===空白のとき===[5]===







     授業の前に、荒らされた部室をあらかた片付けた糸と真琴と与四郎の3人。
     午前中の授業を、その疲労に堪えてなんとか乗り越えて昼食を取っていると、真琴が口を開いた。

     「ねえ 自腹になるけど買い出しに行かない?」
     「買い出し?」
     「王子と王女の衣装は まだうちにあるから何とかなるわよ」
     「・・・・・そうだな」
     「なんとかしなきゃな」

     真琴の前向きな提案に、糸と与四郎は部長という責任も感じてか少し元気を取り戻していた。

     「じゃあ 4時に中庭で落ち合おう」

     待ち合わせに合意して昼食を終えると、与四郎が立ち上がった。
     「オレ もう少し男子部室で直してみるわ」
     「小道具って 全部壊されたのか?」
     「いや 使えるものもあると思うから それも調べとくな」
     「あたしも直せそうな衣装が無いか これから調べてみるよ」

     「真琴も手伝ってくれるだろ?」
     「ええ」

     いつの間にか「真琴」と呼んでくれるようになった糸。
     だが、今の糸が知っている真琴は転校生の天野真琴でしか無い。
     以前の糸と同じ声なのに何処か遠くで呼ばれているような気がして、真琴の胸の中心が小さく痛んだ。







     「マコトくん」

     放課後、部室へ急ぐ真琴は後ろから声をかけられた。

     「隆世ちゃん?」

     長い髪の小柄な可愛い女の子が、真琴の方へにっこり笑いながら歩いて来た。
     その気は無いとは言え、許婚として10歳の時からの付き合いである。
     その相手を邪険にできるような真琴では無い。

     「何か用?急いでるんだけど・・・・・」
     「部室が荒らされてたんですって? 大丈夫なの?」
     「ああ うん 大丈夫だよ」
     「何か私にできること あったら言ってね?」
     「・・・・・うん ありがとう」

     真琴の役に立ちたいという隆世の好意は本物だった。
     兄とは全く異なる隆世の真っ直ぐな視線と想いを跳ね除けられる程、真琴も強くは無かった。
     その証拠に、つい言葉遣いにも油断が表れ、気付かぬうちに真に戻ってしまっていた。



     「最低でも買わなきゃいけないもん確かめとかなきゃ・・・・・」
     糸がブツブツ言いながら廊下を歩いていると、ふと前の方に真琴の姿が見えた。

     (あれ?)
     前方の真琴は、見覚えのある女の子と一緒に居た。

     (あの女の子って真琴の知り合いだったんだ?)
     長い黒髪の小柄な女の子は、親しそうに真琴と話している。

     (・・・・・・!)
     真琴とその小柄な少女がふたりきりで楽しそうにしているのを見ただけなのに、
     しかも離れた所から眺めているだけなのに、糸の胸に針を刺したような痛みが走った。
     (・・・・・・?)
     その痛みの意味もわからないまま、遠くのふたりを見る目が急に潤んで霞んで来たことに気付く。
     だいぶ疲れているんだなーと、瞼を擦って顔を上げ、もう一度ふたりの方を見やった。



     真琴がふっと隆世から目線を上げると、少し向こうの階段の下で糸が手を振っていた。

     その仕草は、見紛うこと無く、仲の良い友達に遠くから挨拶をする仕草に違いなかった。

     真琴と、きっと隆世にも挨拶代わりにと手をひらひらと振ってから、糸は小気味良く階段を上って行った。

     隆世とふたりきりで話しているのに、笑顔で去って行った糸の姿が真琴の胸を締め付けた。
     以前の糸なら、隆世とふたりで居るところを見ただけで、
     本人だけは気付いていない嫉妬のオーラを醸し出してくれていたのに。
     そんな糸の想いがとても嬉しくて大切で貴重だったのに。

     黙って糸を見送る真琴の悲し気な横顔を、負けないくらい切な気に隆世が見上げていた。





     飯塚隆士は妹の隆世を溺愛している。

     それは、隆世が病弱であったため、自分が守ってやらなければという父性愛にも似た感情だったのであろう。
     だが、それはいつしか妹の幸せこそが自分の幸せであるという錯覚を生んでしまうほどに強かったのだろう。

     9歳の時に出会った許婚に、可愛い妹はすぐに心を奪われてしまい、
     彼とずっと一緒に居ることが当たり前だと幼心で信じてしまったのだ。
     その彼は、いきなりそんな一途な妹を見限って、転校し、家までも継がない為に父親との賭けに出た。
     勿論、彼の受けた賭けは隆士にも隆世にも信じられない内容であった。

     突然の許婚の変貌に驚き塞ぎこむ妹に、兄としてしてやれること。
     彼を隆世の前に連れ戻して、これまで通りにふたりで一緒に過ごし年を重ねること。
     これこそが、兄である隆士にしてやれる最高で最大の妹への愛の証しであったのだ。

     その為に手段を選ばないだけの人脈と金脈を持っていた隆士は、
     まずは桜校から演劇部を無くして、マコトを転校させるという強硬手段に出た。

     三浦糸という、校内で自分達以外にマコトの事情を知ってしまった存在も邪魔だったが、
     都合の良いことに、自分の策が功を奏して、今はマコトのことを綺麗さっぱり忘れてしまってくれている。

     これで、目の上のこぶだった三浦糸という女に邪魔されることなく演劇部を潰した上に、
     あわよくば、三浦糸に忘れられたショックでマコトは全てを諦めて鳴西校に戻って来るかもしれないのだ。

     ――――― これも全て隆世が幸せになるためだ。

     隆士の言動と行動の全てが、妹である隆世を愛しての素直で純真な絶対の行為であった。










     焼かれた焦げ臭い衣装を、一枚一枚広げては損傷の具合を調べていた糸が、
     ふと部室の時計に目をやると、午後4時を少し回っていた。

     「やばい 遅れちゃってる・・・・・・」

     糸は慌てて身の回りを適当に片付けると、中庭に駆け込んだ。

     約束の時間は4時。

     真琴は何か用があったのか、放課後の部室には現れなかった。
     クラスの違う糸には、真琴の動向を知る由も無い。

     だが、約束の中庭には、真琴の姿は無かった。

     ( あれ? )

     絶対に遅刻して叱られると覚悟して走って来た糸は、辺りを見回して拍子抜けしてしまった。

     与四郎は、
     「もう少し直せるものありそうだから このままやらせてくれ」
     と修理に集中していたので、無理にそれを止めずに糸だけが待ち合わせ場所にやって来た。

     ( ? ・・・・・おっかしいな? )

     真琴のことをよく知らない糸ではあったが、約束を破るような人柄ではないことは理解していた。
     まして、自分から言い出した約束と時間を平気で破るとは思えない。

     放課後、部室に向かう途中の廊下で真琴の姿を見た糸は、その姿を思い出し何故かしばし胸が痛んだが、
     真琴が今も校内に居ることに、僅かな疑念も抱いていなかった。
     

     ( もうちょっと待ってみよう・・・・・ )

     糸は軽い気持ちで、中庭の芝生に腰を下ろした。










     「あ? 何やってんだ? 三浦ぁ?」

     与四郎の声にはっと我に返った糸は、いつの間にかうたた寝していたことに気付いた。

     「え? あ? 与四郎?」

     なかなか覚醒しない頭をフルに回転させて、声の主を認識する。

     「もう買い出しに行って来たのか? 真琴さんは?」

      ――――― ・・・・・・!

      ――――― そうだ!あたしは真琴を待っていたんだっけ!

     うつつから現実に戻った糸に、言い知れない怒りが込み上げる。

     真琴は来なかったのだ。
     その事実が、糸の心に芽ばえ始めていた真琴へのささやかな信頼感をかき消そうとしていた。
     糸の只ならぬ様子に、何かを察した与四郎は優しく声をかける。

     「オレの方も一段落したから 今日はもう帰ろうぜ?」

     糸は、何も訊かない与四郎の誘いに、どうしようも無い怒りを抑えながら重い腰を上げると、
     すっかり陽が傾き落ちてしまったいつもの道を、家に向かって歩き始めた。





     むっつりと声を出さずに家路を歩き続ける糸に、与四郎が話し掛ける。

     「さっき 部室に伊藤先生が来てさ」
     「・・・・・ん?」
     「時先輩が 大学で使ってる衣装とか貸してくれるってよ」
     「時ちゃんが?」

     時は、糸と与四郎の2年先輩で現在は大学生であるが、演劇部にとっての存在感は在学中と変わらず大きかった。
     見た目が長身にツリ目という風貌に加えて、周りの誰の意見も聞かないという態度が、部員達の恐れを買っていたのだ。
     だが、それ以上に実力のある頼れる先輩として、皆が尊び慕っていたのも事実であった。

     与四郎は、時の横柄な態度に臆していることもあったが、訳隔てなく部員に接する時を先輩として認めていたので、
     今回の助っ人として時の名が出たことに安堵していた。

     糸も、時を頼れる先輩として見て来たので、その助けを得られることに安心していた。
     ただ、時の糸に対する優しさが後輩に接する以上のものであることを、糸だけが微塵も感じ取ってはいなかった。

     「そっか 時ちゃんが来てくれるのか・・・・・・」

     笑顔の戻りかけた糸に、笑いながら与四郎がたたみかける。

     「また イチからやり直そうぜ」
     「そうだな!」





     ――――― 糸さんには 警戒心が足りない ―――――















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     ===空白のとき===[5]===


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     ===空白のとき===[6]=== へ、まだまだ続きます。

      










     (2006.09.30)