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【 第5章 縄文の人々と稲 】



・・貝塚・・

原の村で祭りがあるんだってさ。市もいっしょに開くそうだよ。
たくさん干し貝作って交換だよ。みんなはりきっておくれ。周りの村にも知らせておいで。

土丸どんに鍋をたくさん注文しといておくれ。木助どんにはお椀と柄杓だよ。
ちょいとっ、あんたらどこいくんだよ。
網は直したのかい、舟は修理したのかい? 貝は今が旬なんだよ。手があいてんなら貝採っておくれ。

おーお、鯛助どんよーまたしばらく頭があがらなくなるなぁ。
まったく、干し貝の季節に祭りが重なったんじゃ、どーにも男の出番はねーわな。
どれ、貝を集めてくるか。
おう、おいらは貝広場に小屋を作ってくらあ。



しばらく前までは貝塚はゴミ捨て場とされていたようですが、どうやら貝の共同処理場だったようです。
貝はそのまま干しても腐ってしまうそうで、煮てから干した(これは今もそうらしいです)。
その作業場だった。
貝の旬の時に総出で干し貝を作ったのでしょう。煮炊きする土器がたくさん必要で壊れる土器も多い。
それが今の貝塚からでてくる。ゴミも捨てられたかもしれませんけれど。

干し貝が塩味ならば山の人には塩の補給をかねて人気商品?だっただろうと思います。
「佃島」あたりでは特製の味付け干し貝が名物になっていたかもしれません(^^;



・・祭り・・

うわーっ大勢いるね。どこからきたんだろ。
七日かかるところからも来てるからな。
舟で来た連中もいるはずだ。早いところ寝小屋を作らんと場所がなくなるぞ。

あの木の下がよかろう。
坊主、ちょっとまて。栗採り用の革靴はいていけ。
ほーれみろ栗のイガがころがってやがる。普段は通り道じゃねえからな。

よし、そこをしっかり縛れ、これでよしと。
とーちゃんはちょいと情報仕入れにいってくるからな。
弓矢印の毛皮を下げといてくれ。

かーちゃんっこっちこっち
よっこらしょっと、とーちゃんはどこいったい。
情報仕入れにいったよ。お腹すいたよ、これ食べていい?
それは売りもんだからだめだよ、ほれ饅頭お食べ。

ほーっ、黒曜石あるのかい。
舟の連中が持ってきてるそうだ。ねらいだぜ。
相場はどんなもんかな。
原石なら去年と同じらしいが、完成品のナイフは需要増とかでちっと相場があがってるらしいや。
ふーん、おいらは原石から作るからいいや。

なら、早いほうがいいぜ、原石は重いわりに高くは売れないから少ししか持ってきてないらしい。
おめえんとこの皮はどうだい。

ここんとこ獲物がへってるんだ、こっちもちょい余計にもらわんとあわんよ。
鹿角は去年と同じってとこだ。ところでここのイノシシ見たかい。

イノシシ? いや見てねえ。
肉が柔らけえんだ。うまいぞ。
捕まえたのを増やしてるんだ。狩りにでなくても肉が食えるってわけだ。

それじゃおめえの商売あがったりじゃねーのかい。
イノシシは鹿よりもっと減ってるんだ、商売替え中なのよ。これ見ろや。
なんだそれは、油か?
漆ってんだ。いい値で交換できるんだぞ。持ってるやつがいるとふれといてくれや。

おうさ、漆だな。
それからおもしれーもんができたから利用するといい。モノモノ預かり所ってんだがよ。
なんだいそりゃ?
ここの言主さんが始めたんだ。いいもん手に入れても持ち帰るのが大変なこともあるだろ。
そんとき村の高倉へあずけて、特別な貝の札をもらうんだ。
ほーほー
で、ついでのときにここへ来て貝の札と引き替えに荷物を持ち帰ればいいってわけだ。
手数料をちょいと取られるけどな。
なーるほどねぇ、うめーこと考えるもんだな。


ほれ、言主さんの登場だぞ。
あれーおっぱい、女の人なんだ。
ああ、前の言主さんは親父さんだったんだがな、娘の方が神様と話すのがうまいんで交代したらしい。
赤とか白とかすごいねー、あれも刺青なの?
いや、あれは塗ってるんだ。北山の粘土焼くと赤い粉になるだろう。ああいったやつだ。

白は?
うーん、百合根の粉でも塗ってるんじゃないのかなあ。
貝の粉塗ってんだよ。ほらこれ。
なんでえそりゃ、買ったのかい。
言主さんからじきじきだよ、ずーーーーっと遠くの海で採れる貝らしいよ。
刺青前の子供にこれ塗っとけば魔よけになるんだって。お守り板ももらっといたよ。

お守りはいいが、粉はほんとかよー、聞いたことねえぞ。
まあいいじゃないの、坊や塗ったげるよ。
わあ、どこ塗るの。
鼻すじに塗るんだよ。ちょいちょい。

ウミャー、ヤマャー、ホニャタラナンタラ・・トン、チョイーッ
ほれ始まったぞ、頭下げて聞いてろ。
とーちゃん、なにいってんだかわかんないよ。
神様の言葉だからな、よーく聞けばわかるところもあるぞ。
大昔に海から来た人と山から来た人がこのあたりでいっしょになって、と始めるのが決まりらしい。
詳しいことはあとで言主さんに聞いてみな。
もすこししたらみんなで踊るからな、おまえもまねするんだぞ。
うん。

コッケコーォー・・翌朝

九里よりうまい十三里だよ、原の村の特産だよ・・
奥様、お嬢様のおみやげに翡翠のペンダントはいかがかな・・

あ、鱈ちゃんだ、おーい鱈ちゃーん。
まあ、せんだってはいいものいただいてありがとうございましたぁ。
いーえ、こちらこそ。ホレネッチョおいしかったわぁ。ハイこれ蜂蜜。
あらぁうれしー、はいこれうちの特産品、佃の干し貝。
うちの大好物なのよぉ(^^)
坊や鱈ちゃんと遊んどいで。ほら鹿の角、好きなものと取り換えといで。広場からでちゃだめよ。
それでね・・あら・・ねえ・・ほほほっ・・やだねぇ・・・・

おう、木助どん、どうでぇ。
いやいやありがたいねぇ。ここんとこ人気赤丸急上昇(^^)
鹿六どんのおかげだぜ、漆が残ってたらもらってくぜ。
こっちも売り切れだよ。土丸どんはまた遠くへ仕入れにでてるようだなあ。

おう、今回は海を渡るとかで、てーしたもんだ。その腰のひょうたんはなんだい?
内緒だぜ、酒だよ。
お、でーじょぶか。市のある祭りじゃ酒は御法度だろ。
ここじゃやらねーよ、けえったら一杯やろや、佃の干し貝もあるからよ。
たまんねーなぁ、祭りさまさま、神さまさまよ、ドンドンチョイッと。


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山菜、芋、魚、肉、干物、薫製、卵、ショウガ、ハーブ、ニラレバ炒め・・今の食材の大半はありそう。
冷蔵庫がないのといつでもどれでもは食べられない、というのが今と違う程度かもしれません。
当時の各地の料理人をあつめれば、中華料理に対抗できる縄文料理で繁盛するんじゃなかろうか(^^;
数千年の縄文、食材にあった料理法も開発されていたと思うのです。

猪と鹿は縄文と弥生ではっきり扱いが違うようです。
どちらも縄文の獲物の双璧ですが、猪は土偶になり土器に描かれ祭祀にも登場するのに対し、鹿は登場しません。
しかし弥生ではこれが逆転します(アイヌなど縄文を残す文化ではやはり鹿の扱いは軽いようです)。

酒はどうだったのでしょう。
スサノオの八叉のオロチ用に作った酒は短期間でできたようにみえますが果実酒かなあ。
書紀には木花開耶姫が狭名田の稲で酒を造ったとありますが、これは米麹の酒でしょう。
米麹がまだなくても粟や芋などを使う酒は漆と同時代にはあったかもしれません。

蕎麦は北アジアが原産のようで、近世にかけて南へ広がっていったようです。
(現在も生産量の大半がロシアのようです)
沿海州あたりの人々が運んできたのでしょう。日本では北海道か東北が起点だと思います。
記録にでてくるのは続日本紀(797)ですから、蝦夷の食品がこのころ近畿に運ばれた可能性が高そうです。
当時は全国で飢饉が頻発しています。救荒作物として蕎麦を導入したのだろうと思います。

「芋」も面白いです。比較言語学の分析では奈良時代の「イモ」と平安時代の「イモ」は発音が違うそうで、奈良の芋は沖縄方言の系列で、平安の芋は飛騨あるいは東北方言の系列なんだそうです。
さらに遡ると双方共に現在のタガログ語といったフィリピン周辺の言語群の源と同じになってゆくそうです。
ということは、初期にフィリピン方面の芋が日本全体に広まって、その後奈良時代までは南方系の芋を食べていたが平安時代になると北方系の芋に切り替えた、ということになります。
これも平安時代の寒冷化によって北の作物が導入されたのではないかと思われます。

甘味料は??
サトウキビは九州では可能としても北では無理、北方型の甘藷(さとう大根)はあったのかなあ。
干し柿は単体で甘味に使われたでしょうけど、料理に使えるのかどうか。
蜂蜜は蜂の子といっしょに食べる最高のごちそうでしょう。
甘さは食事では使わずに、デザートやお菓子として別に扱われていたのかもしれません。

漆と荏油(エゴマから採る)を混ぜて使うのは奈良時代には公式仕様になってるそうですが、鳥浜遺跡からはすでにそれがいっしょに出ています。
荏油は現在では健康食品ブームでお値段がはねあがっているそうです。半島では葉っぱなども食べるそうです。
漆に荏油を混ぜたかどうかはわかりませんが、優れた栄養食品として利用されていたのは間違いないと思います。
ただし、塗料に使う油ということは酸化しやすいということで、古くなったのを食べると・・(^^;

赤の塗料は縄文でも重用されているようですから、最初から赤漆もあっただろうと思います。
ベンガラになる鉄をたくさん含む鉱石(土)を探したでしょう。後に「鉄」を探すことと重なってきそうです。
ベンガラはインドのベンガルの赤。インドは砂鉄系の製鉄法・・はたして関係ありやなしや。
水銀(辰砂)から作る朱は縄文時代にはないようで、弥生以降のように見えます。製鉄と同じく化学反応を必要とするのでだいぶ難しい技になりそうです。



・・赤米・・

おい、ここの稲はどれも大きな中身があるぞ、ムラオサに知らせてくる。

なに、神田の稲に全部実がはいってるのか。
いや、神田でも北の端のやつです。そこだけ全部に実がはいってます。
言主様が播いたやつか?
いや、そこは赤岩のソネが後から播いたところです。
すぐに呼んでこい、おれは先にいってるぞ。言主様へも知らせておけ。

ソネ、いつ播いた?
へぇ、いつもより遅かったです。
足に怪我してたんで、みんなが南に播き終わった後からです。半月くらい後だったかなあ。
籾が残っていたんでそれを播いたです。貧弱な籾だったけどこりゃすげーや。
南は大きい籾を選んで播いたからな、残ってたのは小さいはずだ。

よしわかった、すぐに見張り小屋を建てて交代で見張れ。
ここの稲は一粒も鳥に食わせるなよ。
女達に雑草を抜いて虫を捕るようにいっておけ、収穫まで守るんだ、いいな。



稲にはいろいろな品種があってやっかいなようですが、少なくとも一般にいわれるインディカもジャポニカも河姆渡にはありました。
それらは水稲栽培が始まると同時に他の文物と共に半島や九州に運び込まれていたと思います。
南国産食料としても、種籾としても。

おいしい作物ではあったけれど、北方では実のない穂がつくばかりで安定収穫はできなかった。
栽培するだけなら寒冷地でもできたかもしれません。しかし粟や稗より収量が少なく作柄が不安定だったら食料として栽培する人はいないでしょう。水田を作る労力も必要ですし。
当時にまず求められたのは、収量が多く安定した作物だったと思います。

BC4000頃の山東省南部には湿地帯もありました。BC3500以降では良渚文化が江蘇省北部へも進出しています。
しかしここでも稲は栽培されていないようです(淮水南岸が北限のようです)。
気温もさることながら、日照時間が短いために冷害が多発し、総合として粟や黍のほうが収量が多かったのではないかと思います。
日本の東北は夏に曇天が多く日照量が少ないです。東北での稲作開始の遅い理由だと思います。
気候が長江と類似なのは九州南部。ここなら長江の一般種が栽培できたはずです。
しかし、BC4300の鬼界カルデラの大噴火がそれをさせてくれなかった。

突然変異や異種交配で北方種が生じても、長江での栽培ならどんな品種でも大差ない実がつくのではないでしょうか。
北方種かどうかの識別ができないわけです。
その必要もないので意識もしておらず、長江で北方種が発見される可能性はほとんどないと思います。
半島または九州で栽培された一般種の中から偶然に発見され、周囲に一気にひろまったのではないでしょうか。

収量が少なくても栽培をしていた人々がいた・・祭祀者です。
赤米を神様の食事として栽培する神社は今もあります。
縄文に神と祭祀者が登場したとき、供え物用として稲の栽培が始まったのではないでしょうか。

爺ちゃんは酒が好きだったからなあ、湯飲みにトクトクとついで供える、同じです。
大昔に長江文化や照葉樹文化をもたらした神様たち、その好物だった赤米を供えるために収量は度外視して細々ではあっても栽培を続けていた。


BC2000頃に大陸東岸からの洪水避難民が九州や半島へやってきます。暑い寒いはいっていられません(^^;
南からのボートピープルです(中国始祖伝承での三苗でもあります)。
祭祀者にとっては神様の子孫でもあって、歓迎したのではないでしょうか。
このときあらゆる品種の籾が到来し発見の確率は一気に高まったと思います。水稲技術も最新版が到来したでしょう。
稲のプラントオパール痕跡はBC1000頃、熊本県東鍋田遺跡、福岡市四箇遺跡、ソウル郊外欣岩里遺跡で確認されています。
発見はBC2000〜1000頃でしょう。場所の特定は困難だと思いますが、九州西岸か半島南西岸あたりか。
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北方種が発見されても黄河流域でなぜ稲が広まらなかったのでしょうか。
BC90頃の司馬遷の史記にも南は魚と米で豊かだが北は鳥獣の肉と稗で貧しいとあります。
日本や半島ではすでに米を作っているのに黄河流域では作れなかったということです。
黄河が稲を栽培できない姿に変わっていたからだと思います。

BC2000頃の大陸東岸の洪水とは逆に内陸では乾燥化が進んでいます。
敦煌や楼欄もかっては砂漠の都市ではなかったはずです。
砂漠化した西方から飛来する黄砂が大地を変え、黄河中流域で拡大する都市群と青銅器生産による森林の消滅が重なります。
流出する土砂が黄河下流に堆積し、暴れ河となって稲の栽培には多大の労力が必要となり、春秋戦国時代となってそのゆとりもなくなったのでしょう。
秦、漢代では長江と黄河間の水運が発達し長江を支配します。米は長江から運ぶ方が得策になった。
そして麦の到来もあってついに黄河で稲が作られることがなくなったのだと思います。



BC2000以降、寒冷化によって日本の中部山岳地帯の縄文は壊滅状態になります。
山岳に住んでいた人々は日本海沿岸か太平洋沿岸へ避難民となって移動していったでしょう。
人口密度からみて、先住の人々より避難民の方が多くなった地域もあったんじゃないかと思います。

当時の日本の人口がどれくらいかはたいへん難しそうですが、遺跡の住戸数などからの推定では西日本で0.1人/平方キロ、東海や日本海沿岸で1人/平方キロ、東北で0.5人/平方キロといった推定があります。
平均で0.5人平方キロなら日本の総人口は20万人程度で、西日本に限ればせいぜいが数万人。
全員集合でも福岡ドームはがらがら(^^;

縄文最盛期の中部山岳の人口密度はたいへんに多かったようで3人/平方キロあたりという推定なので、これでゆくなら長野県全体で人口は3万人くらい、ここだけで西日本全体に匹敵する人口です。
琵琶湖周辺など近畿地方の住人は大半が中部からの避難民になったかもしれません。

寒冷化によって半島の東岸や北岸(日本海側)では飢餓状態に陥ったのではないかと思います。
(書紀でのスサノオが泣きわめいたので青山が枯れ人々が困窮し・・この伝承だと思います)
半島の温暖地だけで避難民を吸収できればいいですが、そうでなければさらに南へ海を渡るしかないです。
(このころ中国では夏が滅び殷が建国)

北からのボートピープルです。沿海州付近からもやってきたかもしれません。
どのくらいの人数か・・半島も日本と同じ人口密度とすれば半島全体の人口は10万人ほど。
もしこの1/10の1万人が日本海側の西日本にやってくれば、西日本人口の半分ほどが「避難民」になった、ということになります。
四国や九州南部を別にすれば、九州北部や山陰では縄文人口より避難民の方が多くなっただろうと思います。

ただし、現在の世界各地で見られる戦争避難民のように列をなしてやってくる、そういうことはないでしょう。
仮に1万人が1年で九州〜山陰沿岸にやって来たとして、1日に30人ほど。それが沿岸全域に広がってるわけですから、誰も気がつかないこともあっただろうと思います。
しばらくしてから見慣れない連中がいるぞ、といった程度で最初の1年を生き抜ければそのまま定着できただろうと思います。その課程で若干の紛争になることもあったかもしれませんが。
しかし半島の西岸や南岸では大陸北方の人々や沿海州の人々が急増して混乱状態になったかもしれません。

東日本や東海沿岸では渡来した避難民の影響はほとんど受けなかったでしょう。
位置もそうですが縄文人口が西日本の10倍以上だからです。
北海道でもオホーツクの人々が北海道へ南下していますが、こちらは人数も少なく人口増大もないはずで、ゆっくりした変化があるのみだったでしょう。

寒冷化と避難民、北方稲の発見、西日本の縄文は徐々に変化してゆきます。
縄文では自然が相手だったので千年単位の時間感覚で考えることもできましたが、「西日本の弥生」では人口も増えて人間を相手に考える必要がでてきます。戦争という短時間で激変をもたらす問題も発生します。
少なくとも人間の寿命の単位で年代を考えないとなにもできないです。
記紀の伝承の実像と実年代を推定することが必要ですが、これは後ほど試みてみます。

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川上しのぶ (c)1999/04