===空白のとき===[8]===







     通し稽古を何度かと、時から提供された衣装の手直しをあらかた済ませて、
     その日の部活は終了した。

     夕闇が暗闇に吸い込まれそうになっている心細い赤い光の中を、
     皆と別れた糸と真琴が、ふたりで歩いていた。

     「ねえ 糸さん」
     「なに?」

     「糸さんは覚えていないかもしれないけど」
     「?」

     「私の家に 王女と王子の衣装が縫いかけで置いてあるの」
     「え?そーなのか?」

     「ええ」

     自分の知らない過去の事実を突きつけられて唖然とする糸が、そこに居た。
     真琴は、糸に気付かれないように静かに深く息を吸うと、堪えきれない想いと共に吐き出した。

     「だから これからうちに寄って行かない?」





            演劇部が無くなってしまうかもしれない。
            そうなったら、父との約束通りに演劇部のある違う学校へ転校・・・・・・。
            自分ひとりではどうにもならない未来を思い悩んでいた真。
            あの日、白鳥の湖の衣装を持って、不意にやって来たのは糸だった。
            王子と王女の衣装を、わざわざ学校まで取りに行き、その足で真琴の家にやって来たのだ。


     自分が男であるということを、見せつける決意は出来ていなかったが、
     何度も訪れている自分の部屋に入ることで、何かきっかけが生まれるかもしれない。
     いや、オレのことを少しでもいいから思い出して欲しい。
     そんな焦りが、糸を部屋へ導いたのかもしれなかった。

     「ここの2階なの」
     「・・・・・・真琴 ひとりで住んでるのか?」
     「ええ 実家が遠いのでね」
     「ふうん」

     何度も来た事のある部屋に案内しながら交わすこんな些細な会話が、

     ――――― 今の糸は自分を知らない

     という現実を強く示しているようで、真琴の笑顔が糸に見えないところでこわばる。
     目の前に居る糸も、こんな気持ちで泣きそうになっている自分も、全てが夢なら・・・・・・。
     ぎゅっと目を閉じてからゆっくりと目を開く。
     その目に映る光景は、寸分前と何も変わってはいない。

     「真琴!」
     糸を従えて鍵を差し込んだところで、下の方から声がした。

     「姉さん」
     茜が笑顔で階段を上がって来た。
     糸の前でにっこり笑うと、糸は少し困りながらも笑顔を返した。

     「糸さん 私の姉なの」
     真琴が茜を糸に紹介した。

     「こちらは三浦糸さん 演劇部の女子部長さんなの」
     「こんにちは 真琴がいつもお世話になってます ありがとう」
     「いえ こんにちは」

     にっこり笑い続ける真琴とよく似た優しく綺麗な笑顔に、初対面と構える糸の警戒心も薄れていた。

     「どうぞ 入って」
     「お邪魔します」
     「そこに座ってて 今持って来るから」



     興味ありそうに糸が辺りを見回す。

     ( ここが真琴 の 部屋? )

     几帳面に片付けられた部屋の中を、自分の部屋と比較して半ば感心して見ていると、
     ふんわりと優しい真琴の匂いで溢れているような空気を感じた。
     少し甘い、でも凛としたこの心地良い香りには覚えがあるような気がする。
     ゆっくりと興味深げに部屋の中を見回す糸を、茜が心配そうに見つめていた。



     「お待たせ これよ」

     真琴が別の部屋から大切そうに、
     いかにも演劇用に大袈裟に作られた二着の衣装を抱えて戻って来た。

     「これが?」
     「そう こっちが糸さんので こっちが私のよ」

     まるで初めて見るように、まじまじと衣装を見つめる糸の仕草が真琴の目に入る。

     ――――― これ 覚えてない?
     僅かでも気を許した途端に、何度でも口に出してしまいそうな言葉を飲み込む真琴。

     初めて見る自分の衣装に、全ての関心を奪われている糸に辛そうに目をやる真琴を見つめる茜。


     ( 糸さんが真琴のことを忘れているって 本当だったのね )
     真実を目の当たりにした茜は、受け入れたくない事実を飲み込むしかなかった。

     さっき見た糸は、茜を慕ってくれたかつての糸では無かった。
     真琴を信じて支えになってくれると茜が願いを託した糸では無くなっていた。

     真琴を忘れてしまった糸を、糸に忘れられてしまった真琴を、
     どちらの気持ちを想い計っても胸が熱くなる。
     それ程に茜は、弟である真琴を応援しながら、真を素直に慕う糸を可愛いと思っていた。
     弟でありながらも、煮え切らない真に対してやきもきする糸の想いを聞き、
     懲らしめてやろうと同調したこともある。

     そして、何よりも今の真琴には糸が必要だと体中で解っているのは、
     真の心の声を聞き続けて来た茜に違いなかった。

     それだけに、さっきのよそよそしい糸の態度が、思い出される度に茜の胸を締め付け、
     受け入れ難い現実と戦い続けている真の姿が、可哀想で悲しくてならなかった。


     「これ もう完成してるのか?」
     「王子の方は出来てるけど 王女の方はあと少し」
     真琴の返事に糸が衣装を確認する。
     確かに王子の衣装はそのまま着ることが出来そうだ。
     だが、王女の衣装は、裾がたらたらとまばらな長さで縫われていなかった。

     「じゃあ 今やっちゃおう」
     「え? 今から」
     「あ なんか用事あったか? だったらあたし これ持って帰るから」
     「ううん 糸さんの帰りが遅いの 家で心配してないかと思って」

     時計を見ると、確かに一般的な夕食時に近い時刻ではある。

     「じゃ ちょっと電話しとくよ」
     糸が家に電話をかける。


     「私はそろそろ失礼するわね」
     「うん 姉さん 差し入れありがとう」
     「また来るわね 糸さん 今度は学校にお邪魔するのでよろしくね」

     家への電話を終えた糸にも声をかけた。

     「あ はい さようなら」
     「さようなら」

     居間に糸と衣装を残して、玄関で茜を見送る真琴。
     本来なら、忘れていなかったら、糸も一緒に茜を見送ってくれているに違いなかった。

     「・・・・・真」
     「なに?」
     「無理しないでね?」
     「・・・・・ありがとう 大丈夫だよ」

     言葉にそぐわない全然大丈夫ではない弱々しい笑顔で、真琴は茜に礼を述べる。
     茜は、精一杯の虚勢を張る弟に居たたまれない思いで笑顔を返すと、静かにドアを閉じた。

     真琴は、茜の思いやりが胸に刺さる程に嬉しかったが、
     茜に今以上の弱音を吐いて、泣きつくつもりは毛頭無かった。
     ただただ糸を取り戻すための味方が、独りでもいてくれることが支えだった。



     茜が去った部屋で、糸と真琴はお互いに片方ずつの袖を手に、
     ちくちくと細やかにほつれを直していった。

     何をやっても器用にこなす真琴は、糸の倍くらいの速さで縫い続ける。
     糸は不器用では無いのだが、細かいことにこだわらない性格のためかマイペースで縫って行く。

     「・・・・・ぃつっ」
     真琴がもうぐるっと袖口を一回りしようかという辺りで、糸が指に針を刺した。

     「大丈夫? 糸さん?」
     「あ〜あ 今日は刺さないで終わると思ったのにな」
     笑って針が刺さったらしい指を、真琴に向けてにっこり笑った。
     大したことは無さそうだが、明らかにここに針が刺さったという傷跡がわかった。

     「かして」
     真顔でそう言うと、真琴は糸の手を引き寄せ、血の出かかっている指の腹を自分の唇に当てた。
     自分の意志を無視されて手の自由を奪われた糸は、予想もしなかった真琴の行為に固まった。
     それと同時に、手に触れた真琴の手から、指に触れた真琴の唇から、真琴の体温を直に肌に感じる。
     長い睫毛を伏せて糸の手を慈しむように見つめる真琴が目に入った瞬間、
     糸の体は金縛りに遭ったように動かなくなったが、
     体中の血は熱く火照り、頭のてっぺんまで燃えるような感覚に陥っていた。
     触れられているだけなのに、心臓がこれでもかと一気に早鐘を打ち呼吸が止まりそうになる。

     「・・・・・ま まこと?」

     搾り出した糸の強張った声に、真琴が我に返って糸にその手を戻す。

     「・・・・・ごめんなさい つい」

     照れるというよりも、なんということをしてしまったのかという自責の念にかられるような、
     すまなそうな真琴の顔が、糸の目の前に置かれた。

     「・・・・・い いや 」
     血の止まった指が、やっと自分の体に戻って来たような不思議な感覚を味わいながら、
     離れてしまった真琴のぬくもりが、妙に懐かしい感触を糸の中に残していた。



     「これは私が学校に持って行くわね」
     「あたしも手伝うよ」
     「これくらい私ひとりで運べるわ 心配しないで」
     「え でも・・・・・」

     押し問答の末、完成した衣装は糸と真琴が一着ずつ学校へ持って行くことになった。

     「じゃあ 明日 また学校で」
     「うん お邪魔しました」
     「・・・・・送って行きましょうか?」
     「子供じゃないんだから じゃあな」

     糸がいつものように笑って真琴の部屋を出て行った。
     いつもと違うのは、糸が真琴という女の子の部屋から帰って行くと信じて疑っていないことだけだった。

     この部屋に居る間は男の格好が出来た、いや本当の姿に戻れている筈だった真琴は、
     長い金髪をなびかせた少女のままで、糸と一緒に過ごさねばならない今の自分が歯痒かった。

     この部屋に入ったら、本当の姿の真琴を思い出してくれるのでは無いか?

     ――――― 真琴は賭けに出たのだ。

     そんな淡い期待を持っての誘いだったのだが、どうやら糸の様子に変化は見られない。
     それどころか、少女の姿のままで糸に不自然に触れてしまったことを悔やんでいた。

     「へんな風に思われちゃったかな・・・・・・」

     だが、もう後戻りはできない。
     糸の指に触れた唇に手を当てながら目を閉じる。
     糸の総てを取り戻すための小さな決意が、真琴の中に息吹き始めていた。




     暗くなってしまった夜道を小走りに家へ向かう糸。
     玄関を開けると、帰宅の挨拶の前に声がかかった。

     「おう おかえり」
     「ただいまー 腹減ったー」
     「ちょうど これから夕食だ」
     「待っててくれたのか?」
     「ちょっとだけな 早く着替えて来い」

     糸は自分の部屋へ向かったが、兄達の思いやりが嬉しくて思わず顔がほころんだ。
     そして、制服を着替えながら、
     ( 真琴はあそこに独りで居るんだ )
     ふと、さっき別れた真琴のことを思い出して寂しくなった。

     真琴のことを考えると、持って来た衣装が気になり、着替えの途中のままで、
     しわにならいようにと大きな紙袋から取り出してハンガーにかけた。
     糸の衣装は王女さまのドレス。
     さらさらの柔らかいドレープの効いたスカート部分が、ふわっと広がった。

     「?」
     それと同時に、糸の部屋には存在しない香りが広がる。
     真琴の部屋に置いてあった間に移った香りだろう。
     「この匂い・・・・・・」
     懐かしいような愛おしいような匂いに包まれた瞬間、糸を激しい頭痛が襲った。

     最近、忘れていたあの恐ろしい痛みだった。
     糸の思考を停止させようとするかのようにズキズキと容赦無く頭を締め付けた。

     ドレスに触れながら、頭を抱えて下着姿のままで糸はしゃがんでうずくまる。


     耐え難い痛みの向こうから声が聞こえた。





     ――――― オレの素顔は糸さんしか知らない ―――――







     ――――― あたしはお前なんか知らない ―――――








     頭を抱えて冷汗を流しながら、糸は必死に得体の知れない痛みと戦っていた。










     *****************************


     ===空白のとき===[8]===


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     ===空白のとき===[9]=== へ、続きます。




     やっと【8】です。
     こんなに間が空くとは、無責任な話ですが、全く以って想定外です。
     読んでくださっている皆さまには、本当に申し訳ありません。
     もっとサクサク進む予定だったのですが、矢張り予定は未定です。
     まこりんと一緒に私まで悩んでどーするよ??(汗)

     巷では、【WジュリU】とか【Wジュリ新作】という夢のような未来に向かって、
     希望に満ち溢れているというのに、
     いつまでもこんな辛気臭い話を書き続けてしまっている自分が不思議です。

     ですが、なんとか最後まで仕上げたいと思いますので、
     許せる方のみ、全てに寛大にお楽しみいただけると大変幸せですv
     まだ続きます。

     今回もお付き合い、ありがとうございました。

    
    
     (2006.12.07)