===空白のとき===[24]===







     空は高かった。

     空は遠かった。

     学校から出た時に、不意に見上げた世界をそう感じた。

     それは、まるで今の自分と糸との距離を表しているかのようでもあった。



     この日、真琴は部活を休んで家路についていた。


     ――― ガチャ


     施錠されていた鍵を開けて、家に入る。
     まだ茜は来ていないようだった。


     ――― 転校したい


     どうしようもない不安定な感情のままで、茜にそう告げてしまった。
     あの時の自分の言動に後悔しても、時は戻らない。
     茜が本当に真実の自分の味方であることは真にも十分に分かっていた。
     だからこそ、茜には心配をかけたく無かったがその反面、心配もして欲しかった。

 
     「真?」

     茜が息を切らせてドアを開けた。

     「ごめんなさい 打ち合わせが長引いてしまって」

     茜の様子を見れば、どれほどに急いでここまで来てくれたのかが分かった。
     茜も自分の夢を追いかけて、今の仕事に全力を注いでいる。
     だからこそ、茜には自分のことで余計な気苦労をかけたくなかったのだが、
     こうまでして自分の元にやって来てくれることが、
     心底嬉しくてたまらなかった。

     「ありがとう 姉さん」

     「……?」

     弾んだ息を整えながら、いつもの柔らかい笑顔で茜が答える。
 
     「……まだ 何も言っていないわよ?」














     「おう いっこ」

     「時ちゃん」

     「今日は平気か?」
 
     「ああ うん あんがと」

     「おう」

     時は、なんとなく元気の無い様子の糸に手を振りながら、部長である与四郎の方へ向かって行った。
     今日も稽古をつけに来てくれているらしい。

     いつもと違う強引でない時の後ろ姿をぼんやりと見送りながらも、
     糸の頭の中は、姿の見えない真琴のことでいっぱいだった。


     ――― あいつが部活を休むなんて


     独りで床に座ってストレッチをしながら、糸は真琴が部活を休んだ理由を、
     今の糸に想像でき得る範囲で思い描いていた。
     だが、それは哀しいくらい狭い範囲での想像でしかなかった。













        ――― …… オレ 転校しようかと思うんだ ……


     あの真の言葉も声も温度も空気も、
     総てが茜の脳裏に焼きついてしまっていた。
     今でもその気持ちが変わっていないのか?
     茜は目の前に俯いて座る弟に向かって、自らの確信を得るために話し掛けた。


     「本当に転校したいの?」

     「…………」

     「糸さんが思い出してくれないから?」

     「…………」

     「だから 糸さんと離れたいの?」

     「…………」

     「じゃあ このまま糸さんに忘れられててもいいの?」
 
     「…………やだ」

     やっと聞こえた真の声に安堵する間も無く、茜が瞬時に問い詰める。

     「今のまま 糸さんと離れる?」

     「…………」

     「また だんまりなの?」

     「…………」

     「まこと?」



     こんなに自分の意思を表に出せない弟を見るのは、久しぶりだった。
     それは厳格な父の元で、反論を許されないという立場では止むを得ないという過去もあった。
     だが、今は真は自分の意志でこの生活を送っている。
     自分の意見や意志を言葉に出来ないのなら、あの父との賭けに勝てる筈も無い。



     「あきらめるの?」

     「…………」
  
     「糸さんが思い出してくれる未来を あきらめるの?」

     「…………姉さんは」
 
     「……?」

     真が顔を上げて、真っ直ぐに茜の顔を見つめた。
 
     「姉さんは 糸さんがオレのことを思い出してくれると思う?」

     「……!」
 


     ――――― そうか  そうだったんだ



     茜は、記憶の無い糸と接する真の不安の大きさが、初めて確かに分かったような気がした。
     茜は不安そうに自分を見つめる真の頬を両手で優しく包み込んだ。



     「だいじょうぶ」


     包み込んだ両頬から向けられる捨てられた子犬のような目をした真に、
     茜は静かに優しく力強く声を降らせた。


     「糸さんは いつでもあなたを本気で護ってくれていたでしょう?」

     「糸さんが あなたのことを忘れてしまったままでいる筈がないわ」


     ここまで弱り切っているとは思わなかった真を慰める意味も込められていたが、
     茜には糸が真を護ってくれるという、願望にも似た確信があった。

     だからこそ、今こそ、真が糸を護るべきだとも考えていた。


     「糸さんに思い出してもらうには 今 傍にいなくちゃいけないのよ?」

     「今は あなたが糸さんを護ってあげなきゃいけないのよ?」


     茜の言っている言葉も想いも真の中にすんなり染み透って来る。

     それでも、自分を思い出してくれないどころか、
     距離を置かれているような気がする状態に耐えることは苦しかった。


     今の自分の総て受け入れてくれるという隆世と一緒に方向転換すべきなのか、
     全く見えない糸の記憶が戻ると信じて歩む未来を選ぶべきなのか。





     真の葛藤に終わりは見えていなかった。














     茜が帰ってしまった後、茜を見送ったままの空を見ると、
     まだうっすらと夕日が残っているようだった。

     真は何の気なしに外へ向かって歩き出した。

     何の目的も持たずに。

     だが、独りであの部屋に閉じ込められることには耐えられない気がした。

     このまま独りでいたら、せっかく茜が与えてくれた未来への希望をも見失う気がした。


     目的も無しに歩いているうちに、見慣れた海が視界に広がって来た。



     ――― いつかふたりで昼の海に行こうって約束したっけ



     ほんの少しの過去の約束が、今の真には永遠にやって来ない約束のような気がしていた。









     どのくらい海を眺めていたのだろう?

     辺りは夕闇に包まれ始めていた。

     重たい腰を上げて、家に帰ろうと体の向きを変えた真に向かって、人影が近づいて来る。










     「まこ!」


     糸が駆け寄って来る。

     まるで、探していた迷子の飼い犬をやっと見つけた!とでも言うような不安と安堵を絡めた笑顔で、
     真っ直ぐこっちに、真に向かって走っていた。




















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     ===空白のとき===[24]===


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     ===空白のとき===[25]=== へ、続きます。






     あり得ない程のとろい歩みで進んでおります。

     お付き合いありがとうございます!

     いつかきっちり終わらせたいと思っておりますです。

     そんな果てない未来の最後まで、どうぞよろしくお願いいたします。



     (2007.09.07)