===空白のとき===[16]===







     「ねえ 糸さん」

     「なんだ?」

      「飯塚隆士に何か言われた?」

     「何かってなんだ?」

     糸は何のことかさっぱり解らないという表情で、あっけらかんと真琴の問いに答える。
     その表情は、とても演技をしているとは思えない。

     「ううん なんでもない ごめんね」     

     じっと糸の顔を見ていた真琴は、嘘をついている様子も見えない糸への追究を諦めた。

     ( 本当に何も言われてないのかもしれないし・・・・・)

     当の糸は、真琴の問い掛けによりも、じっと目を見つめて来る真琴の視線に、
     平静を装うのが精一杯で、真琴が訊こうとしていることの真意を、全く察してはいなかった。

     ただ、これ以上長く真琴の凝視に耐えられないくらいに鼓動が早くなっていたので、
     適当に返事をしてしまったのだ。

     日もとっぷり暮れてしまった家路をふたりで歩くことは何度もあった筈なのに、
     こんなに落ち着かないそわそわした気分になるのは何故なのか?
     真琴のそばに居たいと思う反面、真琴がこんなに近くに居ると異常なまでの緊張を感じる。

     ただ、あまり長く真琴の香りを浴びていると、ズキズキと頭痛が起こることだけは以前と全く変わっていなかった。



     「じゃあ また明日ね」

     「じゃあな」

     真琴と手を振り合うこの瞬間も、糸は味わったことのない不安と淋しさに襲われていた。
     なんとなく見送っていた小さくなる真琴の後ろ姿が、悲しくて苦しくてたまらなかった。

     小さくなる真琴の姿が糸の心の中で反比例しながら、その存在を大きくくっきりと映し出していた。


     ――――― また明日 会えるのに


     糸は言いようのない不安を掻き消すように、真琴の後ろ姿が完全に見えなくなる前にくるりと体を反転させた。






     その後、糸は家族との夕食を終え入浴も済ませてから、自室で改めてひとりになると、ふと考えてみた。
     帰り道で真琴が言っていた質問の意味を。

     ――――― 飯塚隆士に言われたことって? 

     思い返せば、飯塚隆士と会話をしたことは一度しかない。
     記憶を失う前には会話を交わしたことはあったのかもしれないが、
     今の糸にある飯塚隆士の記憶は、ごく僅かなものでしか無い。


     ――――― 「天野真琴は 女の子じゃない」

     ――――― 「本当の君は もうとっくに知っている事だと思うけどね?」


     糸は、この言葉を投げられた時に隆士から渡された写真のことを思い出して、机の中をまさぐった。
     遠くに追いやられるように、ノートや大切なのかわからない紙切れの波の中に埋もれていた。

     そこには、見たことの無い髪の短い真琴が、隆世と写っている。
     いや、飯塚隆士にいきなり襲われたあの時の真琴と似てる?
     そう思っても、あの時は驚きと怖さが糸の全てを支配していたので、
     曖昧な記憶のままでは比べる余地も無い。
     それに、ここに写っているのが本当に真琴だという確証も無い。


     ――――― 「天野真琴は 女の子じゃない」

     ――――― 「本当の君は もうとっくに知っている事だと思うけどね?」


     何度も何度も頭の中を反芻している台詞が、
     改めて見る不思議な写真と合致するように真実味を帯びて来る。


     ――――― だったらなんで真琴は女装して学校に居るんだ?

     糸の興味は、いろんな方向から天野真琴という存在に注がれ始めていた。

     真琴のことを考える。

     真琴のことを思い出す。


     糸は、いつも気付かぬうちに真琴の姿を追っている自分に気付いた。


     一日の中で、殆どの時と場所での真琴の姿を思い返せるのだ。

     ――――― どうしてこんなに真琴ばかり見ているんだ?あたしは?

     ――――― どうしてこんなに真琴のことが気になるんだ?

     糸は真琴に対して生まれた感情を認識するどころか、扱い切れずに困惑していた。


     ――――― あたしはどうしたんだろう?

     ――――― 真琴は女の子じゃないか??

     ――――― だったら どうしてこんなに気になるんだ??


     糸の中には、制御も操縦もしきれない真琴への不思議な感情が、
     大きなうねりを起こす竜巻のように湧き上がって来ていた。







     飯塚隆士は、糸に真琴の本当の姿を知らせたことで、
     今の糸が真琴の正体を知っていることを確信していた。

     自分が隆世を思いやり愛しているように、
     糸と真琴の間に生まれてしまった熱く厚い感情にも気付いていた。

     飯塚隆士は、妹・隆世の幸せの為なら手段を選ばない男ではあったが、
     その思いを実行に移すだけの力と頭脳を持ち合わせていたことは間違いなかった。

     隆士は真を心から嫌ってはいなかった。
     少なくとも、許婚である隆世を裏切って自分たちの前から姿を消すまでは。
     真の父である真澄に、彼の転校の理由やその状況にまつわる詳細を聞かされたのは、
     真が転校してしまってからであった。
     成田家の事情とはいえ、真と隆世は許婚同士。
     言わば、家と家をを繋ぐための政略結婚でもあったのだ。

     それ故に、大切な妹を、更に自分の家を馬鹿にされたと感じて隆士が憤慨したのも無理は無い。

     そんな怒りの頂点に達した隆士の真への妨害を邪魔するように、常に前に立ちはだかる三浦糸という女の存在。

     隆士が糸を心底許せない理由は、こんなところにもあったのかもしれない。






     「糸さん」

     あくる日の放課後、真琴がもう一度だけ糸に問い掛けようと肩に手を置いた。

     その途端、僅かにびくっと肩を振るわせて真琴を振り返る前に、短い髪に隠れていない耳が真っ赤に染まった。
     目を見開いて真琴を見つめる糸を、真琴も目を見開いて見つめ返したのはほんの数秒。

     だが、糸には、永遠に感じられる程に長い時間を真琴から目を放せずに居たような気がした。

     真琴は、糸の肩を掴み掛けた手を、いつしか自分の胸元に取り戻していた。

     「ご ごめんっ」

     糸は真琴に背を向けて廊下を折れて行った。
   
     真琴は糸に何を言おうとしていたのかを、すっかり忘れて立ち尽くしていた。





     「ほら 彼女はもう知っているんだよ」


     いつの間に後ろを取られたのか?
     いきなり視界の外から聞こえた隆士の声に、どんなに動揺していたのかと真琴は我に返った。

     真琴の予期せぬ事態への興奮をが鎮まるのを無視して隆士が続ける。


     「君が嘘つきだってことをね」

     「!?」

     真琴の顔に驚きと微かな確信の色が表れる。


     ――――― 糸さんの様子がおかしいのは こいつのせいか?


     真琴が凍るような表情で隆士に掴みかかる。

     だが、隆士は微動だにせず、
     真琴のされるがままに胸倉を掴み上げられながら薄ら笑いを浮かべていた。


     「これ 誰かわかる?」

     隆士は真琴に胸倉を掴まれたままの姿勢で、胸ポケットから1枚の写真を出した。

     「? なんですか?」

     「これと同じものを 彼女も持ってるんだよ」



     その写真には、真琴では無い真琴が写っていた。















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     ===空白のとき===[16]===


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     ===空白のとき===[17]=== へ、続きます。





     お付き合いありがとうございました。

     まだ 続きます。

     年内には終わらせたいと思ってますが・・・・・・・・・。きゃー★

     ★という状態です。


     この後も、どうぞ許せる方のみお楽しみください(礼)。



     (2007.05.19)