===空白のとき===[7]===
欲しくて欲しくてたまらないのに忘れそうになっていた糸の体温を、
隆世のぬくもりに置き換えるように手のひらに感じながらふと顔を上げると、
真琴の目線の真っ直ぐ向こうに糸の上半身が見えた。
その糸の頬は濡れていた。
「ごめんね」
真琴はさっきまで心を許しそうになっていた隆世を、そう小さく言うだけでぞんざいに解き放つと、一気に階段を駆け上がった。
「糸さん?」
真琴が駆け寄ると、糸はごしごしと濡れた顔を袖の白い布と腕で拭っていた。
「・・・・・どうしたの?」
「・・・・・走ってたら目にゴミ入ったみたいでさ」
この場で泣いている理由が、自分にも皆目わからない糸には精一杯の返答だった。
「もう大丈夫だからさ」
「・・・・・そう?ちゃんと洗った方がよくない?」
真琴が糸の顔に触れようと手を伸ばすのを察して、とっさに身を反らせた。
「大丈夫だよ ・・・・・これから目薬もらってくるから」
糸の反応にショックを受けながらも何もなかったように手を下ろし、真琴は微笑んで立っていた。
「じゃ 裁縫道具よろしくな」
糸は軽く手を上げると、真琴の前から駆け足で消えて行った。
――――― オレが欲しいの こっちだから ―――――
(頭の奥の方で聞こえたこの声は何なんだ?)
(オレって? 誰? 兄ちゃんなのか??)
理由のわからない大量の涙を拭ったばかりの糸の顔は、
走ることに抵抗する空気によって、次第に火照りを失って行った。
「いてっ!」
「糸さん 大丈夫?」
「さっきから刺してばっかりだけど・・・・・・」
「・・・・・かして?」
見かねた伸子が糸に声をかけた。
「うん・・・・・」
糸がさっきからずっと針を刺しまくっていた左手を差し出す前に、
伸子は糸が繕っていた白い衣装を抱え取ると、糸の不器用な縫い目の跡を真っ直ぐに縫い始めた。
糸は少し安心したように伸子の持つ針の定期的な動きを見ながら、
(あたし なんで手を出したんだ?)
なぜ自分は、伸子に向かって衣装ではなくて左手を差し出そうとしたのだろう?
そんな漠然とした疑問を抱きながら、血が滲む左手の指先を自分の唇へ運んでいた。
「あっ!」
「糸さんてば さっきから 刺してばっかり」
糸はとっさに針を刺してしまった左手の指をくわえていた。
「かして」
糸はてっきり、真琴が自分が手掛ける衣装の修繕を手伝ってくれるのだと思っていた。
それなのに、真琴は糸から衣装を受け取る前に、
傷だらけの指先ごと糸の左手を自分の口元へ連れ去っていた。
真琴はいとおしそうに、尚且つ傷を癒すかのように糸の指に接吻を重ねた。
「消毒終了」
何が起こっているのか理解しきれずに真赤になる糸に向かって真琴が言う。
「おっおっおまえっ」
真琴に抵抗もしないままできないまま、真赤になった糸がしどろもどろに声を出した。
「え?もっとやってほしい?」
真琴は必死の糸にお構いなしに、今度は指先だけでなく糸の手に接吻をしまくる。
味わったことの無い恥ずかしさで混乱した糸は、思いきり真琴を突き飛ばした。
糸から少し離れたところで糸を盗み見ていた真琴は、
糸が針を刺して指をくわえるところから、
自分だけしか知らないことになってしまった糸との時間を思い出していた。
「あ―――― おとこのカッコして 誰か来たらどーすんだよ」
勧誘会で自分達が使う衣装を仕上げようと、真琴の家にいきなりやって来た糸は、入るなり叫んだ。
「平気 『糸さん』しか知らないし ここは」
「・・・・・ あ そか 」
真琴の冷静な返答に納得しながら、自分が特別だと言ってくれることに少し顔を赤らめた。
そんな糸に何の照れ隠しも無く、部屋での真琴は男の姿に戻れていた。
糸はいつも真剣に真っ直ぐに真琴に向かってくれていた。
それは真琴の本当の姿を知っても何ら変わりなく、
むしろ、真琴の事情を知ってからは自らが盾となるかのように庇ってくれていたのに。
糸が自分のことを忘れてしまったのは、自分と出会う前の方が幸せだったから?
自分は糸の厚意に甘えてしまっていたが、それは糸にとっては重荷でしかなかったから?
真琴が感じていた糸からの好意は勘違いの連続であって、
だからこそ、今の糸は真琴を守り続ける重圧に耐え兼ねて真琴の居ない世界に身を置いているのだろうか?
少し離れての見た目は以前と変わりない糸なのに、
これまでの自分との関わりを全て忘却の彼方へ送ってしまった糸は、
真琴にとって今まで以上に大切な存在へと変貌しつつあった。
そして今までのいつよりも手の届かない存在へと変貌しつつもあった。
糸の温かさ、強さ、優しさ、実直さ・・・・・・・その何もかもが、
ひとりで孤独に戦って来た真琴の支えになっていたのだから。
気を許すと、自分が糸の世界に要らない存在だから忘れられたのだという、
自虐的なやりきれない思いに包まれてしまう。
いっそ、本来の男の姿に戻って糸の前に現れてみようかと何度も考えあぐねたが、
本来の姿で対面しても自分を思い出してくれないかもしれない・・・・・・
そんな、自分を全否定するような恐ろしい予感に襲われてしまい、
秘密を明かすという手段を使うことを、真琴はいつまでもためらっていた。
「じゃあ真琴さん お姉さんによろしく」
「ええ 伝えておくわ」
「さよならー」
「また明日ね」
日もとっぷり暮れたので、明日の予定を立てて部活が終わった。
しばらく同じ方向で歩いていた皆も、それぞれの家路に向かって道を分かれた。
家の前で鍵を差し回す。
いつもは何も無い玄関には、女物の靴が綺麗に揃えて置いてあった。
ひとりで暮らす真琴の家には、姉の茜が訪ねて来ていた。
無論、今日の茜の来訪は、真琴が声をかけたからなので予定内であったのだが。
「姉さん 演劇部のメイク お願いできるかな?」
「ええ 仕事と折り合いがついたら喜んで行くわ ちょっと待ってね」
真琴から告げられた日時で手帳を開いてスケジュールの調整をしている茜の傍らで、真琴の心は遠くに飛んでいた。
茜は真琴のいちばん年の近い姉である。
メイクアップアーチストという仕事柄、演劇部にその腕を頼りにされていた。
茜も腕を磨ける機会と、前向きに引き受けてくれていた。
そして、孤立した家の中で真琴の一番の味方が、この茜であった。
「糸さんの記憶が無くなったって本当なの?」
「うん」
真琴は家族の中でも特に茜だけは、女装生活について話をしていた。
家族のなかで唯一自分と糸の関わりを知っている茜には、この事実を知っていて欲しかったのかもしれない。
弟の神妙な顔つきを見て、元来真面目な性格の茜は何の疑いも無くこの話を受け止めていた。
真琴の苦悩を思い量ると、茜の心中にも暗雲が立ち込めて来る。
自分の目の届かない世界で頑張りすぎる真琴を、自分以上に守ってくれるかもしれない糸に、
茜も好意を寄せて信頼していた。
厳しい条件の中で、味方がひとりも居なくなってしまったのかと思うと、
茜は目の前にいる自分よりも大きくなってしまった弟を心配せずには居られなかった。
「・・・・・きっと思い出してくれるわよ」
「・・・・・そうだよね」
静かに目を伏せて笑う真琴の姿に、茜は自分の励ましが何の効力も持っていないことを悲しく悟っていた。
「みんなー 差し入れよぉー」
何処に行っていたのか、つぐみが部員達への差し入れを後ろの部下等に持たせてやって来た。
「ひと休みしましょう」
衣装を繕ったり小道具を直したりという細かい作業に没頭していた部員達は、
素直につぐみの声に従って手を置いた。
糸も慣れない針仕事に、思わず首を回すとごりごりと音がする程に集中していた。
「いっただっきまーす!」
「つぐみ先輩 ごちそうさまで〜す」
口々に礼を述べて、部員達は差し入れの飲み物を口に運ぶ。
一息ついたところで、美咲がつぐみに尋ねた。
「つぐみ先輩の衣装は?」
「ああ もうとっくに直させたから大丈夫よ」
いつものように、部下のふたりがちくちくと針仕事をこなしたのだろう。
それ以上は暗黙の了解なのか、誰も説明を求めたりはしない。
それ程に、つぐみの部下と呼ばれるつぐみに好意を寄せるふたりの男子生徒の存在を皆が認めていた。
「つぐみせんぱ〜い これってホレ薬とか入ってないですよね?」
半分以上を飲み干してから、与四郎が半ばふざけてつぐみに絡んだ。
「入ってるわよ?」
全員が、もう無くなりかけている自分の飲み物をじっと見つめた。
「やぁーねー 糸くんのにしか入れてないわよぉ」
「は?」
糸は与四郎の質問の意味が理解できずにいたので、つぐみの台詞に自分の名が出たことに驚き固まった。
「あたしが前に糸くんのために用意したホレ薬よぉ」
「ホレ薬??」
糸には全く検討がつかない。
「もしかして つぐみ先輩がホレ薬を持って来たことも覚えてないのか??」
与四郎が不審そうに糸の顔を見つめる。
「ほら つぐみ先輩がお前に試そうとして 海外から持って来たヤツだよ!」
「・・・・・・わかんねえ」
しばし考えていたらしい糸の答えは、真顔で真剣だった。
「そ・・・・か 」
糸の様子に与四郎はそれ以上の追究を諦めた。
この一瞬で、真琴以外の部員達が、糸が一定期間の記憶を無くしてしまっていたことを改めて認識した。
「今飲んでくれたんだから 前のことはいーわよぉ」
つぐみのあっけらかんとした声が、周りの凍りつきそうになった空気を砕いてくれた。
「本当に入ってるんですか?」
ホレ薬という只ならないらしい存在を知る知らないはともかく、
得体の知れないモノが自分の手にしている飲料水の中に混同されているのかは気になった。
糸が驚く様子を見て、つぐみが満足したように笑う。
「入ってるわよぉ?」
「本当に!?」
真実を追い求める懇願するように熱くじっと見つめる糸の視線に照れたのか、
「まだあったら入れてたわよぉ」
つぐみは少し赤くなりながら、糸の熱い視線に耐え切れずあっさり身の潔白を薄情してしまった。
「ホントはホントに入れてたかもね?」
こっそり茶化す部員もいたが、つぐみの傍若無人ぶりは皆が知っていたし、
彼女が善い先輩であることも認めていたので、笑い話にしかならなかった。
ただ、つぐみが糸を本当に好きで慕っていたことも周知の事実だったので、
この小さな懸念は、いつ事実に発展してもおかしくないのかもしれなかった。
(あの時のホレ薬は本当はただの水だったっけ・・・・・・・)
この真実を知っているのは、不可抗力で偶然ホレ薬を頭から被ってしまった真琴だけだ。
あの時は、つぐみを糸から遠ざけるためにホレ薬が本物であるかのような演技をし、
隆世を巡って捻れそうになった、糸からの信頼を取り戻したのだ。
隆世よりも糸の方が大切だと告白した、忘れられない出来事の筈だった。
自分に関する全ての出来事も、何も糸の中に残っていないのだろうか?
和む周りの空気に反比例して、真琴の周りだけが暗く淀んでいくようだった。
隆世を振り切って糸を求めて抱き締めた、過去のぬくもりが真琴の両手にうっすらと甦る。
そのぬくもりは真琴の不安に比例して、あっという間に冷たい空気へと変わってしまっていた。
―――――オレの素顔は糸さんしか知らない―――――
―――――これからもね―――――
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===空白のとき===[7]===
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===空白のとき===[8]=== へ、まだ続きます。
お付き合いありがとうございます。
すいません。
まだまだ終わらないみたいなので、許せる方のみ気長にお付き合いください。
こんな話を延々と妄想していたら、
【WジュリU】発売!
なんていう夢を見ちゃったので、え?現実?
いーや!実物を見るまでは信じられんっ!(真剣)
この話に関しては、なるべく更新期間を開けないようにとは気張っておりますので、
最後まで、どうぞよろしくお願いいたします。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。
(2006.10.27)