【 第6章 日本書紀の年代復元 】
真偽の識別
BC2000以降、そろそろ「具体的な人間」が歴史に登場してきます。
歴史を動かす力が自然界だけでなく人間も重要になる時代ですが人間の資料が乏しいです。日本書紀などの記述を灯台にするとして、その灯台をもうちょっと明るくできないか試みてみます。
書紀に対する姿勢はいろいろありますが、歴史として正しいとするのは無理のようです。
なんらかの意図による書き換えがある、とういうことになりますが、個人的意図による書き換えではないことを前提にします。 推測不能の意図があっては灯台どころか幻だらけになって見ない方が安全になってしまいます(^^;
少なくとも国家規模の大義名分となりえる理由があったと考えて復元を試みてみます。
まずは書かれてある事象はすべて事実である、とすることからスタートしますが・・
近畿のヤマトが発達するのは考古学的にAD250あたりからのようにみえます。
しかし、書紀ではBC660に統一王朝が近畿のヤマト(と思える場所)に作られたことになっていて、神代はおくとしても人間世界は初っぱなから嘘にみえます。はてさて(^^;
嘘はこれだけであろう、と早くも一歩後退(^^;
嘘とせざるを得ない部分ができるだけ少なくなる組み合わせを探ることとして、遊ぶを前提にする強みでエイヤッでやります。
書紀に登場する地名が注釈や定説の通りであることを証明できるものはほとんどないのではないかと思います。
いつからそう呼ばれているかわからない地名の場合は書紀に合わせて地名を改変したか、別の場所の地名をヤマト関係者が持ち込んだ可能性を常に考慮しておく必要があるでしょう。
(地方の田んぼの一角に残る地名など非常に重要と思います)
例えば崇神以前で頻出する磯城という地名が近畿の大和に磯城郡としてありますが、これは明治の地番改正で作られた地名ですから、記紀に登場する磯城とは無関係でしょう。
面白いことに磯城の地名は崇神以後は登場しなくなり応神で再び登場します。
場所がどこかはわからない、しかし崇神以前の王朝は「磯城」の地名が存在する地域にあって、崇神以後の王朝はその地名と関係のない状態になった・・しかし応神では再び「磯城」が存在する地域と関係を持つようになった・・
こういった推察の重ね合わせでゆくしかありませんが、おぼろな影でも多数を重ねれば濃い部分はより濃くなるでしょう。
大義名分
さて、書き換えるための大義名分とは・・戦だと思います。
戦の起きる原因は食衣住が十分で支配者が狂気でないならば、氏族の違いと宗教の違いによるものがすべてといっていいと思います(現代では氏族を民族とおきかえます)。
氏族と宗教の観念が含まれる戦では相手の抹殺が目的になることが多く残虐性を伴い、その恐怖と疑惑が相互に増大する悪循環が始まります。
勝ち負けを決めるのが目的ではないために、武士道とか騎士道のごときルールは成り立たず、理による戦の終結も期待しにくいです。
縄文で戦がなかったとすれば、「相互」に豊かで相手への恐怖や悪循環が生じることがなかったのでしょう。
森に依存する生活なら相手は森ということでもあって戦になりようがないです。
例えば「鉄」といった物資の争奪が戦の原因に見えることがありますが、その根底には身を守るために必要とか、相手を上回ることで恐怖から逃れようという意識があってそれが真の原因になっています。
たいていの動物では恐怖があれば本人が戦うか逃げるかのどちらかですが、人間が動物と違うのは恐怖を武器でリカバーする技術を持っていることと、自分自身は戦わない場合があることです。
技術がさらに相手の恐怖を増大させ、本人が戦わない場合は当然ながらより戦が起きやすくなります(TVゲーム的戦争であればますますです(^^;)。
個人→小集団→中集団→大集団といった規模の問題もあります。
発端は個人の喧嘩や略奪であっても恐怖が集団としての意識に変わると、もはや個人の意識では制御できない状態になります。
根本解決には相互の恐怖と怨念を忘却の彼方へ押しやる平穏な長い年月が必要で、どこぞのように外国が武力干渉で押さえつけただけでは火種は消えるどころか新しい火種が増えてしまうでしょう(^^;
記紀編纂時代では寒冷化による飢饉で各地で紛争が発生し、百済や高句麗の滅亡に伴う難民の大量流入、「外国との戦」の可能性もあり、倭国争乱や神功〜継体の混乱が再来しかねず、「同族意識」の徹底が急務だったでしょう。
争いの火種となりえる氏族間抗争の記述を史書に残しておきたくない・・
平穏な時代から見れば非常識かもしれませんが、現代日本とは桁違いの危険性と複雑性の時代が記紀の書き換えを行わせたと思うのです。
むろん反対意見がでるはずですが、微妙なバランス感覚が働いただろうと思います。
氏族を融合シャッフルし、どの氏族も同根であるとすること。
これが大義名分。
古事記は賛歌でありながらもその多くが氏族の系譜を書くことについやされています。
その同根から神武が登場し天皇の始祖であり現王朝の開祖でもあるとすること。
こちらはおまけ(^^; しかし日本書紀では大事な目的です。
始祖=近畿大和王朝としないなら神武の近畿東征の必要はなく、年代操作も不要で氏族抗争の火種になりえる事象の削除だけですんだかもしれません。
しかし氏族支配体制を廃し統一王朝の中央集権のために始祖と大和王朝の一体化が必要だったのでしょう。
(継体以前をヤマト王朝、以降を大和王朝と呼ぶことにします)
氏族は同根という神話、神武東征という説話が必要だった。
同時にそれが記紀の本質であり中枢ともなった。
ただし、どちらもまったくの創作ではないでしょう。
氏族同根についてはある時代以降からは現実に混じり合って書紀編纂時代では物理的な血の意味はほとんどなくなっていると思います。
神武東征説話も類似事象があり、これらを元に加飾したものでしょう。
神武〜開化の氏族間紛争の事象を削除し、その年代を中国史書の存在しない時代に押し上げること。
ただし中国史書に登場する卑弥呼は紛争時代の事象だが「統一王朝」の女王として書かれているので、日本の女帝に重ねて引用すること。
後漢から受領した金印の話は大帝国との関係を誇示できるわけで、これも書きたかったでしょう。
しかし近畿ヤマト王朝まっさかりとする年代に、名もわからぬ奴国王がもらってはさすがにまずい(^^;
王朝や氏族の権威強化だけの理由では書き換えはできなかったと思いますが、氏族融合の大義名分があるゆえに書き換えが成立したのだと思います。
氏族融合
古事記に登場する最初の神々は歴史と対比しにくい抽象的な神々だと思いますが、伊弉諾伊弉冉神からは具体的な伝承を持つ神々だろうと思います。
続いて登場するアマテラスやスサノオ等は歴史上の人物といってもいいと思います。
その流れのなかから多くの氏族が登場する。
かっての氏族意識が再燃し再び戦乱が起きるきっかけになりかねない事象を削除し、どの人々(氏族)も同根なのだとする。
それを実行しているのが不可思議とされるアマテラスとスサノオの誓約と宗像三女神五男神誕生神話だと思います。
その五男神の子孫が神武であり、各氏族の祖もこの流れの中から生まれる。
五男神はスサノオの子をアマテラスが養子にしたともみなせるまことにうまい構成になっています。
弥生氏族はどちらの子でもあるのだ・・
一書によって微妙に内容が異なっているのが念のいったところです。
縄文先住者と半島先住者と中国渡来の人々、これが西日本の弥生を構成する基本的な人々。
それ以前の人々が神代七代で表され、その神々の最後の伊弉諾伊弉冉神が「歴史時代」のアマテラスやスサノオ等を生み出す。
縄文先住者+半島先住者に中国渡来者を融合させ、弥生初期から中期にかけて登場する重要な氏族の祖を同根とするのが宗像三女神五男神神話。
伝承の解釈
ある事象が伝来品ではなく伝承である場合は、各時代におけるその立場と変化の影響を加味して解釈する必要があると思います。
神社などの伝承は重要資料ですが、いろいろな影響を受けながら伝承が変化しているはずでその解釈はむずかしそうです。
各種古伝書については書かれて以降は変化していないでしょうけれど、著者の個人的思惑や思想の影響の問題があって、これもむずかしい判断が必要になりそうです。
仮に一部に偽があっても全部を偽とするわけにはゆきません。
古事記や書紀を含めてどれもみな白黒のまだら模様になっているとみておけば間違いないでしょう(^^;
古事記や書紀が有利なのは書かれた状況と時代背景がわかっていることだけだと思います。
風土記編纂が指示されるのは古事記公開の1年後とされますが、実際には「解」という公式報告書の提出指示であって、当初から風土記とされていたのではないようです。
現存版で風土記の表題があるのは「出雲国風土記」と「風土記豊後国」のみですが、このふたつは指示されてから20年という異常に長い期間をへて完成されており、記紀同様の解釈が必要かもしれません。
なお、風土記逸文とされる断片は残存する公式報告書ではなく、この記述を引用したとみられる文書の記述をいいます。江戸時代の出所不明の記事引用も含まれていて、公式報告書の記述の引用とみなせるのは鎌倉あたりまでの文書のようです。
風土記も王朝の監修下にある編纂ですから大義名分を逸脱するような内容は削除されているでしょう。
それは別にして、古事記:美を求めるもの、日本書紀:理を求めるもの、風土記:中央と地方の狭間を埋めるもの、うまい構成だと思います。
伝承の変形
昔々おばあさんは川に洗濯に、おじいさんは山へ芝刈りに・・
いつ、どこで、だれが、なにをしたか。
訓練された専門の語り部が伝承するかぎり変形することはまずないと思います。
文字化されると「音」は伝わらない、しかし語り部なら「音」も伝えられる、その意味では文字より優れている部分もありそうです。
伝承が変形してゆく場合、最も不安定なのは「いつ」でしょう。
語り部といえど年代を示す手段がなければ、年代を伝えることはできない。
「おじいさんが子供だった頃」の場合は正確、だがそれを越えると、昔々にしかならい。
人間の寿命を越える年代は伝えることができなかった。
「どこで」と「だれが」は次に変形しやすい情報でしょう。
その伝承が伝えられた場所になんらかの別伝承があれば、容易に重ねられて変形してしまうと思います。
最も変形しにくいのが「なにがあったか」だと思います。
あいまいな部分に対しての変化は起きるでしょうけれど、基本線まで変化するのは「創作」の意図がないかぎり起きにくいと思うのです。
伝承の変形が意図的に行われていても「なにがあったか」は変えにくい部分だと思います。
同じ事象の複数の伝承があった場合に矛盾が生じてしまいます。
異なる伝承をそれぞれの立場から書いているのが各種の古史古伝でしょう。
事象と年代
書紀編纂時代の背景にそういう要求があったとして、書紀をどう書き変えたか。
誰が編纂を命じたか不明ですが、最終的には舎人親王が総括者で元正天皇(715-723)が公開OKをだした、ということになります。
書き換えに対してそんなことはできないと拒否して編纂から降りた人もいただろうと思います(^^;
しかし、その理由が大義名分として通用するものであるならば・・
日本書紀においてそこに書かれる「なにがあったか=事象」は事実とみなす。
しかし、いつ、どこで、だれが、については信用しない(^^;
伝承改竄の大物は氏族融合と神武東征のふたつだけで、これにそぐわない内容が「修正」の対象になっている。
これを基本線とします。
まずい事象は消すかぼかし、どうしても残したい事象は年代を移し替えて合成する、そんなところです。
その他あいまいで不正確な事象が多々あるはずですが、もともとがあいまいならこれはしかたなし。
一方の立場からだけの記述を書き、それ以外は削除されている可能性には常に要注意です。
これは嘘はいわずに誘導する、情報処理の常套手段です(^^;
書かれた内容を「事象」と「年代」のふたつに分けて、年代だけに物理的に統一された補正を加えます。
その結果として事象が自然な流れに乗るようならその年代補正はうまくいっている可能性が高いとみなします。
なお、氏族の系譜は重要な判断資料ですが、系譜を総合的に研究するとなったらそれだけで大変なことで、手がまわりません。
天皇関連系譜に関しては大正12年に刊行された系図綱要/太田亮著(昭和52年新人物往来社復刻版)におんぶにだっこです(^^;
大正デモクラシーの研究書で明治や昭和での反動や偏りのごときが少ないだろうと考えています。
書記官室その1
先輩、ここおかしいですよ、神武が山中を進軍中の話の中に神武の兄弟が海で消える話がはさまってます。
ん、ああそこか。いいんだ、そのままにしておけ。
えっ、直さないでいいんですか?
うん、直すようにはいわれていないしな。
あのー先輩、またおかしいと思うんですけど・・存在しない国名がでてきます。
それもそのままでいい。
私も先生から原稿をいただいたとき先生におたずねしたんだが・・
今回の仕事に限っては指示されたことだけをやりなさい、考えることは捨てるのだ、とおっしゃられたんだ。
実務にあたった人々はやる気満々とはいえなかったでしょう、指示されたこと以外はやらない。
普通に校正すれば気がつくはずのおかしな部分が意図的に残されたのではないでしょうか。
あるいは書記官レベルの写本作業で「考えた」人もいたか・・(^^;
柿本人麻呂とか大伴家持といった当時の学者達、そのあたりのうっぷんを密かに万葉に乗せているのかも・・
書記官室その2
よし、御名が決まった。この一覧表で新しい御名を書きなさい。
神武、神功と神を冠しているのはお二人だけですね。
エポックメイクの人物であるのは間違いないからの。孝昭〜孝元に意見がでなくて助かった。稚日本根子彦大日日の「稚」に質疑があっただけじゃった。
どうご説明されたのですか。
大業を成されたお方の栄誉がなにも示されていなくてはご先祖に顔向けできないでしょう、といったところじゃ。
なるほど、すると「孝」の文字の4代は独立前の親孝行の時代といったところですね。
書記官室その3
先生、卑弥呼の話を神功紀に挿入するのですか。卑弥呼が神功であるといっているように受け取られると先生のお考えに合わないのではないでしょうか。
過ぎたるは及ばざるがごとしじゃよ。
はあ?
神功皇后を卑弥呼の年代に押し上げる、とんでもない話じゃ。だがわしが拒否してもだれかがやるだろう。
それならわしがひと工夫くわえてそうする方がまだましというものじゃ。
百済の史書をめいっぱい引用したのがひとつ、神功の行動をずいぶんと細かに書いたのがもうひとつ。
はあ?
百済史書を読めば年代がわかる。中国史書を読めば卑弥呼の事象のどれひとつも神功皇后の事象にでてこないことに気がつくだろう。
加えて壹与の朝貢の話まで同じ神功記に挿入されていたらどうなる?
なるほど・・
そこじゃよ、卑弥呼の挿入は神功と無関係であることを示すことになる、過ぎたるは及ばざるがごとしじゃ。
ところで百済史書編纂の方々は例の肖古王の年代習合命令を受け入れられたのかな。
激しい異議があったようですが、称号のみ写したそうです。
やむをえまいな。で仇首王はどうした?
先生のおっしゃられたようにこれも並べて写したそうです。
それでよし、肖古はいざ知らず仇の首が二度も登場はせんよ、これも過ぎたるは及ばざるがごとしじゃ。
神功、応神紀の中で引用されている百済記、百済新選、百済本記は現存しないようですが、少なくとも百済本記は百済滅亡後に百済の学者が日本で書いたものだろうと思います。
ヤマト朝廷の庇護下でなければ書ける場所はなかったと思います。
大量の資料を持って避難してきたと思いますが、それが残っていたら・・たらればですけれど。
半島の史書として現存するのは三国史記(高句麗本紀、新羅本紀、百済本紀)と三国遺事ですがAD1000以後の編纂です。
これらでは書紀や百済史書も参考にしているはずで、このあたりどれだけ書紀や百済史書の影響が含まれるか判断のむずかしいところです。
七支刀
石上神宮伝来品の七支刀は資料としても工芸としてもたいへんな価値を持ちますが、形状と石上神宮のその他の出土品から祭祀用槍の穂先として使われた可能性があるようです。
表裏には金象嵌からなる文字が刻まれています。
泰和四年五月十六日・・・先世以来 未有此刀 百ジ(サンズイ+慈)王世? 奇生聖音 故為倭王旨造 伝示後世
369年5月16日・・・先世以来いまだこのような刀はない 百済王世子(皇太子)の奇生聖音(貴須王子)は倭王旨のために造った 後世まで伝えられんことを
(古代刀と鉄の科学/雄山閣)
369年に百済から倭王旨へ送られたものですが、この頃百済は高句麗や新羅と抗争中で、後背支援ともなる倭国との同盟締結へのお誘いと推定。
奪い取ったのでない限り、倭王旨は神功ないしはその王子(応神)で、後の倭王五代に先行する王。(倭王五代が近畿のヤマト王ということではありません)
まさにこのような刀は他にはないでしょう。神功紀52年に七支刀1口とあるのがこれであるのはまず確実だと思います
(記紀編纂者は年号銘があることを知ってか知らずか・・)
(神功皇后が記紀に書かれるごとき存在であったかどうかは棚上げにしておきます)
書紀による神功摂政即位は201年です。
百済本紀では201年の百済王は肖古王で、その子の貴須が214年即位の仇首王。
神功紀の記述と一致しています。
しかし百済本紀346年で「近肖古王」が即位し、375年では次の「近仇首王」(須)が即位しています。
近肖古や近仇首王という奇妙な王名の登場はなにか・・
あいにくどちらの年代にも七支刀をうかがわせる記述はありませんが、214年ころの百済は江原道で新羅と戦ったり平壌付近で高句麗と戦っており、「倭」との接触をうかがえる記事はありません。
倭との接触記事の登場は397年以降です。(新羅の場合はAD59が接触記事の最初)
346年即位の百済王が神功と関係のある肖古王だったが、神功の年代改竄に合わせて百済史書のその時代の王名「X」が肖古王に書き換えられ、本来の肖古王には「近」が付け加えられたものと推定。
このようなことができたのは百済滅亡後に大和王朝庇護のもとで百済史書が編纂されたためでしょう。
二人の肖古王と仇首王のずれは約170年、神功の年代シフトもこれとほぼ同じであろうことが推定できそうです。
干支による補正
補正方法として思い浮かぶのが干支(カンシ、エト)を60年単位でシフトする方法です。
甲キノエ、乙キノト、丙ヒノエ、丁ヒノト、戊ツチノエ、己ツチノト、庚カノエ、辛カノト、壬ミズノエ、癸ミズノト
の10文字と
子ネ、丑ウシ、寅トラ、卯ウ、辰タツ、巳ミ、午ウマ、未ヒツジ、申サル、酉トリ、戌イヌ、亥イ
の12文字をそれぞれ1文字づつ進めて組み合わせる暦法。
日本の干支は中国の干支を流用しています。例えば西暦244年は甲子キノエネです。
翌年の245年はそれぞれひと文字を進めた組み合わせで乙丑キノトウシ、246年は丙寅ヒノエトラ、247年は丁卯ヒノトウ・・・60回目に同じ文字の組み合わせに戻って再び甲子ですが今度は304年です。
60年ピッチで同じ干支が繰り返されるので人間の寿命の範囲ではうまい方法ですが、数百年の範囲で年代を知るにはどの位置の干支かが問題になります。
中国の場合は周のBC800頃から年代が確定しますが日本の場合は大化改新まで元号がないために干支の記述が正しいとしてもそれぞれの天皇で60年単位でずれる可能性もあるわけです。
これを利用しているのではないかとするのが干支で補正する考え方ですが、隣接する天皇との関連性が壊れてしまうのが致命的です。
神功を120年シフトするのは、そうすれば都合が良いということで補正とは違うものだと思います。
景行や仁徳も一律にみな120年シフトなのか、神武はいつの時代で何年シフトしているのか・・
補正としては根本的に成立しない方法だと思います。
書記官室その4
もう少し左だ、よし雄略で糸の端を固定して見ろ。
神功の年代OKです、でも神武がずいぶんはみだしてしまいます。
おーい、板もってこい。トンカンカン・・これでどうだ。
神武はBC600より昔になります。 (西暦ご容赦)
よし、ヤマト以前の王朝が中国記録のない時代になればそれでよい。
先生、古い天皇の在位期間や大臣の寿命がずいぶん長くなってしまいます。
かまわんかまわん、昔の人は長生きだったのだ。架空の天皇を作るよりはよほどましじゃ。
番匠を呼んで目盛りの墨をいれてもらいなさい。この図版に合わせて即位年を決めるのじゃ。
なんだいこの板は?
暦を調べる板なんだ。糸の位置に斜めの墨線をいれて、ここを起点にして6寸の方眼目盛りを作ってほしいんだ。
それと6寸を1/60に目盛った物差しが数本ほしい。
それは簡単だがこれは杉板だろう、目盛りを入れてもそのうち狂ってしまうぞ。
1ヶ月ほど使えればそれでいいんだ。いつできるかね。
年代書き換えはいたっておおざっぱに行われた(^^;
本当の神武東征
神武東征説話の呪文をはずす・・それだけですべてがきれいに収まってくるように思えます。
近畿ヤマトに王朝ができるのは250前後。これは考古学的にまず間違いないでしょう。
神武東征によって近畿ヤマト王朝ができたとするならば神武は250頃の人物ということになり、神武〜開化の天皇をすべて創作であるとせざるを得ず、崇神と垂仁も同一人物であるなどの追加処理が次々に必要になってしまいます。
これではめちゃくちゃということで、記紀を無視するほうがよほどまし(^^;
それでは唐古・鍵などが神武時代の遺跡なのか。
4世代前には降臨が行われています。記紀伝承にはその間に東征らしきを思わせる伝承はありません。
近畿に降臨があったことを思わせる伝承はなく、出土物の流れもすべからく九州です。
これらは空想するにしてもあまりに無理が多すぎるでしょう(^^;
記紀の神武東征説話は創作か改竄である。
600年も年代をずらすような改竄のある書紀の説話をまともに受け取る意味はありません。
少なくとも「誰」と「時代」にこだわることを捨てれば記紀に書かれる事象はスムースに流れはじめるようにみえます。
「開化」の称号と「稚日本根子彦大日日」に注目です。幼き日本の太陽王といったところでしょう(^^;
大日日なんてすごい名は近畿ヤマト王朝の開祖にこそふさわしい、といったフィーリングだけの理由ですけれど。
ちなみに直前の孝元天皇の名は「大日本根子彦国牽」で、「大」が「稚」に変わるのは独立直後の歩き始めたばかりの新王朝を表すものと見ました。もちろん「開化」の文字も同じ意味でしょう。
ヤマト東征は開化の事跡であって神武の事跡ではない・・
そうすることで他の事象に矛盾がでず歴史が流れてくれるなら・・
1カ所にこだわると他の10カ所がおかしくなるならその1カ所は著名な事象でも捨てる(^^;
近畿ヤマト東征は開化時代の事象で、それを神武時代の類似事象に重ね移して神武〜開化間の事象を削除し、神武と近畿ヤマトをワープドッキングしてあるのだ、とすれば年代の物理的処理だけですべて解決可能なように見えます。
だが煙のないところに火はたたない、神武東征説話にも類似の事象が存在した可能性は高いです。
おそらくは九州統一ではないかと考えています。
その事象が神武東征説話のなかに含まれているのではないか。
作図による補正
壁画の星図や建築物設計など当時の図学は高度な発達をしていたはずです。
作図によって年代を補正したのではないでしょうか。
大工さんの使う曲尺には特殊目盛りがついています。長さを案分したり丸太から角材を切り出すなどに使う目盛りで図学の結晶といってもいいです。(今は方程式と電卓でもできるのでついていないのもありますけど)
比例配分によって補正するなら基準点を2カ所決めればその他は物理的に補正されて不連続になりません。
ふたつの基準点だけ規定すれば全体を規則的に補正でき復元も可能。
編纂者にとってもあーだこーだ悩まずにすむ。当時の先端技術を使って合理的におこなったのではなかろうか。
七支刀銘文の年号と神功の対応が第一の基準点。
もうひとつの基準点を書紀の開化のBC158〜BC96のBC96が250年あたりとします。
2ポイントが決まればその他は物理的に求まるのですが、神功と開化はスパンが短いので神武在位がAD1〜AD100の幅になり、補正がゼロになるポイントも允恭〜雄略の幅があります。
ゼロポイントは雄略が「近世」におけるエポックメイクと見て、雄略即位の456年とします。
2つだけでいい、年代決定できるなんらかの物証の発見を期待するところです。
允恭〜雄略あたりであればその可能性は十分ありそうです。
(追補2004/3:本章最後の古事記年代による復元を参照)
本章改訂前では、神武即位を紀元前660の干支の辛酉に合わせてAD61として2ポイントを決定していましたが、他の可能性を考えてもう少し絞り込んでみます。
仲哀の「新羅なんて知らんぞ」の一言に注目します(^^;
356に新羅では奈忽王が即位しており、その10年前に新羅と倭国は国交を断絶し戦が始まっています。
奈忽王がなんらかの新政策を打ち出し、その状況への対応策で仲哀と神功の意見が合わなかった。
奈忽王即位=仲哀即位と考えてみます。仲哀の在位期間がごく短いのがありがたい(^^;
それらの考え方で作図したのが別図1です。
書記官室その4の板と糸での作業をCADに置き換えただけです。
神武即位を干支の辛酉として雄略とを結ぶ補正基準線が赤線。
奈忽王即位=仲哀即位とした場合の補正基準線が黄色線です。
各天皇の書紀即位年(縦軸)を補正基準線にぶつけた位置が「実即位年」で、古い天皇ほど大きな圧縮比で補正されます。
(図で45度線上に補正後の天皇年代を並べているのは天皇周辺人脈を書き込むためです)
原則として前天皇の没年は次天皇の即位年としておきます(応神と仁徳など並立の可能性のある場合は問題ですけれど)。
各天皇紀内の事象年まで比例配分されているかどうかは考慮外です。
別図2は奈忽王即位=仲哀即位の場合の開化〜仁徳付近の参考拡大図です。
物理的復元なので即位年は方程式で算出できます。
神武=辛酉とした場合は
即位実年=書紀年×0.354+295 神武即位はAD61。
奈忽王=仲哀とした場合は
即位実年=書紀年×0.376+284 神武即位はAD36。
書紀年が紀元前の場合はマイナス値で代入します。
古代人物がやたら長寿だったのが普通の年齢となり、武内宿禰や神功皇后など正体不明とされた人物の系譜が一般的寿命の範囲で自然な流れになってきます。
神武在位がAD50前後となるなら出雲やスサノオ、アマテラスや天孫降臨などの「神話」が中国文献や九州の出土物と関連してくるように見えます。
神武即位をAD36とすると、AD107の倭国王師升スイショウの後漢朝貢が「孝の字4代」の初代である孝昭即位時に一致します。
近畿ヤマトの成立への予備的空想 2004/03改訂
さて、こうして復元された年代で周辺状況を空想してみます。
後漢の光武帝から送られた金印に記される「漢倭奴国王」とは、神武のこと。
この頃に神武が九州を統一した、といった空想が可能になります。
これが倭国の原形であり神武〜安寧の妃が出雲系の娘であることからも、天孫と出雲が共存しながら神武系譜が九州の支配権を握るといった体制です。
では、出雲はいつ消滅したのか・・
天孫降臨時に消滅したのではないことは、神武が事代主の娘を妃にしていることからあきらかです。
(記紀系譜を信ずるならば、ですが系譜は断片ではなく流れなので改竄しにくい)
すなわち、事代主の父である大国主命は神武とほぼ同時代の人物ということになります。
すると、国譲りとは神武時代の事象・・大国主は九州を神武にゆずって島根に引退したのだと考えることができます。
これらはあとでゆっくり空想するとして。
綏靖、安寧の妃は出雲系ですが、懿徳の妃は出自不明ですが出雲系ではなくなっています。
孝昭〜孝安となってそれらの妃は天孫系ないし物部系となっています。
これが倭国の登場でしょう。
年代復元で孝昭の即位はAD105、107に倭国王師升が後漢に朝貢していますが就任挨拶としてぴたりです。
しかしこの頃から寒冷化が始まっています。
農耕によって人口が激増した九州、その農耕が不振となれば飢饉であり、争乱の源になる。
これが倭国争乱。
そして卑弥呼が登場する。新羅本紀173に卑弥呼の使者来訪記事のあることに注目です。
魏志倭人伝で卑弥呼を女帝のごとくいうのは父系社会からみた母系社会のありようの表現であって、政策などへの指示を出す巫女を女帝とみなしたものでしょう。
軍事など実務を行うのは男王であり、あるいは北九州など中国文化の濃い地域でも男王が主導権を握っていたものと思います。
それが孝霊、孝元、開化ではないかと思います。記紀では記載が少ないですが大彦もそのひとり。
倭国から近畿ヤマトに軍事侵攻したのが開化。おそらくは卑弥呼のお膝元からの出陣。
(これが神武東征説話に名を変えて移されたとみる)
おそらくは日本海側でも同様の軍事侵攻がおこなわれ、これが大彦か。
戦った相手は出雲です。
続いて崇神が近畿に入城して出雲勢力への支配を確立していった。
九州では続く寒冷化で倭国本家が衰退し、農耕にゆとりのある近畿の分家が勢力を増して垂仁時代には主従が逆転してゆきます。
補正天皇年代
以下にまでの復元した即位年と書紀の称号の漢字の意味の概略を書いておきます。
奈忽王=仲哀補正とした場合の即位年です。
( )内は書紀記載の即位年、/赤文字は古事記による没年の干支年代(60年ピッチ)に1年を加えたものを次天皇の即位年とした年です。
神武 36(-660)神日本磐余彦カムヤマトイワレヒコ、戦の名人 綏靖 66(-581)神淳名川耳カムヌナカワミミ 淳名=沼、整備された水田、綏靖=やすらかで落ち着く 安寧 78(-549)磯城津彦玉手看シキツヒコタマテミ 磯城、海岸の石の城、安寧=じっと落ち着く 懿徳 92(-510)大日本彦耜友オオヤマトヒコスキトモ 耜、鋤鍬の意、農耕、懿徳=女性の温厚な性格 孝昭105(-475)観松彦香植稲ミマツヒコカエシネ 松を見ながら稲の香りをかぐ 孝安137(-392)日本足彦国押人ヤマトタラシヒコクニオシヒト 足=歩く、国を押す人 孝霊175(-290)大日本根子彦太瓊オオヤマトネコヒコフトクニ 瓊、宝玉 孝元204(-214)大日本根子彦国牽オオヤマトネコヒコクニククル 国を牽引する 開化225(-158)稚日本根子彦大日日ワカヤマトネコヒコオオヒヒ「幼き日本」の太陽王 崇神248(- 97)御間城入彦五十瓊植ミマキイリヒコイソニエ 神をあがめる 御間城に入る五十の宝玉 垂仁273(- 29/259)活目入彦五十狭茅イクメイリヒコイサチ 若狭系氏族に暗殺されかかる 景行311( 71)大足彦忍代別オオタラシヒコオシロワケ 遠征によって分離する、けじめを進める 成務333( 131)稚足彦ワカタラシヒコ 成務=天下の務めを成す(易教) 仲哀356( 192/356)足仲彦タラシナカツヒコ 仲哀=悲哀の仲立ち者、日本武尊の息子、景行の孫 神功360( 201/363)気長足姫オキナガタラシヒメ(息長帯姫)開化の若狭分家の子孫、昔の因縁浅からずか 応神386( 270)誉田ホムタあるいは去来紗別イザサワケ 神に応じる 親父はだれか・・ 仁徳402( 313/395)大鷦鷯オオサザキ 徳を含む名は悲運の天皇が多い・・鷦鷯の名ともども謎の人物 履中434( 400/428)去来穂別イザホワケ 履中=真ん中を踏み歩く 応神の本名と一文字違い 反正437( 406/433)瑞歯別ミズホワケ 正しきへ戻る(論語:我れ衛より魯に反る)正しきとはなにか 允恭439( 412/438)雄朝津間稚子宿禰 雄朝津間の稚子の宿禰 允恭=まじめでていねいなこと(書経) 安康454( 453/455)穴穂アナホ 安康=丈夫でやさしく危なげがない 雄略456( 456)大泊瀬幼武オオハツセワカタケ 威勢が良く、土地の境界を決める(奪う)
古事記年代による復元の補正 2004/03追補
古事記に記載の年代は崇神崩御年が最古ですが、ここまでの年代補正とぴたりといってよいほど古事記年代に一致しています。
以下は古事記年は正しいと仮定して、これと書紀年代を対応させた図です。
参:書紀年代復元図(PDFファイル)
允恭の崩御年454を起点とすると、反正437、履中432、仁徳427、応神394、仲哀362、成務355、崇神258、と書紀年の交点(赤点)がほぼ直線に並ぶことがわかります。
允恭以降では古事記と書紀が一致するので(45度線上になる)補正の必要はなしですが、雄略のみ10年ほどずれています。
これは雄略のありようになにかあることをうかがわせますが、ここではふれません。
書紀年代復元図の下段にある赤縦線は書紀に書かれる各大王の事跡の記載年です。
応神以前ではその分布と密度に「癖」があることが見受けられますが、今は棚上げとしておきます。
允恭と崇神、允恭と仲哀を結ぶ直線(点線)を上限と下限とみて、神武で±25年の範囲に納まります。
以前の仮定で求めた直線もこの範囲内にあります。
そこで以下の2つの仮定を加えて引いたのが新しい補正基準線(実線)です。
仮定1:新羅本紀にある卑弥呼の使者の記事と年代は正しく、卑弥呼即位後1年以内の即位通達の使者である。
仮定2:卑弥呼即位年はなんらかの大王の交代年に等しい。→孝安孝霊の交代年。
以前の図学的補正と同じに、横軸の書紀年代と基準線の交点を縦軸にとればそれが補正年です。
この補正と以前の補正とでは神武時代で数年の誤差しか生じませんので、当面各大王の年代は以前のままとしておきます。
以下は、記紀における出雲や天孫降臨など神話時代をなんらかの事実に基づくものとみなし、これらを歴史として書紀年代に接続した図です。
参:神話時代の歴史化(PDFファイル)
神武以降の記紀に書かれる大王系譜の実際のありようの推定を含みますが、これについてはここではふれません。
参:崇神以降の大王系譜
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