===空白のとき===[28]===







     「おまえっ 転校なんかしないって言ったじゃないかっ!」


     真琴は答えない。


     「なんとか言えよっ!」


     「……転校は しない……わ」


     搾り出すように真琴が答える。


     「じゃあ それは何だよっ!?」

     「何の話をしてたんだよっ!?」


     糸が真琴の正体も、隆世との関係を茜から知らされていることを、真琴は知らないのだ。
     当然のように憤る糸にどう説明するのが最善なのかを、見つける術も持たなかった。

     糸には、これほどに大きな自分の怒りの意味もわかってはいなかった。
     ただ、真琴に嘘をつかれたかもしれない疑念と、
     真琴が離れて行くかもしれないという不安で、自分を見失いかけていた。





     「ふざけないで欲しいのは 君の方だよ」


     いきり立つ糸の頭の上から声が聞こえた。


     「君が余計なことを言って マコトくんを問い詰める資格は無いよ」


     「なに? 何を言ってるんだ? 資格? あたしに資格?」


     糸のアタマに激痛が走った。
     期せぬ強い頭痛に顔をしかめて、急によろけた糸を真琴が支えようとする。


     「……さわるな」


     痛みに耐えながら、糸は険しい声と表情で真琴をはらいのけた。


     「糸さん?」


     真琴の助けを断った糸は、
     隆士の方を見上げてキッと視線を向けたが、強烈な頭痛のせいで思うように言葉が出ない。


     「もう 君は マコトくんにも僕達にも関わらないでくれないかな」

     「!?」

     「わからないかな」
 
     「居なくなってくれないか って言ってるんだよ」



     糸の頭の上で冷ややかに笑う隆士の姿に反応するかのように、糸の頭痛は更に重くなる。
     だが、その痛みは、当人である糸にしか知り得ない。
     糸の我慢を思い量ることも無く、隆士は淡々と話を続けた。


     「マコトくんも素直に転校してくれないとね」


     隆士が静かに右手を上げると、糸と真琴に向かって、勢いよく何か鋭いモノが何本も飛んで来た。

     糸と真琴は持ち前の反射神経で交わしたが、飛んで来た方には、
     隆士のボディーガードである黒服が数人、壁に隠れてふたりを狙っているのが見えた。

     「何をするつもりですか?」

     真琴が冷静さを保って隆士に問いかけた。


     「君たちに ちょっと 大人しく言うことをきいてもらうだけだよ」


     隆士が答えるのと同時に、糸と真琴に向かって更に鋭い凶器が放たれる。



     「やめて おにいさまっ!

     「隆世?」

     「隆世ちゃんっ!」


     糸と自分を守るのに集中していた真琴は、自分を庇おうと戻って来た隆世への反応が遅れた。


     「あぶないっ!」


     真琴を狙った凶器のひとつを、体で受けそうになった隆世を糸が抱き伏せた。
     次の瞬間、隆世を庇った糸がバランスを崩して、隆世を抱かかえたまま踊り場から階段を転げ落ちた。


     「糸さんっ!」

     「隆世っ!」


     放課後で、それぞれの目的地に向かってバラバラに動いていた生徒達も、
     ただ事ではない空気を察したのか、少しずつ階段周りに集まっていたらしかった。
     予期せぬ現状に、誰もが声を発し息を殺した。


     大勢の目の中で、まるでゆっくりとした動画のように、糸が隆世を抱えて階段を転がり落ちて行った。


     隆世を抱えた糸が、階段の下に辿りついた時に、やっと皆が事態を把握した。


     「きゃー!」
     「大丈夫かっ!?」
     「糸さんっ 立てるっ!?」
     「先生 呼んでっ!」















          糸が 落ちた


          真琴の目の前で


          体で空を切って


          糸が 落ちた









     糸が転がり落ちる様子がゆっくりに見えたのは、もしかしたら、この世で真琴ひとりだけだったのかもしれない。









     「糸さんっっっ!」

     「きゃー」

     「糸さんっ!」

     「みうらっ!」

     「大丈夫かっ!?」



     眼下の階段下に横たわる糸と隆世。
     ふたりに群がる生徒達。


     上から見下ろす隆士と真琴が現実に戻るまでには、どれほどの時間がかかったのか。



     「糸さんっっっ!」
     「隆世っっっ!

 

     真琴と隆士が、今更のように慌てて階段を駆け下りて行った。















          全身から感じる痛みの向こうから、聞き慣れた声で呼ばれている。





                ――――― だれだ?























     「おそらく 打撲だけらしいって」


     「少し様子をみましょう」


     伊藤先生の言葉に安心した部員達は、糸が眠る保健室のベッドを見守っていた。
     勿論、真琴も無言でその中に混じっていた。

     糸が抱かかえていたお陰で、隆世に怪我は無いようだったが、
     隆士がかかりつけの医者に即行で連れて行ってしまっていた。



     「………ん」

     「あ? 気がついた?」

     「うん?」

     「糸さん? 大丈夫?」

     「あ? 美咲? ……うん あたし?」

     「階段から落ちたのよ 糸くん アタマとか痛くない?」

     伊藤先生の問い掛けに糸が答える。

     「……はい すいません こんな時に」

     「?」

     「こんな時って?」

     「新入生勧誘会 もうすぐなのに」

     「…………」



     糸を見守る誰に中にも、同じ疑問が噴き出した。



     「…… 糸くん 今日は何日?」



     「え? ◇月◇日…… じゃなかったでしたっけ?」








     糸の答えに、誰も、何も、それ以上を問えなくなってしまっていた。















     




     「あたし 本当に何も覚えてなかったのか?」

     「そうだよ」

     「う〜〜ん 全然覚えてないや」

     「そういうものなのかな」

     「あたし もしかしてまた何かやったのか?」

     「ううん 糸さんは糸さんだったよ」

     「なんだ それ」



     いつもの海沿いの道を、糸と真琴はふたり並んで歩いていた。
     真琴にとっては、もう二度とこんな機会は無いのかもしれないと諦めかけたこともあったのに。
     絶え間なく聞こえる波の音と潮の香りすら、真には懐かしい。

     糸は、記憶を取り戻したのと引き換えに、記憶を無くしていた期間のことを失ってしまっていた。

     出会った頃からの真琴のことも思い出して、元通りになったように見えた。

     だが、真琴が転校を本気で考えた葛藤も事実であり、
     その葛藤を癒そうとしてくれた隆世の想いもまた事実である。

     それでも、真琴は屈託無く自分の隣で笑いはしゃぐ糸を取り戻せたことが嬉しかった。
     糸から離れようかと考えた自分を、情けなさに自戒してしまったほどに。

     父親との賭け、
     婚約者である隆世との関係、
     真琴の前に積まれた問題は、何ひとつ解決していなかったが、
     また、糸と一緒に未来に向かって歩いて行けることが、本当に嬉しかった。






          ――――― 「 まちがえるな!!」



                    ――――― 「 決めるのは真琴だ! 」







     記憶を無くしていながらも、自分のためにそう言ってくれた糸に、
     真琴は限りない愛を注ぎ続けて行こうと心に誓う。












     「じゃあ また明日な まこ!」



     そう言って、糸が手を振りながら走り去って行く。

     自分だけに向けられたその笑顔を、永遠に見続けていたい、と、手を振り返しながら真は思った。
























     *****************************


     ===空白のとき 完===


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     << あとがき >>


     軽い気持ちで、頂いたリクエストにあおられて書いた話が、
     
     思いがけず、馬鹿みたいに長く続いてしまいました。

     最後までお付き合いくださって、本当にありがとうございました。



     なお、【エピローグ】は、裏の世界へと繋がっておりますので、許せる方のみ、どうぞご覧下さい。



     (2008.02.08)