれて食料生産力は低下していったでしょう。


この戦では武士道のごとき「倫理」があったのだろうか。
戦死者のほとんどは各地から徴用された人々となり、少年すらも徴用されていった。
なんのために戦うのかも知らぬ人々が死んでゆきます。

アマテラスにもスサノオにも勝利の道はみえず、このままでは内部崩壊もありえた。
双方に厭戦気分が生まれはじめます。


停戦協定

スサノオの子等にとって瀬戸内沿岸には広大な開発適地があり九州北岸に固執する必要はありません。
BC140頃、スサノオの子等は停戦交渉へ動き、アマテラスもこれに応じた。
だが、スサノオにとって九州北岸を手放すのはお家再興をあきらめるのと同じです。
停戦の意志さらさらなく、スサノオの子等はクーデター同様でスサノオを強制退陣させた。
これが後にスサノオが神々に罰せられて追放される伝承となります。

BC130頃、スサノオ退陣によって福岡から遠賀川西岸がアマテラス族に返還されて停戦協定が成立。
これを宗像協定としておきます。
スサノオとアマテラスの誓約神話の源です。


天之忍穂耳は九州の領土確保に成功した。しかし九州の領土のみで満足はしなかった。
大陸の戦乱で鍛えられた天之忍穂耳の外交手腕がスサノオやアマテラスをしのぐのは確実。
記紀にはだまし討ちで相手を殺す話が少なからず登場します。
後の武士道からみれば卑怯な手段ですが、中国では長い戦乱を生き抜くために策略が最良の手段だった。
記紀で堂々とそれが書かれているのはその認識を継承していたからだと思います。


北九州から発見される朝鮮型土器の分布には、玄界灘沿岸部に点在するものと内陸部にあるタイプがあるようです。
沿岸部のものは小規模で朝鮮製の土器、渡来したが定着まではゆかなかった人々と推定されています。
内陸のものは規模が大きく、土器は朝鮮型に似ているが朝鮮製ではない土器を使用しています。
内陸型の代表が福岡市諸岡遺跡と佐賀県土生遺跡です。

諸岡タイプ遺跡の朝鮮型土器はBC200〜150頃の短期間だけ存在して突然消えるようです。
佐賀平野や熊本平野にも類似の変化が推定できる遺跡があります。

このタイプの遺跡から青銅器生産の様相はありません。
これらの遺跡はスサノオの渡来時期と一致するとみえます。スサノオ勢力の撤退でその住人もここを引き払ったのかも・・

土生遺跡は渡来人がBC200〜AD50頃の長期間定住したと推定され、朝鮮型土器が弥生式の影響を受けて次第に変化してゆく様相がみられます(疑似朝鮮型土器)。
また吉野ケ里とは違って周囲が堆積土平野で、農耕具の出土も多いところから最新の水田耕作の技術を導入した集落と推定されています。
このタイプの遺跡からは青銅器生産が拡大してゆく様子が認められています。

吉野ケ里の建設は土生遺跡が変化をはじめる時期(BC150頃)です。
吉野ケ里は土生遺跡など周辺の農耕集落?の統括のために建設されたのではなかろうか。
停戦協定以降に稲作を開始した佐賀平野のスサノオ系集落を統括する「城」です。

朝倉郡夜須町の前漢鏡なども発掘されている峯遺跡からはBC150〜AD50頃とみられる直系70cmの杉の巨木柱が出土しています。
これは弥生最大の柱だそうで、奇妙なのは柱は1本だけでほかには穴もなにもないこと。

用途はなにか・・ここより先に武器を持ってはいってはならぬ・・なんてシンボルの可能性もなきにしもあらず(^^;
なお、夜須町には妙見様、星を祀る神社が8社もあるようです。

弥生初期の佐賀県詫田西分遺跡からは100体ほどの人骨がでていますが、いわゆる縄文人と渡来人が半々で、墓も甕棺と土壙墓が混在しています。
BC2000頃の山東省の骨のDNAと部分的に一致するDNAをもつ人骨が存在していることが興味深い。
(朝鮮半島の人骨との比較調査もぜひお願いしたいところです)

この遺跡も土生遺跡と同じく筑後川の堆積土平野にある遺跡です。
出土土器の状況がわかりませんがそれによっては、ここは山東半島の渡来人とアマテラス族の遺跡かもしれません。
小型銅鐸の原型ともみえる土製品も出土しています。銅鐸の原型は山東半島にある可能性がみえます。

青銅器の本格的生産は伽耶経由とは別に山東半島〜江蘇省の渡来人によってはじまった可能性もあります。
特に呉は銅と塩の生産では漢諸国のなかでも突出しています。
BC110に漢の武王は長江以南の越族を攻撃し越の住民を江蘇省へ強制移住させています。この人々が渡ってきた可能性も十分あり。


半島の釜山〜南海からは弥生土器が出土します。
第二次大戦前に半島南岸から甕棺が出土したのが最初の発見のようですが、その消息はいったん消えて1970年あたりから半島側での研究が進んだようです。

これらの土器のありようはたいへん興味深いです。
年代や形式などの詳査が進めばこの時代の複雑な変遷を具体化できる唯一の物証になると思います。

糸島が源と思われる赤色土器が半島南岸から出土しています。

金海市には九州型の甕棺墓があり、晋州市の南の泗川市サチョンから出土した土器類は北九州のBC100頃のものとされています。
宗像協定以降に北九州から半島へ渡来した人々が持ち込んだものと考えています。

佐賀内陸部はスサノオ領土のままとする、福岡平野は中立非武装地帯、壱岐対馬も同じくで港の使用も双方自由。その代わりに半島南岸に天之忍穂耳が自由に使える港を頂戴する。
宗像協定にはそんな内容があったのではなかろうか。

現在の鎮海市チンヘと泗川市サチョン、釜山市の港が天之忍穂耳に割譲された。
釜山は半島東岸の先住の中国系の人々(秦王族含む(^^;)との交流拠点となります。
鎮海と泗川は九州〜山東半島への新たな航路の中継地となります。
(これが後の任那日本府につながってゆきます)

アマテラスに完全変換された領土は筑後川南域と日向だけでアマテラスには不満でしょうがやむなし。
戦に介入した大国がそこに利権を得る、古今東西同じだった。

宗像協定は後の弥生を決定づけるもので、文書が存在したのではないか(^^;
日本で最初の公文書、アマテラスが読めたかどうかはわかりませんが。


伊都国

前原市の三雲遺跡と春日市の奴国王墓(須玖岡本遺跡)から他に抜きんでて大量の副葬品が出土しています。

青銅器生産は背振山南側、吉野ケ里などで半島系の人々が多数定住して盛んになります。
遺物出土状況からはその地域で専門家集団による生産が始まったとみなせるようです。
これも±10年の確度が必要ですが、BC130以降の安定期になって技術者が呼ばれて青銅器生産が本格的に開始されたものと推定。

惜しむらくは三雲遺跡は江戸時代の発掘で多くが盗掘され発掘物も散逸して現存するのは下図の剣と鏡1枚のみで、黒田藩の学者青柳種信が残した記録が唯一のてがかりとなっています。
昭和の試掘でいくつかの遺物が発見されていますが、当分は現状保存のようです。

実用的で姿も美しい剣だと思いますが、類似の剣はいまのところみあたりません。

剣身は遼寧式の流れをくむようにみえます。
三雲王墓が忍穂耳系の王墓であるなら、なぜ遼寧式の流れをくむことになるのか?
天之忍穂耳等には鉄剣を作れる技術者はいなかった。必須の鉄剣を副葬してしまうわけにはいきません。実用品として使い続けられ、副葬には北九州製の銅剣が用いられたのかもしれません。

三雲王墓の正確な年代が必要です。それによってはスサノオ系譜との政略結婚も十分にありえます。
出土品のほとんどが散逸して消えていることが残念ですが再調査によって新事実がみつかることを期待しておきます。
熱田神宮の草薙の剣とされる剣は玉籤集の記述その他から三雲形である可能性があります。
こちらも公開されるのを楽しみとしておきます。


これら王墓と副葬品の登場は、その地域の集落が勢力を強めて王としての権力を持つようになり、半島や前漢と交流をはじめた、というのが定説ですが・・
突然といってよいほど短期間にそこまでゆくのだろうか。
またそれまでの戦死者のありようからみて、戦の勝者が狭い範囲に隣接して共存しながら最強王権に至り得るのか、ちと納得しにくいところです。

この付近の土器や青銅器のありようは考古学の難問のようですが、ここでも神話の人物群の登場で解決(^^;
福岡〜佐賀平野では天之忍穂耳系とスサノオ族とアマテラス族が交錯しながら混在し、ある時点で和平がおとずれて融合していった。
アマテラスとスサノオの誓約と五男神三女神の神話はこの時代の事象から生み出されたと思います。


天之忍穂耳は九州と半島に拠点を得て糸島半島に伊都国を建国した。
交易によって伊都国は繁栄してゆきます。
伊都国の繁栄は出土品からおおざっぱにBC150〜AD150で滅亡はAD450頃です。

スサノオ後裔の青銅器生産拠点は背振山南麓だったが後の奴国とされる春日市付近からも青銅鋳型がでています。
天之忍穂耳系の技術者グループはここで青銅器生産を開始した。

多数の前漢鏡と鉄器も出土しています。
前漢鏡には楚辞の歌を刻んだ物が多いようで、楚辞は戦国時代末期の楚国の王族であった屈原の作と伝えられています。
呉楚系の天之忍穂耳なら楚辞を好んでおかしくありません。

鉄器がでるのは福岡平野が多いようで楽浪郡経由の輸入とされるようですが・・
出土した鉄戈の分析では鋳鉄を脱炭したもののようで、鉄戈は大陸や半島からは出土していません。

戦国時代の趙の首都は邯鄲。周辺国の交易中枢の都で、鉄の中枢でもあります。
秦に滅ぼされて韓、趙、魏の人々が朝鮮半島に逃れたなかに鉄の技術者も少なからずいたと思います。
ついで秦が滅びてその王族も朝鮮半島へ脱出した(辰国参照)。
慶尚南道伽耶付近は鉄鉱石の産地、ここで鉄の生産がはじまるのは時間の問題でしょう。
それを掌握していたのが朝鮮半島東岸の秦王族だったのではなかろうか。

呉楚七国の乱で漢を倒すチャンスとみた山東半島の秦王族の後裔も反乱に参加していたとすれば(^^;
天之忍穂耳とともに秦王族が渡来していた。その氏族が朝鮮半島東岸の秦王族と協調する・・(^^;
後には呉越の南方系の鉄の技術者もやってきたでしょう。

天之忍穂耳は伽耶の鉄入手と製鉄技術の占有のためにも半島南岸に拠点を必要とした。
このころに伽耶あたりで鉄素材の生産がはじまっている可能性は十分あると思います。


スサノオの子等も対馬、楽浪郡経由で中国文物の導入を始めます。
江蘇省沿岸から済州島経由で長崎への航路は天之忍穂耳専用で天の橋船が輸送船としてフル運転(^^;
海運者もどこからどこへ物を運んでもいい商売になる時代がやってきます。

伊都国は夷の津の国、が本来の地名と推定します。夷の港の国。
この頃に前漢はこの一帯を稲作地で「夷」ではなく「委」の文字を使い始めていたと考えています。
「委」は稲穂がしなだれ下がる意もある文字で「夷」より格が上になった。委の港の国。
(倭の文字はまだ存在しなかったと推定)


渡来者と関連をもった縄文系の人々の中からも有力者が登場しはじめています。
後のナガスネヒコもそのひとり。
アマテラス族も豊かになってゆきます。
九州にも方形周溝墓がありますが、一般にここからの出土品にはさしたるものがないようです。
方形周溝墓は縄文系の濃い人々の墓、いわば庶民の墓で埋めてもよい品物など持っていなかったからだと思います。

温暖化はピークを迎え、弥生黄金時代が到来。
伊都国建国が一段落した天之忍穂耳が妃をめとります。
萬幡豊秋津師姫、天之忍穂耳といっしょに渡来した秦王族と八女のアマテラスの機織り官女との間に生まれた娘、18才(^^;
すなわち高御産巣日神の子であり、アマテラスの子でもある娘。

アマテラスの孫、天孫の誕生は1年後・・



川上しのぶ (c)2000/02原文 2001/08/23改訂 woodsorrel@tcn-catv.ne.jp