厨川家の歴史(コーエーさん、見てくれますかって・・そりゃ多分ないでしょう。)
長命で、何があってもとにかく生き延びるのが特徴。
1998年12月4日から
人目のお客様です。
藤原氏武智麻呂流。定紋は丸に木瓜、三引き両、丸に三ツ柏。
工藤氏を名乗り、代々伊豆に在住。工藤景光が一子工藤小次郎行光は後に畠山重忠や梶原景季を討ち取り
幕府の一番弓をつとめた剛毅の士で、奥州征伐の際に手柄を立てて厨川柵に滞在した源頼朝より
厨川柵を含む西岩手郡三十三郷の地頭を拝領、厨川小次郎と称したのが始まりである。(1189)
後の子孫は奥州安倍氏の頭領、安倍貞任(厨川次郎を名乗った)の子孫とも称したらしいが、
現地の女性を娶るなどして少しは繋がりがあるのかもしれないが、直接の繋がりはないと考えられる。
その後子孫は厨川柵ではなく、姥戸柵(現在の盛岡市安倍舘)を改修して安倍舘または厨川館として代々在住。
厨川城(または館)は勾当館、下館、北館、本丸、中館、南館の6郭から成る連郭式の館で、最大の郭である本丸の
面積は110mX80m程あった。また厨川家は、巌手山大権現の大祝を兼ね、天昌寺を創建した。
1400年頃南下してくる南部信長との戦いに破れて岩手郡郡代を停止、上下厨川村周辺のみの所領と
成り厨川氏(厨河、栗谷川、栗谷河とも書く)と称する事が多くなった。
なぜこのとき一族が滅亡しなかったのかは不明である。南部氏と決戦したにもかかわらず。
以来岩手郡は南部家の家臣で不来方に館を築いた福士氏と、斯波氏、葛西氏が争うこととなり、厨川氏は
福士、斯波、葛西氏との縁婚関係を結んで生き延びた。柏紋はそのとき葛西氏から拝領したものと思われる。
秀吉の天下統一が成ったときの当主は厨川豊前光勝で、この人は慶長元年百十一歳まで生きた。
他に江戸時代に七十八歳や八十六歳の記録がある。
豊前の前の代ぐらいから南部氏の勢力が圧倒的となり、南部氏より800石を拝領した。
(家臣の中では多い方ではない。外様だし。)
「くりや川」と署名した所領安堵の書状が残っている。(うちにではない。)
南部氏は九戸城を改築した福岡城を経て、不来方館を大幅に拡張し蒲生氏郷の縄張りした盛岡城を築いてから
直接岩手郡を統治するようになり、それまで岩手郡を預かっていた福士氏は没落することとなった。
なぜ没落した福士氏や斯波氏などに道連れに成らず家を保てたのかは不明である。
豊前の次の代の如光は南部家の黒母衣衆、使い番等を勤めて大阪の陣に出陣し一族各々加増されたが
後に250石とされた。(減らされたのは厨川城の破却の後かもしれない。)
また豊前の弟(一説には子供)に光忠がおり、こちらは500石を領した。
うちの先祖がどちらの系統かは分からない(そこまでつながる家系図がないので(涙))
盛岡城(厨川城とは極めて近い)が完成した時、厨川城は元和一国一城令で破却を命ぜられた。
しかし厨川氏はこれに抵抗し、南部氏は武力を持って破却し、浪人となった。その際一門の山城なども破棄された。
一説によると一日で破れた。なぜこのときに一族が無事だったのかは不明である。
城に立てこもったらしいのに。
後の代に再び一族それぞれ南部氏に召し抱えられ、明治まで続いた。後に八戸南部氏が分家した際に
厨川光邦は煙山主殿を名乗り八戸へ従い以後代々煙山氏を名乗った。
一方他の厨川氏は最も大きな家で100石強の知行を受け、そのまま盛岡に住み続けた。
所領の仁王外五ヶ村の村民の感謝状はうちにある。屋敷は盛岡駅前にあったそうである。
以後北海道に移住してから往時の資料は上記のもの以外は全て失われた。
明治以前の家系図も家宝も残っていない。
現在筆者は土浦に在住。一応宗家らしい。
参考資料
以上の資料の大部分は筑波大学図書館の武士の歴史や岩手県の歴史を扱った本から採った。
「東鏡」「南部諸氏家系圖」も参考にした。
98/9/6作成
98/12/05改訂