===空白のとき===[20]===







     ――――― 「真は男の子なの」


     ――――― 「自分から言えなかったことを 許してやってください」


     気を抜くと、深深と申し訳無さそうに頭を下げる茜の姿と一緒に思い出してしまう台詞。


     真琴は男だった。

     そして、その秘密を糸は知っていた。

     知っていた筈だった。

     だが、今の糸には出会っていた時からの真琴に関する記憶が無い。

     こんなに気になる真琴のことを知っていたという自分に会いたかった。

          糸の生きる世界に真琴がどうやって関わっていたのか?

          糸の感じる世界に真琴がどれくらい関わっていたのか?



     「糸さん?」

     「え?」

     「どうしたの? これからランニングよ?」

     「あ ああ」
 
     いつものように真琴とペアになってトレーニングを行っている間も、
     真琴と触れ合うことの恥ずかしさから、糸は意識を飛ばそうとしていることが多くなっていた。

     異性でありながら親友とも呼べる付き合いの与四郎に対する感情とは全く異なる思いが、
     真琴に触れる度に体の中を波打つのが苦しかった。

     そうして自分の気持ちを表に出さないようにすればするほど、真琴の顔を正視することができなってしまう。
     そのもどかしさに比例するように、糸の真琴への興味はどんどん膨らんで行くのだった。



     ――――― 「ふざけんな!」

     ――――― 「決めるのは真琴だ!」


     ――――― あれは夢じゃない。

     ――――― 本当に糸さんがオレを庇ってくれたんだ。

     ――――― あの時と同じように。

     ――――― もしかして、少しでもオレのことを思い出してくれたんだろうか?


     そんな淡い期待を真琴に抱かせた時から、糸の態度はよそよそしくなってしまった。

     真っ直ぐに顔を見て話をしてくれないことにも、真琴は薄々気付いていた。

     だが、どうして急にそんな態度を取られるのか、
     真琴には全く理解できない。

     茜の行動から、糸が本当の自分の姿を知って受け入れることに戸惑い困惑しているなどとは、
     想像もしていなかった。
     それ故に、数日前の飯塚隆士と糸の会話の意味も、
     真琴には何も解ってはいなかった。

     糸が見せてくれた過去と今を繋ぐかもしれないと思われた言動が、
     糸のつれない態度の影で幻覚に変わってしまうことを、真琴は必死に否定し続けていた。


     ――――― きっと思い出してくれるから


     真琴は、もう一度自分を奮い立たせるように唇を噛み締めると、
     糸の後に付いて、ランニングを始めた。















     ―――――――   コンコン

     夕陽が窓から差し込む頃、隆士の部屋は小さくドアをノックされた。



     「お兄さま」

     静かに、だが、何処か決意を秘めた強い声と共に隆世が隆士を見つめた。

     「なんだい?」

     いつものように優しい声で返事をすると同時に隆世に目を向けると、
     そこには、今まで見たこともないような険しい表情の隆世が立っていた。

     「これ なんなの?」

     くいっと差し出した細く折れそうな腕の先には、
     隆世に内緒で写したあの写真が、小鳥の足のように細い指でつままれていた。

     「そ それ」

     「どうしてこんな写真を撮ったの!?」

     隆世が、この写真を拾ったのは、同じ家に住む家族としての偶然だった。
     念入りに何枚も焼き増ししてあったうちの1枚が、
     その用意周到さ故に、どこかで零れ落ちて隆世の目に止まってしまったのだ。

     隆世は真のことが好きで好きでたまらなかった。
     勿論、親同士の決めた許婚として真の隣にいることが最高の幸せではあるが、
     真自身が自分の方を向いていてくれないことには、全くお話にならない。
     隆世は自分が真に向ける気持ちの100分の1でもいいから、
     自分に関心を持って欲しいと思い続けている。
     許婚として出会った時から、真への真っ直ぐな好意は、寸分も揺らぐどころか、
     体と心が成長するにつれて、純粋に大きく膨らみ続けているのだ。

     兄の隆士が、常に自分のために動いてくれていることは、心の底では解っている。
     だが、それによって真の未来が潰れてしまうことは、
     今の真の夢を追う姿をも受け入れるようになった隆世には、絶対に許せないことなのだ。

     真は今、【天野真琴】という異性として危うい日々を過ごしている。
     隆世は隆世なりに、真の挑戦を見守りながら助けていたいと本気で思っていた。

     そんな矢先、
     兄の部屋に参考書を借りようと入ったところで、この写真を見つけてしまったのだ。

     隆世と隆士、それと、記憶を無くす前の糸しか知らない筈の真の本当の姿をとらえた1枚の写真。

     その写真を見つけた瞬間に、兄がどんなに卑劣なことを考えているのか?
     そんな悲しくもおぞましい予感が、隆世の全身を駆け抜けたのだった。

     「私 マコトくんの夢は応援したいって 言ったでしょ!?」

     隆世は怒りで判泣きになりながらも、隆士に詰め寄った。

     「・・・・・隆世・・・・・全部 お前のためなんだよ?」
  
     「・・・・・・・」  

     「・・・・・・・わかってる わかってるわ ・・・・・でも」

     「マコトくんを 僕たちのところへ連れ戻すためなんだよ?」


     隆士は泣きじゃくる小さな妹となだめるように答える。

     だが、隆世はもう小さな女の子ではなく、いつしか、しっかりとした自分の意思を持った少女になっていた。


     「お兄さま マコトくんに何をしたのか ちゃんと話して?」


     隆世は涙を流しながらも、強い口調で更に隆士を問い詰めた。















     数ヶ月に一度くらいの割合で、演劇部にはOBが稽古を手伝いに来てくれることになっている。

     運動部の如く上下関係が厳しい縦社会のある演劇部では、
     OB達がやって来る日は、朝から皆が緊迫し、空気は異様に張りつめていた。

     OBの時がやって来ると、部活のトレーニングが格段に激しくなる。

     このことを知っている部員は、OBの出現と共に覚悟をするのだが、
     その覚悟も空しく、トレーニングの終わった後には、
     観るも無残な動けなくなった若い部員達が散らばっているのだった。

     「はっ  鍛え方が足りねーぞっ  与四郎っ!!」
  
     現部長の与四郎もOBに向かっては立つ瀬が無い。
     時の前に、すっくと立っているだけで充分に部長としての威厳は保っていたのだが、
     それを見ていたのは、僅かながらでも気力の残っている数人達だけであった。


     糸は、へこたれることも無く難題をクリアしていたが、
     気を抜くと真琴のことを考えてしまうので、
     実は誰よりも部活に集中してはいなかった。


     ひとしきり、与四郎を通して部員に檄を飛ばした後、
     いつもと違ってまるで元気の無い糸をじっと見つめていた時は、足音も隠さずに歩み寄った。
     時の気配にようやく気付いた糸が、床に座ったまま顔を上げると、
     糸の顎をくいと手の平で覆うように包むと同時に、顔を自分の真向かいに向けた。


     「どーした? いっこ? 元気ねーな?」

     「どーした・・・って」

     真琴のことを誰にも相談することができない糸は、そのまま声を無くしてしまう。

     ――――― 大きなお世話だ 

     ――――― なんでもないったら

     そんないつもの軽い反撃の言葉すら出て来ない。

     様子のおかしい糸に、時は真顔で状況も気にせずに囁いた。

     「前にも言ったろ? オレの女になっとけって」

     「は?」


     ――――― 前にも言った?

     ――――― 何を?

     ――――― 誰に?



     「・・・・・・・・・・・・・っ!・・・・」



     糸は突然の頭痛に襲われながら、その激しい痛みに意識を失った。

     「・・・・・いっこ? どうした?」



     ――――― 前にも言われた?

     ――――― 時ちゃんに?

     ――――― 何を?






     ――――― 真琴 たすけて



     糸は遠くなる時の声と意識の中で、初めて真琴に助けを求めていた。










               「オレの彼女ですから さわんないでください」













                             糸の肩を抱く、見慣れない金髪。















     ――――――― 誰だ?おまえ?


















           「このまま思い出さないでいてね 彼は私の婚約者なんだから 邪魔をしないで」























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     ===空白のとき===[20]===


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     ===空白のとき===[21]=== へ、続きます。




     後押しを頂いてこの話を始めてから、もうすぐ1年になります。
     こんなに長くなるなんて、事実は小説よりも奇なりです。
     
     ここまでお付き合いくださっている皆さまに、御礼申し上げます。

     ありがとうございますっ!
     一日も早く成仏(完了)させて、あっちの世界でトドメを刺したいですっ(本音)



     (2007.07.06)