淀橋人が作る淀橋資料室

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淀橋関連の書誌情報
淀橋という橋に関する話
1.下落合駅下車神田川編
2.西武新宿駅下車青梅街道編New
3.淀橋の名の由来編[参考資料]New

柏木2さんが知っている淀橋関連の書誌情報
 「東京消えた街角」という本が何冊か出ていますが、その中の1冊に「昭和40年代にアオキ薬局辺りから青梅街道に向かって撮られた、拡幅前の十二社通り」の写真が1枚だけですが載っています。
 ちょっと古いところでは、昭和41年発行の「淀橋浄水場史」という、東京都水道局発行の本に、浄水場の様子が多くの写真とともに書かれています。
水道博物館に所蔵されています。
 かなり古いところでは、「淀橋誌考」という昭和初期(8年?)に作られた本があり、都立日比谷図書館に
所蔵されていて、コピーした記憶があります(インターネットで蔵書確認できると思います)。歴史がお好きな方には昔の淀橋での生活がわかり、面白い本だと思います。江戸時代に関しては、「江戸名所図絵」に淀橋と水車の絵が載っています。(ちなみに
江戸時代には、「鳴子(成子)の瓜」と「淀橋の飴」は、江戸名物だったようです。)
  小説では、田山花袋の「時は過ぎゆく」という本(文庫版あり)に淀橋
浄水場建設時の様子が書かれています(どこまで事実に忠実かはわかりませんが)。また、井伏鱒二の「荻窪風土記」(文庫版あり)の中に、昭和初期の淀橋と成子坂界隈に
関する記述があり、早朝の成子坂から品川の汽船の汽笛が聞こえたと
書いてあります(新宿駅の蒸気機関車の汽笛の可能性もありますが)。
 最近のものでは、「鉄道員(ぽっぽや)」の本の中に角筈・淀橋近辺のバス停などが出てくるほか、泉麻人「散歩のススメ」(新潮文庫平成8年発行)にも「池のある新宿十二社」という項があり、小学生の頃に泉麻人氏が京王バスで通った時の様子がほんの少しですが書かれています。

淀橋ってどこにあったのか?淀橋という橋に関する話をクッキーさんから

1.下落合駅下車神田川編
はるばる狭山から各停しか止まらない下落合駅へようこそ。 
さて、駅から南へすぐ、神田川沿いを上流に向かって歩きましょう。
落合は、神田川と妙正寺川がこの付近で落ち合っていた(過去形)こと
に由来します。川沿い右手に、下水道局落合処理場があります。淀橋
地区の下水もこちらで処理されていますが、さらに高度処理水は新宿
国際ビル(ヒルトンホテル)の地下にある水リサイクルセンター送られ、
各高層ビルのトイレ用水として再利用されています。
小滝橋からちょっと寄り道しましょう。
小滝橋通りを新宿方面に進むと、右側に中央卸売り場淀橋市場があり
ます。左手の新宿消防署をはじめで、かつて淀橋XXと名のっていた
各公共施設が新宿XXと改名した中、ここだけは淀橋の名が健在です。
市場の裏手から、中央線をくぐると、淀橋第四小学校があります。
淀橋第一から第七まであった小学校も、淀橋・淀橋第二とあった中学
校も、いまや淀橋の名を残すのは淀四小だけとなってしまいました。
さて、神田川沿いに戻りましょう。
大久保通りの末広橋を過ぎたすぐ右、桃園川緑道入り口には、
「あなたはもう忘れたかしら」で始まる『神田川』の歌詞の碑があり
ます。この付近、高層ビルを望むには最良です。伏見橋、栄橋と過ぎ、
いよいよ青梅街道、淀橋です。現在の橋は、大正2(1913)年に、
中野の浅田政吉氏らの寄付によりできた鉄筋コンクリートの永久橋で
す。
 (参考文献 ガイドブック新宿区の文化財(8)景観
       昭和58年 新宿区教育委員会発行

・新潮文庫 林望著 東京珍景録 183ページに
 淀橋の欄干の写真が載っています。

New(というか、だいぶ前にいただいていたメールを私がアップを忘れていただけです)
2.西武新宿駅下車青梅街道編 
はるばる狭山から終点西武新宿駅へようこそ。 
さて、駅から南へすぐの大ガードをくぐり、交差点に出ましょう。
大江戸線ご利用の方も新宿西口駅で下車すればこちらに出ます。
近年「ヨドバシ」と言えば「ヨドバシカメラ」の略称になって
しまいましたが、そのヨドバシカメラ大ガード店を左前方に
見ながらまっすぐ進みましょう。

以前、歩道橋の脇に「淀橋浄水場趾公園」がありましたが
Lタワービル建設に伴い、消滅してしまったようです。
青梅街道沿い左手、安田火災ビルや野村ビルが建っているところも
淀橋浄水場の跡地です。

新宿警察署は、昭和40年代、淀橋XXと名のっていた公共施設の
先陣を切って淀橋警察署から改名したものです。ここから先、
アイランドタワー、丸の内線西新宿駅を通り、成子坂を下って
いきますが、かつて淀橋二中があった頃の面影はもうありません。
淀二中跡一帯は再開発工事が進んでいます。

その先、西新宿三井ビル手前を左折し、ちょっと寄り道しましょう。
左手に淀橋幼稚園があります。西新宿の幼稚園・小学校・中学校の
中で淀橋の名を残すのは、いまや私立淀橋幼稚園だけとなってしま
いました。お時間のある方は、園舎を眺めながら、向かいのビルで
お茶でもどうぞ。[蛇足:ベリーニカフェ窓際は禁煙席]

さて、青梅街道に戻りましょう。
十二社通りを過ぎれば、いよいよ神田川、淀橋です。左手上流側は
大正2(1913)年にできた橋の欄干のままで、中野区側の橋柱
には「よどはし」と刻まれています。右手下流側は道路が拡張され
「淀橋」と刻まれていた橋柱もありません。
なお、税務署通り(通称南通り)の淀橋までの拡幅・延長が予定さ
れているため、北新宿側は空き地が多くなっています。



3.淀橋の名の由来編[参考資料]
 淀橋の一本下流、栄橋たもとに説明板が設置されておりますので、
 そちらにおでかけの上、ご覧ください。
 (なお、淀橋〜栄橋間は神田川側道の通行ができませんので、
 一般道を迂回ください)

 また、
 ・ガイドブック新宿区の文化財(8)景観
         昭和58年 新宿区教育委員会発行
 より詳しくは、
 ・新宿区町名誌 昭和51年 新宿区教育委員会発行
 に記載されていますので、区立図書館等で閲覧ください。

                 (以上2000年12月現在)

ところで、淀二中の校歌作詞者、安藤一郎について
調査を進めた結果
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安藤一郎 詩人・英米文学者

明治40(1907)年8.10 芝南佐久間町で生まれる。
      ・東京外国語学校在学中、菊田一夫(1908.3.1生まれ)と
       『花畑』(のち『詩人』)創刊。
昭和 3年3月東京外国語学校英語部卒業
昭和 3年3月東京府立六中(現都立新宿高校)で英語の教師
昭和4年  ・MELグループを作り、ジョイス、ウルフ、ロレンスを紹介
昭和5年  ・『思想以前』を自費出版し、詩壇に登場
昭和10年 坂場と志と結婚
昭和12年3月六中退任 (日華事変)
昭和13年 米山工業学校助教授
昭和16年 東京外国語学校助教授
昭和17年 ・歌謡曲作詞時点  32歳
   戦前 ・英文学者として『ダブリン市民』など翻訳
      ・帰京後、空襲による家の焼失、一家離散、母親の死去と、
       昭和22年芝高輪に家を見つけ生活を立て直すまで
       困苦に満ちた生活が続く    
昭和20年   終戦        35歳
   戦後 ・『現代詩』同人
昭和26年 ・村野四郎、北園克衛、西脇順三郎と『GALA』創刊 
昭和27年 東京外語大学教授
昭和27年 ・新宿高校校歌 作詞。作曲清瀬保二氏により9月初めに完成。
昭和33年  淀二中創立 この頃?校歌作詞
昭和38(37?)年に現代詩協会会長
昭和38年 ・米原高校創立 この頃?校歌作詞
  ??  青山学院大学の名誉教授
昭和46年 どこかの教授退官 (退官記念論文集発刊 N930.4)
昭和47年 11.23死去

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とここまで判明しましたが、なぜ淀二中の校歌を作ることになったのかは
不明です。