===空白のとき===[6]===







     「ねえちゃん でんわー 真琴さんからー」


     真琴に約束をすっぽかされて与四郎と一緒に家に帰った糸は、
     家に持ち帰った燃え残った衣装を見ながら、どう直そうかと思案していた。
     そこに竜良が真琴からの電話を取り次いで来た。

     「もしもし?」
     「もしもし? 糸さん?」
     階段を降りて受話器を取った糸の耳に、
     慌てたような安心したような真琴の声が少し遠くに聞こえた。

     「うん あたし」
     「今日は本当にごめんなさい 急に用が出来てしまって・・・・・」

     本心からすまなそうに話す神妙な真琴の声を受け取りながら、糸はあっけらかんと話をする。

     「いいよ もう」
     「本当にごめんなさい でも明日は・・・・・」
     「いや いいよ もう」
     「・・・え?」
     「明日 買い出しはあたしと与四郎で行って来るから」
     「・・・・・・・?」
     「それよりさ いいニュースがあるんだ!」
     「え?」
     「時ちゃんが助っ人に来てくれるんだってさ」
     「時・・・・・先輩?」
     「そうなんだ 衣装も貸してくれるみたいだからこれで少しは立て直せるぜ 明日からまた頑張ろうな」

     「じゃ」
     「あ・・あの・・・・糸さん?・・・・」
     「ツー ツー ツー ・・・・・」

     電話は切れていた。

     真琴からの弁解は必要ないと言わんばかりに、
     時の話を嬉しそうに持ち出して、糸は電話を切っていた。

     真琴は繋がっていない受話器を呆然と持ちながら、
     自分が約束をすっぽかした事実に怒るよりも、時の手伝いに歓喜する糸に、
     これまで味わったことのない苦味を噛み締めていた。

     オレの前で時先輩の話をあんなに嬉しそうにするなんて・・・・・。
     糸が自分に関する一切の記憶を無くしてしまったと頭では理解していても、
     体の何処かがそれを認めてはいなかった。
     糸の中の何処かに、小さくても生きている筈の自分の存在を信じていたかった。
     そんな真琴のささやかな願いを嘲笑うもうひとりの真琴が居るように、
     受話器を握る手のひらは冷たい汗でじっとりと濡れていた。







     「よお!」
     「時先輩!」

     大きな荷物を携えて、時が約束通りに演劇部に現れた。
     背も高く態度もでかいため、日頃は恐ろしい先輩という存在でしかない時だが、
     今や演劇部の皆には地獄に仏のように映っていた。
     ただひとり、時が糸を女性と認めて手に入れようとしていることを知っている真琴を除いて。

     「こんな衣装でどうだ?」
     時は大きな箱を開けて、白い布を引っ張り出して見せた。
     そのたくさんの布と衣装は、元気の無かった部員達を奮い立たせるに十分だった。

     「使えます!」
     「これも・・・・・これもっ!」
     「少し直せば白鳥の衣装も揃うよね?」
     「よかったー!」

     部員の皆が、廃部にしたくない!と思う気持ちは同じだった。



     「よお! いっ子!」
     時だけは、いつも糸をこう呼んでいる。
     その自分だけが特別であるような呼び方すら、耳に入る度に真琴の癇に障った。

     「お前 お姫さまなんだって?」
     「あんだよ 悪いかよ?」
     「いや 見てーなと思ったからよ」

     にやにやと糸に近付いて肩に手を掛ける時の姿や、
     それに全く抵抗せずに一緒に笑う糸を見ているだけで、真琴の体中が怒りで疼いた。

     (同じ光景を前にも見たのに・・・・・・)
     周りに気付かれないようにしていても、点検する衣装を持つ手がわなわなと震える。

     (オレのことを忘れていなかったら)

     (いや オレと出会ってからのことを忘れていなかったら・・・)

     記憶を失っていなければ、真琴の前で時と触れ合うことなど絶対に糸はしなかった筈だった。
     一時は、時に連れ去られた糸を取り戻したのが真琴だ。
     糸も時より自分を選んでくれた筈だった。
     それなのに、今の糸に対して自分には糸から時を遠ざける理由も権利も無いことが、
     ただただ悲しく寂しくて、そんな感情が表に溢れないよう思わず歯を食い縛っていた。







     放課後、時が持って来た衣装を、手分けして直そうと分類しながら、
     ふと、糸が思い出したように隣に居る真琴に声をかけた。

     「そういえば なんであの時来なかったんだ?」
     「え?」
     「あの買い出しの約束した時にさ」
     「・・・・・ああ」

     手を止めずに笑顔で問い掛ける糸に、さほどの関心の無さを読み取れて切なくなりながらも
     真琴が冷静に答える。

     「隆世ちゃんが急に倒れちゃって・・・・・」
     「隆世ちゃん?」
     「あの 前に私と一緒に居た髪の長い小柄な女の子なんだけど・・・・・」

     糸は隆世に関する記憶は無いが、面識はあったので真琴の言う女の子のことはわかった。
     隆世には一方的に声を掛けられたことも、真琴と一緒に居るのを見たこともある。

     「あの子 真琴の知り合いだったんだな」

     真琴とあの少女が一緒にいる光景を思い出すだけで、あの小さな痛みが糸の胸に甦ったが、
     糸が気に留めなくて良いくらいにその不思議な痛みは小さく治まっていく。

     「うん そうなの ・・・・・糸さん 彼女のこと知ってるの?」
     「ちょっとな ・・・・・なんかの病気なのか?」
     「ううん でも とにかく体が弱いの」
     「そっか で もう大丈夫なのか?」
     「ええ まだ家で休んでいるみたいだけど大丈夫よ」
     「なら良かったな」

     そう言って、僅かな胸の痛みを打ち消しながらにっこりと笑う糸。
     本心から隆世のことを心配して安心する糸の笑顔が眩しいほどに、真琴の気持ちは雲って行く。
     糸がどんどん自分から遠ざかって行くような不安を、打ち消しようが無くなって行くのだ。

     (オレが隆世ちゃんの心配をしていても平気なんだ・・・・・・)
     以前の糸だったらこうしてくれるだろうに!
     こんな期待が、自分のことを覚えていない糸に対して空しいことを頭ではわかっていても、
     糸の心を取り戻したい真琴には、激しい焦りを生む要因に他ならなかった。





     「マコトくん!」

     衣装を修復するのに足りない裁縫用具を借りに家庭科室へ向かった真琴は、階段で呼び止められた。

     「隆世ちゃん」

     階段を降りる真琴と階段を登る隆世が、踊り場で対面した。

     「この間は 家まで運んでくれてありがとう」
     「いや ・・・・・もう学校に来ていいの?」
     「ええ 熱も下がったし 大丈夫よ」

     いつもように青白い顔で隆世が、心配そうにする真琴に笑いかけた。

     「演劇部の方は? 勧誘会には出れそうなの?」
     「うん 先輩が助けてくれて何とかなりそうだよ」
     「そう 良かった」

     隆世は兄の隆士と同じように、演劇部の廃部を願っているのでは無いのか?
     真琴の中に小さな疑念があったが、隆世の笑顔は素直だった。

     「私 マコトくんの夢は応援したいの」
     「え?」

     思いがけない隆世の言葉に驚く真琴。
     隆世は隆士と一緒に、真琴に実家を継がせることが目的では無いのか?
     成田道場を継ぐ、長男の真に興味があるのでは無かったのか?
     だからこそ、隆士はこの学校から演劇部を無くす為に手段を選ばずにいるのでは無かったのか?

     真琴が渦巻く考えを必死にまとめているところに、隆世が静かに声を掛けた。

     「マコトくんには私がついてるわ」

     「・・・・・隆世ちゃん?」

     隆世は、いつに無く真剣な声で真琴に向かっていた。

     こんな見え透いた好意にすら心を奪われそうになる自分が悲しかった。

     それでも、優しく真っ直ぐに見つめてくれる大きな目に吸い込まれそうになる自分も止められなかった。

     「ありがとう 隆世ちゃん」

     真琴はそっと隆世の小さな両肩に自分の手を置いた。
     真が真琴で居る為の支えが欲しかった。

     思いがけない真琴の行動と、真琴の体温を両肩に感じたことで、隆世の全身の血が沸騰しそうになった。
     許婚と言いながらも、これまで真琴が自らの意志で隆世に触れて来たことは一度も無かったのだ。

     「・・・・・マコトくんには私がついているわ」

     真琴から歩み寄ってくれた事実に喜びを隠せない隆世には、何度言っても他に言葉が見つからない。
     他の言葉を口にしてしまったら、今にも湧き出しそうな嬉し涙を止める自信が全く無かった。
     それくらいに真琴への想いと決意を固めて、この言葉を用意して来たのだ。

     隆世が恥ずかしさと喜びに目をそらせない程に、真琴は真っ直ぐに隆世の目を見つめていた。
     心の拠り所だった糸を失って初めて、真琴は隆世の気持ちに向き合っていた。
     今の自分を、真を真琴として認めてくれるのは、校内には隆世しか居ないのだ。
     隆世の想いが、真琴のひび割れた体の芯を温めてくれるような気がするのも当然だった。
     真琴はこの時、隆世のぬくもりを感じながら本心からその存在を愛おしく思っていた。





     (真琴・・・・・さんと一緒に居る女の子?・・・・・あの子?)

     (ああ 学校に来れるようになったんだ)

     ばたばたと小走りで階段の上からふたりの姿を見つけた糸。
     良かったなと、ひとり勝手に安堵して立ち去ろうとしたその目に、
     隆世の肩に優しく手をかける真琴の姿が飛び込んで来た。

     先輩が後輩の肩を抱くという、何のことは無い光景だった。


     そんな何の変哲も無い光景を受け入れた途端、
     金縛りに遭ったように動けなくなった糸の目から、はらはらと涙がこぼれた。


     ――――― なんで?

     ――――― あたしは なんで泣いてるんだ?


     自分の感情が理解できないまま、糸の目からはぼろぼろと大粒の涙が溢れた。

     真琴があの少女に触れたのを見ただけなのに、胸が熱く痛い。

     ただ訳も解らず胸の奥が熱く熱く痛い。



     ――――― あたしは 悲しいのか ―――?


     そう思った次の瞬間に、激しい頭痛も糸に襲いかかった。

     糸は溢れる涙を止められないまま立ちすくむと、
     流れ出る涙を受け止める胸を覆う男のものシャツを握り締めて、
     口を開くと溢れ出そうになる嗚咽と、締め付けるような体中の痛みを必死に堪えていた。







     ――――― オレが欲しいの こっちだから ―――――















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     ===空白のとき===[6]===


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     ===空白のとき===[7]=== へ、まだ続きます。長いなあ。


     いつしかまこりんをいじめる話みたいになってます。
     私の根底には、真琴さんを愛する心と、真くんを憎む心が同居していますから。
     真くんが卒業式の日に糸さんちに挨拶に行かなかったことを、根に持ってます。年寄りはしつこいです。
     なんてね(笑)

     この話を読んでくださっている方は勿論、
     続きを期待してくださっておられる方に感謝いたします。
     お声をかけていただけることで、たぶん、更新が予定よりかなり早いです(笑)。
     その分、誤字脱字があるかもですが、気付くと同時に修正しますのでお許しください。

     お付き合いありがとうございました。




     (2006.10.09)