===空白のとき===[3]===







     目の前にかざした白い二本の腕が、天井のこちら側に見える。
     帰宅するなり寝室に倒れこんだ真琴は、思わず天に向けてかざした両手を見つめた。

     白く細い・・・・けれども、何処か女になりきれていない、そんな自分の手をじっと見つめる。


     ――――― あたし 覚えてなくてごめんな
     ――――― 糸さんのせいじゃないよ 気にしないで

     申し訳なさそうに謝る糸に笑顔で振り返って交わした言葉を思い出す。
     この手の中にあった筈の糸の心が、突然にするりと消えてしまったのだ。

     糸と特別な約束など交わしてはいない。
     だが、真琴には糸と深いところで繋がっている、いや、繋がりつつある自信があった。

     ・・・・・オレのせいだから

        オレのせいで、オレに関わったから、あんな危ない目に遭って、しなくてもいい怪我をしたんだから

        糸さんに守られてばかりいたのに、守りきれなかったから、だからオレのことを忘れてしまったのか?

        これはオレに与えられた罰なんだろうか?

     気を緩めると、無力感と罪悪感で真琴の心が暗闇に覆われる。

        このまま思い出してくれなかったら、糸さんを諦める?

     そう考えただけで、真琴の背中には冷たいものが流れて息が止まった。
     彼女の代わりなんて、誰も何処にも居ないのに?

        でも、糸さんがオレのことを思い出したくないのだとしたら?

     それでも糸を手放すという選択肢は、真琴の中には残らなかった。

        もう一度、この手に糸さんが戻って来てくれるなら、今度こそ守り抜こう。


     糸が自分の傍らに居ないことが、こんなにも寂しくて辛いとは、真琴には想像も出来なかった。

     独りで堅苦しい家や実父と戦い続ける難しさと苦しさを、
     どんなに力強く緩和してくれていたのか、糸という自分の中での存在位置を改めて痛感していた。

     ベッドに横たわり、天井を眺めながら考えあぐねる。

     糸の関心をどうやったら自分に向けられるのだろうか?

     真琴の孤独な思案は果てしなく続く。


     ・・・・・もしかして 糸さんはオレを忘れたかったのか?

     小さな氷の塊にも似た冷たく鋭い考えが、真琴の背中と心を同時に走り抜けた。

     糸に忘れられてしまう程度の存在だったのか?
     そんな推測をしてしまうくらいに、真琴の精神は追い詰められていた。







     白鳥の湖は、新入部員を確保するための、新入生歓迎会で公開する演目である。
     どの部活も同様に学校側から厳しい条件を与えられ、
     部の存続をかけて新入生の獲得に躍起になっていたのだ。

     当然のことながら、糸には何のことかさっぱり解っていなかったが、
     皆の必死の説明で、やっと事態を多少飲み込めたらしく練習にも気合いが入っていた。



     「三浦さん」

     部活の合い間にトイレに行った帰り、廊下ですれ違った女の子に声をかけられた。

     「・・・・・はい?」
 
     長い髪の小柄な可愛い女の子だった。

     「・・・・・本当なのね?記憶が無いって・・・・・」

     「・・・・・あたしの知り合いなのか?」

     (彼女のことは誰も教えてくれてないぞ?誰なんだ?あたしの友達なのか?)

     不審そうに少女を見つめる糸を嘲笑うかのように、不敵な微笑を浮かべた少女が語り出した。

     「お兄さまの言ったとおりだったわけ」

     (・・・・・お兄さま?)

     「あなたがマコトくんのことを忘れてしまったって 本当だったのね」

     (・・・・・マコトくん・・・・って誰だ?)

     「このまま思い出さないでいてね 彼は私の婚約者なんだから邪魔をしないで」

     そう言い放つと、少女はさらさらと長い髪をなびかせ踵を返して立ち去って行った。

     (・・・・・彼?・・・・・婚約者?)

     立ちすくむ糸には、何の話をされたのか皆目検討がつかなかった。
     ただ、小さな少女の勝ち誇ったような後ろ姿を見送るだけだった。



     「新入生が5人入らないと廃部なのか?」
     「そうよ だからみんな必死なの」
     「そっかー」

     5人以下で廃部。演劇部がこの学校から無くなる。
     将来の夢をアクション女優と決めている糸にとっても、都合が悪いことには違いない。

     ・・・・・廃部・・・・・

     その言葉の奥に、もっと深く重大な意味が隠されているような気がしたが、
     今の糸には探求する必要性も感じられなかった。







     演劇部は新入部員5人以下で廃部となり、
     父親との条件に合わなくなる為に、真琴は転校を余儀なくされる。

     だからこそ、この新入生勧誘会に大きな望みをかけていた糸と真琴だったのだが、
     その片割れの糸は何もかもを忘れてしまっている。

     演劇部を無くしたくないが故に帆走する糸の姿を見ている真琴は、
     同じ目的を持って動いている訳ではないその姿に、胸を締め付けられる。
     行動は同じであっても、ふたりの目的は異なっている。
     しかも、その事実を知っているのは、今や真琴ひとりだけなのだ。

     たまたま転入した桜校で糸に出会い、秘密を分かち合うこととなり、心を通わせるようになった。
     今や、真琴にとって何処の演劇部も、桜校の演劇部以外は意味の無いものとなっていた。


     ・・・・・独りでも平気だった筈なのに・・・・・。
     焦っても糸の記憶を取り戻す手段はおいそれとは見つからない。
     何よりも当の糸に、欠けた記憶を取り戻すことに執着していない空気が、
     真琴の心を気付かぬうちに次第に静かに弱らせていた。







     「この世でふたりの愛が叶えられないのなら 誰にも邪魔されない世界へ行こう」

     体育館のステージでの通し稽古中、当然、同じ体育館で他の部活も行われている。

     「糸さん あぶない!」
     「よけてー!」

     ステージの周りから声が飛んだと同時に、糸を狙うようにボールが勢いよく飛んで来た。

     ずば抜けた反射神経を持つ糸も、演技に集中していたために反応が遅れた。
     当たらないように避けるのが精一杯で、バランスを崩す。

     「だいじょうぶ?」
     向かいに居た真琴がとっさに糸を抱きとめた。

     「・・・・・うん ありがと」
     糸の両脇を抱える、細く力強い腕。

     「・・・・・? 何か言ったか?」
     糸が問い掛けた。

     「・・・・・? え? なにも?」
     「そっか・・・・・ 」

     「もう大丈夫だから・・・・・」


     ――もう戻れない―――


     「・・・!・・・」

     ずきずきと頭が締め付けられる。

     「・・・くっ・・・・・」
     「どうしたの? 糸さん?」

     頭を抑えて急な痛みを堪える糸を、真琴は遠慮勝ちにそっと抱き寄せる。
     その真琴の行為こそが、糸の痛みを強くする要因になっていることを、真琴には知る由も無かった。


     ―――糸さんがいるから もう戻れない―――――















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     ===空白のとき===[3]===


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     お付き合いありがとうございました。

     ===空白のとき===[4]=== へ、まだまだ続く予定です。

      ↑今回の創作過程。まこりん視点でお送りしております。










     (2006.09.02)