===空白のとき===[2]===







     「なあ 本当に覚えてないのか?」
     「うん」
     「あんなに 仲良かったのにか?」
     「うん」
     「真琴さんのことだけ覚えてないなんて 不思議だよなあ」
     「・・・・・・・」

     普段と何も変わった様子の無い、三浦家での夕食時。
     竜矢の言葉を皮切りに、悠斗や竜良が糸の記憶を確かめていた。
     矢張り、糸の記憶は数ヶ月前までしか残っていないようだったが、
     家族のことは正しく把握できていたので、
     真琴についての記憶に関する追究はさほど厳しくは無かった。

     正確には、ここ数ヶ月間の記憶が欠落してしまったため、
     真琴のことは勿論、真琴の後に転校して来た飯塚隆士や隆世のことも覚えてはいなかった。
     だが、そのことは糸の生活に何の支障も与えてはいない。
     糸が自分の意思で真琴や真琴の生活に関わっていたのだから、それは至極当然のことだった。

     夕食を終えて部屋に戻ると、さっき一枚だけ壁に残しておいた、
     自分以外の皆が知ってる真琴と呼ばれる少女を、もう一度まじまじと見た。

     (そんなにこの女の子と仲良かったのか?)

     (すごい美少女ではあるけどな・・・・・)

     長い金髪に白い肌。糸に劣らないスレンダーな長身の少女。
     見れば見る程、周りの驚き様に反して、糸の真琴への興味は冷めて行くようだった。










     「おはよう 糸さん」
     「おはよ 真琴 さん だっけ?」
     「そう 天野真琴よ ・・・・・昨日打ったところは どう?」
     「大丈夫 ありがと」

     昨日知り合ったばかりのように接して来る糸に、落胆を隠しながらその身を心配する真琴。

     ―――――おはよう! まこ!
     もしかすると、昨日のことは悪い夢で、いつものように元気いっぱいで声をかけてくれるのかもしれない。
     昨夜、まんじりともせずに思い願った真琴の淡い期待は、ものの見事に裏切られてしまった。

     休日にも関わらず、演劇の練習をする為に、部室には部員が次々と集まって来ていた。

     「真琴 さん は 着替えないのか?」
     部室で着替えている面々の中に、まだ見慣れていない真琴の姿が見えないので、
     廊下に居るらしい気配の真琴に糸が声をかけた。
     「真琴さん 小さい頃の事故で背中に大きな傷があるから 私達に見られたくないって」
     「だから 私達とは一緒に着替えないことにしようって 糸さんが決めたのよ」
     「そう なのか?」

     (・・・・・全然 覚えてない)

     「ごめんな 真琴さん」
     「いいのよ 気にしないで」
     真琴は、ドア越しに返事を返しながら、悪びれる様子のない糸に検討違いの憤りを感じていた。

     真琴の背中に傷など無いことは、身内以外では糸だけが知っている事実だった。
     真琴は、誰も居なくなった女子部室で小さく溜め息をつくと、用心深く着替え始めた。

     (オレのことを覚えていない?)

     それは、真琴が実は男であるという重大な秘密をも忘れていることに他ならない。

     後継ぎを余儀なく迫る息苦しい家から解放されるために、孤独な女装生活を送っていた真琴。
     しかし、偶然、糸に本当に姿を知られてしまった。
     糸はひとしきり驚いた後、体を張って真琴の秘密を守り続けてくれていたのだ。
     いつしか真琴も糸に心を開き、糸の存在を心の支えとして大切に想うようになり、
     卒業までの女装生活を貫く覚悟を固めていた。

     その唯一の味方であった糸に忘れられてしまった今、
     糸と知り合う前よりも、もっとずっと独りぼっちになったようで真琴は心底寂しくなった。

     ならば、もう一度、糸に自分の正体を明かそうか?
     だが、今の糸が真琴の秘密を知った後、以前と同じように真琴に好意を抱いてくれるのか?
     こんな生活を送っている事実を侮蔑されるだけだったら?

     あの頃には、もう戻れないのだろうか?
     またひとりで夢に向かって歩き続けなければならないのだろうか?

     糸というかけがえのない相棒を失った真琴の不安は、まるで果ての無いように膨らみ闇を広げて行く。
     昨日まで確かに感じられた糸のぬくもりが、この腕の中から、
     あっという間にするりと滑り落ちてしまったことが、どうしても信じられない。
     何度もこの腕で抱き締めた糸は、今は何処にも居なくなっていた。









     「白鳥の湖? ロミオとジュリエットは?」

     「糸さんが考えてるロミオとジュリエットは、糸さんがロミオで真琴さんがジュリエットの役で、もう終演したの
      これから私達が演じるのは白鳥の湖よ 糸さんがオデットで真琴さんがジークフリードに決まっているの」
     「・・・・・・・」
     「やっぱり覚えてないか?」
     「・・・・・あたし ロミオに選ばれた覚えがないぞ?」
     「そっか・・・・・」

     糸は体育館のステージの隅で、膝を抱えて座っていた。
     白鳥の湖の準備をする皆を所在無しに見ていると、
     与四郎と美咲が話しかけて来た。
     欠落した数ヶ月分の糸の記憶と不安を埋めるように、細かく詳しく話を続けている。

     まるで何もかもが初めて聞く話だと言わんばかりに、大きな目を更に丸くして、
     ふたりの話を真剣に聞いている糸の姿が目に入ると、真琴の心臓がずきんと痛んだ。

     糸と一緒に舞台に立ちたいが為に、
     真琴の秘密を暴いてジュリエット役から降ろそうとしていたつぐみの疑念を払ったことや、
     無事にやり遂げたその舞台裏で初めての口づけを交わしたことが、
     糸とふたりだけのものではなく、真琴ひとりだけの小さな想い出に変わってしまったのだ。

     (どうしたら 思い出してくれるんだろう?)

     離れた場所で、一向に自分に視線を向けてくれない糸に歯痒さを感じながら、真琴は静かに必死に考えていた。



     「てっめー いつからそこにいたァ!!」

     黙っていても仕方が無いので、糸は白鳥の湖の練習に加わった。
     すると、覚えていないと思っていた筈の台詞がすらすらと出て来た。
     (もうちゃんと台詞覚えていたのか? あたし?)
     初めて練習するつもりなのに、自然に唇も体も動いている。

     今の自分は、本当の自分では無いのかもしれない。
     ふと、自分だけが閉じ込めてしまった空白の時間はあることを認めなければいけないような気がした。
     少なくとも、生きていた数ヶ月間を失ってしまったのだから。
     ただ、その失った時間が、糸にとってどんなに大切なものだったのかは、
     皮肉にも記憶の無い糸本人にしか計り知れないことだった。





     「あっちー」
     練習の合い間に汗ばんだシャツを着替えようと部室に飛び込んだ糸に、
     「はい」
     先客だった真琴がタオルを投げる。
     「あ ありがと」
     ぎこちなく笑って礼を言ってから、糸は受け取ったタオルで額の汗を拭った。
     その姿を柔らかい哀しみに覆われた微笑で見つめる真琴を、窓からの陽光がまぶしく照らしていた。

     (あれ?)

     真琴が渡してくれたタオルからは、ほのかに甘く、それでいて凛とした優しい香りを含んでいた。

     (何の匂いだっけ?)

     無意識に何かを思い出そうとした次の瞬間、糸の頭の中がずきずきと激しく痛んだ。

     (・・・・いっ・・・・つうっ・・・・・・)



     窓の外に目を向けていた真琴は、タオルに隠された痛みに歪んだ糸の表情に気付いてはいなかった。










  *****************************


     ===空白のとき===[2]===


  *****************************





     創作中BGM  ミーア・キャンベル 「Quiet Night C.E.73] [EMOTION]
     君もクライン派になろう!(←目一杯間違ってます)

     お付き合いありがとうございました。
     ===空白のとき===[3]=== へ、だらだらと続く予定です。



























     (2006.08.15)