===空白のとき===[27]===







     ――――― ……隆世ちゃんが探してくれたの?

     ――――― ええ
  
     ――――― お兄さまには内緒だから



     ここまで今の自分に親身になってくれる隆世に気付いていながらも、真琴は心を閉じていた。

     いや、隆世の一途な想いに気付いていながらも、背を向けていた後ろめたさは大きすぎる。


          隆世に何と話したらいいのだろう

          隆世に何と断ったらいいのだろう


     糸の傍に居たいという、
     たとえ記憶が戻らなくても糸を守っていたいという、
     自分の気持ちに一つの答えを出した真琴は、星が瞬き出した夜空を見ながら歩いていた。



     糸とは、さっきの小路で別れた。

     糸には、転校はしないという本心を見せたばかりである。

     それでも、自分を一途に慕ってくれる隆世を切り捨てられない自分に苛立ちすら覚えていた。




          ――――― オレは



          ――――― 最低だ




     そんな自分を責めても責めきれない胸の痛みは、何度手に取っても指をすり抜ける乾いた砂のように、
     繰り返し現れる度にもろく静かに消え去って行った。









     ――――― 「糸さん!真琴さん転校するってホント??」

     ――――― 「真琴さん どっか行っちゃうの??」

     ――――― 「あの1年生って 真琴さんの何なの??」



     ―――――――― まこは転校なんてしねーよっ!

     ―――――――― まこは何処にもいかねーよっ!

     ―――――――― あの1年生はまこの許婚だよっ!


     真琴と別れてひとり家路に着いた糸は、
     校内で浴びせられた質問の数々を思い出しては、
     あの時に何も答えられなかった問いのひとつひとつに、心の中でポツリポツリと答えてみる。

     その回答のひとつひとつに、糸自身へ言い聞かせるかのような願いを込めて。

     その中での最後の質問。


     ――――― 「あの1年生って 真琴さんの何なの??」

     ―――――――― あの1年生はまこの許婚だよっ!


     真琴のことを、実は男だと知らない誰にとっても不可解な、糸からの返答であった。

     隆世のことを、「真琴の許婚だ」と心の中で答えた途端、
     糸の中で、何かの感情が制御されなくなったのか。

     俯いた途端、足元に小さな水滴が落ちた。
     それがどんなに深い意味を持っているのかを照らす筈の月明かりは雲に隠れて、
     糸だけにしか、その事実は知られないものになっていた。









     「隆世は帰っているのか!?」

     けたたましく響く若い家主の声に、

     「はい お帰りでございます」


     隆士を出迎えた数人の中の、女中頭らしい女性が答えた。
     隆士がづかづかと居間のドアを乱暴に開けて入ると、
     隆世は気分よさそうに、居間の大きなソファに座ってお茶を飲んでいた。


     「おにいさま おかえりなさい」

     いつもと変わらない隆世の笑顔での迎えを無視して、隆士が詰め寄る。

     「マコトくんと一緒に転校するって?」

     「ボクは聞いてないぞ!?」

     隆世の笑顔が、すうっと真顔に変わった。







     「どういうことなんだっ!?」

     大切な妹が自分に何の相談も無く、勝手な行動をした。
     それだけで隆士の何かが壊れかけていた。

     どんなに自分を第一に考えていてくれたか知れない兄に向かって、
     それでも揺るがない強い決意を眼と声に宿して、隆世が隆士に話した。

     「わたし マコトくんの行く学校へ一緒に行くわ」

     隆士の何かが崩れかけた。

     「…それは…隆世…」

     「ボクも一緒に行かなくちゃダメだろう?」


     隆士がいつもと同じように深く優しい笑顔で、すがるように問い掛けた。


     隆世は少し考えてから、静かに首を横に振った。


     「ううん お兄さまはもう来なくていいの」



     思いもかけない隆世の言葉に、隆士の何かが崩れた。


           ボク達のもとにマコトくんを連れ戻す……それが隆世のためなんだ

 
           どうして、ボクがそこに居ないんだい?隆世 ?

           お前がそんなことを言う筈が無いよね?隆世 ?

           誰だい お前にそんな思ってもいない馬鹿なことを言わせているのは ?

           ボクにはわかっているよ。

           いらないのは あいつだね?

           やっぱりどこまでもボクの邪魔をするのは あいつなんだね?

           お前は何も心配しなくていいんだよ 隆世



     この時、自分に向けられた隆士の笑顔の意味を、隆世は微塵も理解してはいなかった。
     勿論、理解できる筈も無かった。

     隆士の憎しみが、たったひとりの存在へ向かい続けていることに、隆世には気付くことも出来なかった。


 
           あいつが マコトくんの前に現れなければ

           あいつさえ マコトくんの前に現れなければ

           あいつが ボク達とマコトくんの中に割り込んで来なければ

           あいつさえ マコトくんに近付かなければ


     良くも悪くも真っ直ぐな隆士の思考を止めることは、いつも誰にも出来なかった。
     いや、唯一の歯止めになれる筈だった妹の隆世が隆士の手を離しかけた今、
     隆士は味わったことのない孤独な戦いを強いられていたのかもしれなかった。




          ――――― あいつが 居なければ


            
                      ――――― あいつさえ 居なければ






     「おにいさま?」



     笑顔をたたえながら無言で青ざめてゆく隆士に、隆世が心配そうに声をかける。



     「ああ」


     「わかった じゃあボクは部屋に戻るから」


     「ええ ごめんなさい おにいさま」


     隆世の小さな謝罪の声は届かないまま、隆士は青白い顔で笑顔を保ちながら、居間から離れた。


     隆士の悲しみを越えた悲しみは、誰よりもわかって欲しい筈の隆世には届かない。
     いちばん近くに居た筈の、隆世にすら届かなかった。



















     「マコトくん」

     「隆世ちゃん」


     放課後、部室へ向かう真琴を待ち伏せしていた隆世が、階段の踊り場で呼び止めた。
     今日は最後まで授業を受けることができたのかと、体の弱い隆世を真琴は無意識で気遣う。
     そんな真琴の優しげ気な視線に照れるように視線を少し反らして、隆世が薄い冊子を差し出した。

     その光景は、まるで昨日の昼休みの再現フィルムのようでもあった。


     「あのね この学校も良いかもしれないと思って」


     隆世がその冊子を真琴に手渡した。

     断る理由を言い出せない真琴は、渡されるままに受け取った。


     「昨日渡したのと一緒に ゆっくり見てね」


     「あ ありがとう」


     この場ではこういう言葉が、きっと正しいのであろう。

     隆世がはにかみながら真琴に笑いかける。
     そして、いつもよりも強い口調で更に話を続けた。


     「わたしもマコトくんと一緒に転校するわ」


     「え?」


     容易に予測できたことであった。
     心のどこかで真琴には解っていた筈の言葉であった。

     それでも、直に声に出して言われることで、その真剣さと現実が重く圧し掛かる。

     返事をしない真琴から、賛同の意を得たと勝手に解釈した隆世は、
     嬉しそうに真琴の側を離れて行った。

     たった今、隆世が手渡して行った冊子をめくることも無く立ち尽くす真琴を、
     少し離れた階段の影から、糸が声も無く見つめていた。

     その鋭い視線に、気付かない真琴ではない。


     「糸さん?」

     転校しないって言ったよな?」

     「…………」

     「真琴?」


     即答しない真琴に糸の中にも、新たな疑念が生まれてしまっていた。


     「お前 あたしに嘘ついたのか?」

     「違うわ」

     「じゃあ それは何だよっ!?」

     「あの子の言ってたことは何だよっ!?」

     「……それは…」


     真琴の態度に対して、糸のアタマに血が上った。


     「おまえ ふざけんなっ!」


     糸が堪えきれなくなった涙を溢れさせながら、とうとう真琴を罵倒した。













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     ===空白のとき===[28]=== へ、続きます。









     (2008.02.08)