===空白のとき===[4]===







     ――― 糸さんがいるから もう戻れない ―――――





     ―――  だれ ? ―――





     「糸さん? 大丈夫?」


     突然の頭痛が治まるのを待って顔を上げると、心配そうな真琴の顔が目に入った。
     糸を見つめる綺麗な瞳が少し潤んでいる。

     「うん 大丈夫」

     「ありがと 真琴さん」

     激しい頭痛を耐えた糸は、ゆっくり笑うと、支えてくれていた真琴の腕を押し戻した。
     その行為には何の躊躇いも見えない。

     「糸さん 大丈夫?」
     「少し休憩した方がいいわ」

     周りの声に逆らわず、糸は真琴を残し、ひとりでステージを降りて行った。
     その後ろ姿を見送りながら、自分を全く頼ってくれない糸に叫びたい程の悲しみを感じる。
     ―――オレにくらいは頼ってよ?―――
     どくどくと早く熱くなる鼓動に反して、心は冷たく凍って行くような気がした。
     よろけた糸を抱きとめた時のぬくもりすら、真琴には愛しくてたまらない。
     だが、その僅かな時間に与えられたぬくもりは、あっという間に真琴の手から飛び去ってしまっていた。



     糸に去られた真琴の脳裏に、かつての、真琴を庇う頼もしい糸の姿が甦る。

     飯塚隆士に卑劣な中傷を浴びた時、笑顔で返すしかなかった女装姿の自分を、
     「間違えるな!お前だって部外者だ!」
     糸の真っ直ぐなこの一言が守り抜いてくれたのだ。
     真琴はこの時初めて、これまでとは違う糸への想いを体と心に刻み込んだのかもしれなかった。




          ――――― 糸さんが居ないこの場所。

     糸が側に居てくれないのなら、自分がこの場に居る意味は無い。
     この先、糸が記憶を取り戻してくれる保証も無い。
     真琴との関わりの一切を忘れてしまった糸が、
     失った僅かな期間の記憶を修復したいと思わないのも当然だった。
     真琴と出会う前の生活に戻ってしまった糸には、真琴との経緯を思い出す必要が無いのだから。

     糸の中で無にされた存在の真琴は、今の自分の居場所を見失いつつあった。
     他の学校に移っても演劇は続けられるのだし、真琴の演技力ならば何処でも容易に受け入れてくれるだろう。

     他の学校で、ひとり、厳しい条件を乗り越えて高校卒業できるのか?
     誰にもバレずに女として味方も持たずに、あと1年以上も学校生活を続けられるのか?

     桜校に転入して来た頃の真琴であれば、胸を張って返答したであろう。
     だが、その頃のようなひとりで乗り越える自信は全く無くなっていた。

     校内で唯一の、最大で最高の理解者で味方だった糸を失ってしまった今、
     たった独りになってしまった孤独感や喪失感や不安感が、真琴の気持ちを大きく占拠し始めていた。

     不安に覆い尽くされそうになりながらも、糸を諦められない真琴は、
     今の糸を自分に向ける手段を考えることに没頭した。

     糸の中に、もう自分への想い消えてしまったのだろうか?

          ――――― そんな筈はない!

          ――――― 必ず思い出してくれる!

     真琴の中の葛藤が続く程に、空しい時間を食い潰していた。












     「三浦糸は お前を覚えていなかったかい?」
     「ええ お兄さま」

     女の子らしい家具や小物が品良く飾られた部屋で、
     何かを企んでいるような様子には全く気付かずに兄の問い掛けに答える小柄な長い髪の少女。

     「三浦さん 私のことをきょとんとして見ていたわ」
     「そうか」

     兄は大切な妹に気付かれないよう、腹の中でにやりと笑う。

     「隆世 マコトくんを取り戻せるぞ」

     自信満々の兄からの言葉に、少し考えてから白い顔の少女が答えた。

     「でも お兄さま 私 マコトくんの夢も応援したいの・・・・」

     予想しなかった妹の返事に驚きながら、いつものようにぎゅっと抱き締める。

     「・・・・・お前は本当に優しいね」

     そう言うと、妹を抱き締めたままで少し考えてから、

     「今 お前がマコトくんの味方になれば 彼の理解者はお前だけだよ?」
 
           ―――――そうしよう

     「隆世 マコトくんを応援しておあげ?」
     「ええ! お兄さま!」

     自分に優しい兄が、一体何を企んでいるのか懸念することもなく、
     隆世は満面の笑みで兄の提案に素直に従った。

          ―――――マコトくん あなたには私がついてるわ


     兄に言われたせいだけでは無かった。
     隆世は、親同士の決めた許婚として出会った随分前の頃から、マコトを真剣に慕っていたのだ。












     「キャーッ」

     朝、最初に部室に入った少女が叫んだ。

     「どうした?」
     「なにこれ・・・っ」
     「どうして―――・・・!」

     次々と声に驚いて部室に駆け込む他の部員達も、信じられない光景を目にした。

     部室はロッカーをこじ開けられた上に中をぐちゃぐちゃに引っ掻き回され、
     壁一面はおろか床や天井に至るまで、スプレーやペンキで日頃目にも耳にもしないような罵詈雑言が書き殴られていた。

     「・・・・!・・・・」
     「糸さん! ガラスっ!」
     割れた窓に向かって突進した糸を、間一髪で真琴が後ろから腕を掴んで引き止めた。

     「危ないよ? どうし・・・・・」

     言い切る前に、真琴の目にも糸が窓の下に見ているものが映った。
   
     窓の下では勧誘会で着る筈の衣装が燃やされ、ぶすぶすと黒い煙を上げている。
  


     「・・・・・部室あらしだ」

     誰かが声無く呟いた。



     あろうことか、演劇部だけが襲われていた。










     「・・・・・とにかく 建て直そう」

     衣装はおろか部費も何もかも無くしてしまった演劇部の部員達は、ショックから立ち直れずにいる。
     泣きじゃくる者、放心する者。
     当然、振り絞った糸からの提案の声は彼らには届かない。

     「今日 オレ練習パス」
     「オレも」
     「ごめん 明日 出るから」

     部員達はそれぞれに叫びたくなる程の衝撃を胸の中に隠したまま、その場を離れた。
     荒らされた部室の前には、糸と真琴、そして与四郎が残された。

     「まずは 片付けましょう」

     真琴の静かで最も的確な案に、糸と与四郎もすぐに従った。
     黙々と掃除をしていると、顧問の伊藤先生が手伝いに加わり雑巾を搾った。

     「・・・・・先生が助っ人捜してみるから」

     一緒に壁や床を磨きながら力強く言ってくれる言葉だったが、
     数分前に、余りにもひどい惨状を見てしまった糸と与四郎には希望のかけらすら感じられなかった。
     糸と与四郎は、部長としての責務を果たそうとするのに精一杯だったのかもしれない。

     だが、真琴だけは、藁をも掴む思いでその言葉に小さな希望を繋いでいた。





     ―――――オレの居場所はここだから―――――















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     ===空白のとき===[4]===


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     お付き合いありがとうございました。


     ===空白のとき===[5]=== へ、まだまだ続く予定です。

      










     (2006.09.24)