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中国と半島の始祖伝承


黄河と長江の水源は青海省の高原湖沼地帯にあって星宿海とも呼ばれます。
中国古伝書の山海経では西方の崑崙山を含めて仙境とされた地域です。
(崑崙山脈というのはそのあたりからの名称でしょう)

中国の始祖とされる三皇五帝にはいろいろな説と伝承があります。

盤古、天皇、地皇(火)、人皇(9人兄弟で九州を治めた)、燧人、有巣(木の実を食べる、住まいの使用)、女カ(ニョカ、半身蛇体の絵あり)など。
一般には、
伏義(最初の人間、漁労や調理法、縄を結んで記録する法などを教えた、半身蛇体の絵あり)→風姓
燧人(祝融、火の使用)
炎帝神農(農耕、医薬)→羌姓(キョウ)
黄帝(磁石や船車の発明、楽器の発明)→姫姓(キ)

ここまでが三皇で、黄帝を五帝側に入れて「禹」を五帝からはずして「人間側」にすることもあるようです。
つぎの五帝は遺跡群の発見と研究によっては歴史と一致させることが可能かもしれません。

黄帝の子の少昊金天、孫のセンギョク高陽(天地の分離、暦の発明)曾孫の帝コク高辛、
次の帝尭陶唐のころに黄河が氾濫を繰り返し臣下の鯀(コン)に治水を行わせたが失敗します。
BC2500〜2000頃か。
次が帝舜有慮で後に鯀の子に位を譲る(禅譲の由来)。
鯀の子が夏后禹で「夏」の帝王とされ、治水に成功しますが、黄河ではなく長江のようです。
長江の復活とすればBC1500頃か。

チベット自治区、青海省、甘粛省付近は古代遊牧民テイ羌氏族の活動領域(羌は羊と人の合成文字)。
青海省北部には敦煌、楼欄などの遺跡群があります。
四川省の西部へ移動した一族が養蚕を発見したとされます(蜀の文字の語源)。

炎帝神農は甘粛省天水付近に住み、黄帝は四川省西部金沙江(通天河)に住んでいた。
甘粛省の遊牧民は敦煌や楼欄経由で、金沙江の遊牧民は通天河経由(遊牧回廊)で西方文化やチベットインド文化と接触して力を蓄えます。三星堆文化もそのひとつでしょう。
遊牧回廊の拠点である現在の昆明市付近には後にハン(サンズイに眞)という王国ができます。この王国は雲南の森林の真ん中でありながら遊牧文化をもつ国、後に漢から金印をもらっています。

「漢人」の多くは周人を祖と自称していますが、その祖先は遊牧民です(後に中華から西戎と呼ぶ人々)。
このあたりは中国研究者にもいろいろな論があるところで、空想も自由(^^;

BC5000以降の南の最強文化は良渚と屈家嶺で、BC3000頃から長江文化が大ブン口文化に浸透し、大ブン口文化はBC2500頃から龍山文化に変遷しながら黄河中流域へ進出します。
砂漠化する西域から飛来する黄砂が黄河流域を覆い、その土砂が黄河下流で頻繁に洪水を引き起こし始めています。
龍山文化は天候不順と南からの良渚文化の浸透による戦乱、加えて黄河の荒廃のために激しい性格を持つようになるのかもしれません。金属器の登場も必要がそうさせたのでしょう。

BC2000頃、長江は大氾濫をおこし良渚文化は滅亡し黄河下流域の龍山文化など大陸沿岸の文化は衰微します。
龍山文化は西進して分裂抗争をしながら殷の一方の原型となり、このひとつが夏である、という説もあります。
また、夏王「禹」は周辺の旧文化系の人々と抗争をくりかえし、龍山文化と融合しながら殷の母胎へ変化した、という説もあります。
殷はたびたび王朝の位置をかえており、発見された殷墟は殷の後期の王朝位置で初期王朝(BC1400頃)がどこにあったかは不明です。
大陸東岸文化は中国でも研究が始まったばかりでこれからのようです。



半島情勢は情報ゼロですが、BC5000頃に吉林省や黒龍江省でバイカル民(沿海州のユウ婁など)とモンゴル民(鮮卑など)が葛藤しており、後に日本に大きな影響を与える「扶余」が半島北部に誕生しています。
北部では鮮卑と扶余、東岸では扶余とユウ婁の影響下にあって、西岸や南岸では「古倭民」系譜だったでしょう。

朝鮮神話での始祖檀君は尭の頃の人物とされています。であるならBC2300前後となって歴史にのってきそうです。
檀君神話:
宇宙三十三天の上に最高者桓因(ファンニン)の天宮があり森羅万象をつかさどる神々がいて秩序正しく世界は運行されていた。
王子の一人桓雄(ファンウン)は庶子であり天上の秩序が息苦しく地上に降りてそこを治めたいと願っていた。
それを知った桓因は穀物の種と道具、地上にはまだなかった火、天界人である証の三神宝をもたせて従者三千人と共に地上に降臨させた。その場所はピョンヤン北方の妙香山地とされる。

あるとき山中の熊と虎が人になりたいと願い出て、修行の結果熊だけが人間の女になれた。
桓雄は青年の姿となって熊女(ウンニュ)と夫婦となり檀君を産んだ。
檀君はピョンヤンに都を移し、国名を朝鮮とした(朝日の麗しいの意)。(中国尭帝の即位後50年目という)
その1500年後、周の武王は殷の箕子一族を朝鮮に封じたため檀君は国をゆずって護国の山神となった。
(箕子:殷最後の紂王の叔父とされ、紂王の暴虐をいさめたために幽閉される)

持ち物からみて北方の狩猟遊牧民の到来ではなさそうです。
この時代で火を持たせたというのは、青銅を作れる火のことかもしれません。
周建国はBC1100頃で、年代操作がないとすれば1500年遡るとBC2600頃となり、山東省の龍山文化と重なります。
尭の時代にもおおよそ重なります。
龍山文化は良渚文化の影響を受けています。三種の神宝もその流れをひいているのでしょう。

研究者には各論頻出のようですが、山東半島混乱期に龍山文化圏から遼東半島へ渡りピョンヤン付近へ定住した人々の子孫ではないでしょうか。BC2000頃か。
(渤海湾中の島から龍山文化特有の卵殻土器という特権階級専用の土器がでています)

檀君神話は高句麗や百済、新羅などの建国と2000年も離れていて中間が存在しないのが?だったのですが、最初に「中国文化」を持ち込んだという意味の始祖なのでしょう。
檀君が国譲りした相手が中間を埋める箕子朝鮮なのですが内容の情報はゼロです。
箕子朝鮮はおおよそ現在の遼東半島から北朝鮮の西側の位置と思われますが、発掘調査など研究が待たれるところです。



日本の始祖はどうなんでしょうか。
記紀における天孫降臨をそうであるとするならば、半島と同時代である可能性が大きそうです。
必要がなければ「引っ越し」はしないと思います。
当時の大陸東岸の洪水とそれに伴う混乱であればこれ以上の理由はなさそうです。

「降臨」の2000年ほど後が日本でも建国時代(神武)になりますが、半島に同じく空白時代。
それをうかがわせるのが鵜草葺不合王朝が73代続いたというような上記やサンカ伝承で、1世代30年とすると2200年となって一致する(^^;
そういった空白があるのは中国による文字の記録がないからだと思います。
当時の中国は自国内だけで手一杯(^^; 新文化の過渡期であったBC500前後は春秋戦国時代で外国のことまでは手がまわらなかったでしょう。記録をとらないうちに各地の伝承も変化し消滅してしまった。

記紀での「降臨」と「神武建国」間の「神代」にはいろいろ仕掛け(^^;があると思います。
卵殻土器が九州西北岸あたりからでれば”降臨神話は事実か”なんて記事が踊りそうですが(^^;、長崎や五島列島周辺、対馬周辺の海底調査、期待したいです。
山海経や契丹古伝(契丹:遼:鴨緑江西北域)などの異伝が伝える話はかろうじてその空間を埋める伝承かもしれません。

契丹古伝:
中国には北、西、中、南、海の五原があって、南原の三族は服従しなかったために神祖が海に放逐した。
この後裔が「難波」や「巨鐘」を経て半島南岸に到来して王となった。

難波が大阪のはずはないから東シナ海の波の荒い場所。巨鐘や難波は九州や対馬かもしれません。
神祖とは中国伝承の禹のことでしょう。
この人々が本文の方で書いているボートピープルで、倭の源流だろうと思います。

「天孫降臨」がこの一族である可能性少なからずと思います。
ま、記紀の天孫降臨とボートピープルではイメージは天地ほど違いますけれど(^^;
なお、山東省には楚人が持ち込んだと思われる青銅器の特殊な埋納慣習があります(長江初期文化参照)。
銅鐸の謎の埋納法にそっくりの慣習です。
洪水復興時代に山東省まで楚人がやってきたのでしょう。はたしてそれが日本と関連してくるのかどうか・・

半島と大陸東岸の考古学的データがほしいです。もうちょとで一気に多くがつながるような気がします。
それまではなんとか空想でしのいでおくしかなし。
中国古史には夏を代表して禹が三苗と戦闘をくりかえす伝承がたくさんありますが、中国研究者は三苗はBC2000頃の良渚文化が洪水で滅びた後の屈家嶺文化の後裔(楚人)と推測しています。しかし大陸東岸の文化とその人々についてはまだ研究途上のようです。



三星堆文化は最近まで存在が知られていなかったけれど、その発見によって史記の伝承が事実である可能性を三皇五帝付近にまで遡らせているように見えます。
山海経などに登場する扶桑、若木、建木といった神樹とみられる遺物も三星堆からでていますが、これらも伝承と考古学をつなげるものでしょう。
神樹はとてつもなく高い木で天に届く、太陽を10個持っている、太陽を鳥が背負っている、精霊がこの木を伝って天地を行き来する、といったイメージが基本形のようです(伝承によってどれかが強調されたりしている)。
山海経には赤蛇が樹上にいるとありますが、三星堆の神樹のひとつにもそういうものがあるようです。

太陽と鳥の組み合わせは河姆渡の文様にも見えるし、10個の太陽は太陽を射落とす神話にもつながっていそうです。
諏訪の御柱や赤蛇も神樹とつながりがあるかもしれません。

これらの神樹には生命樹といったイメージはないようですが、中近東の生命樹では枝に鷲が止まり、根には竜がいて、リスが木を上り下りして竜と鷲の間を取り持つ、といった伝承もあるようです。
これらは中国の神樹とまったく同じといってもよさそうです。
蛇がいるとすればアダムとイブとも関係があるかもしれません。
シベリアには木に鈴や太鼓をつけておこなうシャーマニズムがあり、インドでは樹液を大地母の乳とみなす風習があるようです。
森林から生まれた人間なら樹木への特別な気持ちはだれにもあると思います。
その地で重要な食糧源となっているなら生命樹、そうでないなら神樹、といったようにイメージがその環境によって変化して伝承されているのだろうと思います。

川上しのぶ (c)1999/04

参考文献:
中国文明の誕生/林巳奈夫、長江文明の発見/徐朝龍、古代中国社会/張光直
中国古代史を散歩する/李家正文、日中文化研究各号/勉誠社、史記、他
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