===空白のとき===[25]===







     「糸さん?」



     少し距離を置いて目の前で立ち止まった糸に、真琴が声をかける。

     振り返った顔に長い髪が触れるのが分かった。

     真は、いつもの習慣で、家を出る時に長いウィッグを身に付けていたらしい。

     男の姿のままで糸に声をかけられ、返事を返したりしていたら、
     一瞬のうちに、父親の見張りによって強制送還させられていたかもしれない。

     自分の悲しい程の冷静さに苦笑いを覚えながら、真琴は駆け寄って来る糸を見つめていた。





     「おう」

     糸が息を弾ませながら、真琴の呼び掛けに返事をしながら問い掛けた。

     「お前が部活休むなんておかしいじゃん?」
     

     糸はこうして無意識のうちに、
     真琴の総てを理解しているかのような言葉を吐く。

 
     それが真琴にはたまらなく嬉しくて耐え難い。



     「ちょっと用事があったから」


     真っ直ぐに自分を見据える糸から視線を反らして真琴は答えた。


     「何の用事?」


     変わらずまっすぐな視線を真琴に向けたまま、糸が尋ねる。


     「…… 糸さんには関係ないわ」


     糸から視線をずらして真琴が答える。


     ――――― 糸さんには関係ないわ


     真琴の言葉に糸の何かが弾ける。


     ――――― 関係ない?


     ――――― あたしには関係ない??


     ――――― 真琴にはあたしは関係ない??


     ――――― 真琴にはあたしは必要ない??





     ――――― じゃあ あたしには?





     糸の眼から涙が溢れた。
     それは糸自身にも予測が出来ない上に、流れる涙に自制も叶わないほどに激しく。





     ――――― どうしよう



     ――――― あたしはどうしたらいい





     糸は涙を流したまま、視線に捕らえた真琴を見据えたまま動けない。
     
     

     真琴も目を見開いたまま、涙を溢れさせ続ける糸から眼が離せない。



     「いと……さん?」



     真琴が意を決して糸に呼びかけた。
     その後の言葉は何も用意されていない。
     それでも、糸の名を呼ばずにはいられなかった。



     「まこ……」


     「あたし まこを守るから」


     「??」


     「あたし 今のまこを守るから」


     「だから どこにも行くな」





     「ここに居ろ」





     それは真琴が求めていた言葉だった。
     ずっとずっと糸に求めていた言葉でもありこの場に真琴を繋ぎ止める錆でもあった。


     目の前の糸は、自分との出会いから後を見失ってしまっている。
     その中で、飯塚隆士によって自分の正体を明かされてしまっている。
     そんな不安定な状態でも、自分に向けてこう言ってくれることを待っていたのかもしれない。
     いや、待ち続ける覚悟をしていたのかもしれない。


     だからこそ、自分との出会いも秘密も忘れている糸を信じたいと思いながらも、
     信じ切れない葛藤も真琴の中にはあったのだ。




     「…… 守るって?」


     涙を流しながら自分を守ると言う糸を、少し冷めた目で見ながら真琴が問いただす。


     「…… わかんないけど 守るから」


     糸が、頬を流れる涙をぐいっと腕で拭って真琴を見つめた。


     「あたしにもよくわかんないけど 守んなきゃいけないって思うから」





     ――――― 糸さんは 覚えているのか?

     ――――― 糸さんは オレのことを覚えているのか?

     ――――― 糸さんは オレのことを思い出してくれているのか?





     今の真琴には、そんなことはどうでも良かった。

     目の前に居る糸が、自分に、紛れも無く今の自分に向かって想いを告げてくれているのだ。

     その事実だけが、今の真琴を照らしてくれる糸の真実なのだ。


          糸は人に嘘をつけない。

          糸は人を陥れられない。

          糸は人への愛を惜しまない。


     糸が、いつでもどんな相手にも怯まずに、真っ直ぐに人と向き合うことを真琴は知っていた。
     いや、真琴だからこそ知っていた。


 
     ――――― 糸さんの傍から離れられない



     ――――― 糸さんの傍にいたい


 
     ――――― 糸さんを守りたい





     真琴は、走って来た上に泣きじゃくったために、
     いつまでも息の整わないでいる糸を静かに抱きしめた。



     「ありがとう 糸さん」


     「…… ま まこ?」



     思いがけない真琴からの抱擁に、糸の息が一瞬止まった。


     真琴の腕を振り払う理由も嫌悪感も無い。


     むしろ、自分を包む真琴の体温が懐かしく、


     肩に、背に、髪に触れる滑らかな真琴の指すら愛おしい。



     ――――― うわ どうしよう ―――――



     真琴に緩やかに大切に抱きしめられてしまっている糸は、
     感情のままに押し流されていた自分から我に返った。



     自分を求める真琴から伝わる空気の心地良さに何の抵抗もできずに、
     ふと自分を包み込む腕の元にある真琴の顔を見やった。


     綺麗で優しいのに何処か強い眼差しを帯びた真琴の顔を見ながら、
     糸の息が止まりそうになった。








     
          こんなことが前にもあった?
















                  ――――― ねえ 糸さん








                           ――――― わたしのそばに居てくれる?































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     ===空白のとき===[25]===


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     ===空白のとき===[26]=== へ、続きます。






     ちょっとずつですが、進んでますからっ!

     ここまでお付き合い頂いてありがとうございます!

     結末は出来ているので、
     
     そこまでの山を越えている途中です。

     そんな無謀な登山にも似た山脈越えですが、最後までどうぞよろしくお願いいたします。

     もう、嘘臭いかもしれませんが、完結を目指しておりますです!


     (2007.09.30)