===空白のとき===[15]===







     「?」

     長い金髪をさほど動かさずに、澄んだ琥珀色の瞳で辺りを見回す。


     「天野先輩?」 

     真琴に何か訊きたがっていたらしい周りの後輩達が、いぶかしそうに声をかけた。

     「ごめんなさい 何の話だったかしら?」


     ここ数日、真琴は今までに無い視線を感じることが多くなっていた。
     隆世の哀願するような締め付ける感覚でもなく、隆士の敵意に満ちたピリピリした感覚でもない。

     その視線に気付いて目を配ると、必ず、少し離れている糸と目が合った。
     これまでも、いつも気付けば糸の姿を視界の端に必ず置いていた真琴だったが、
     糸からの視線が重なることは殆ど無かった。

     それが、あの新入生勧誘会が終わってからは、糸の姿を追う数回のうちの殆どが、
     糸に気付かれているかのように目が合うのだ。

     現に今も見回した視界の中の糸は、真琴の方を見ていた。
     それは偶然だったのかもしれないが、真琴には自分を見ていた糸が真琴の視線に気付いて、
     意識的にその視線を慌てて反らしたような気がしてならなかった。

     真琴は、糸と視線が重なるその度に何気なさを装って笑顔で交わしていたが、
     そんな偶然が続くものだろうか?という、小さな小さな疑問も抱き始めていた。





     演劇部の新入生勧誘会の大成功で、部員は一気に膨れ上がった。
     もちろんその中には、主役を演じた糸と真琴に憧れて入部した面々も少なくは無かったので、
     糸と真琴の周辺は、新たな空気でにわかに賑やかになっていた。


     「三浦せんぱいっ!」


     「天野せんぱいっ!」


     糸と真琴は、それぞれに自分を慕う新入部員達の世話や指導に追われ、
     部活中にゆっくり話す時間すら取れなくなっていた。



     糸は、気付かぬうちに真琴の姿を目で追っている自分に気付いていた。
     しかも、糸が真琴の姿を見つめていると、大抵、真琴が糸の視線に気付くのか、目が合ってしまう。
     糸は、偶然目があったように自分に微笑みかける真琴に、なんとかさり気ない笑顔を返す。

     ( なんでこんなに気になるんだ?)

     何故、こんなに真琴のことを目で追ってしまうのか?
     何故、目に入らなくなっただけで落ち着かない妙な気持ちになるのか?

     糸は、自分でもよく解らないもやもやした感情に襲われていたが、誰にも相談できずにいた。

     これまで、小学校時代に気になる男の子がいたくらいで、恋愛などには遠い世界で生きて来た糸である。
     誕生日やバレンタインデーにたくさんのプレゼントを貰っても、相手に対して特別な感情を抱いたことは無かった。
     勿論、相手は全て同性であったからという事実も否めないのだが。


     改めて、これまでじっくりと考えた事の無かった自分を襲っているらしい記憶喪失について考えてみる。
     糸に自覚は無いが、真琴に関する全てを忘れているらしいことは、
     周りからの話で少しは解っているつもりだ。
     だが、その失った記憶が糸にとってどれほどに大切だったのか?
     それとも、忘れても構わない程度のものだったのか?

     どんなにひとりで考えても、糸の中にその答えは一筋さえも見えて来ない。


     真琴のことを思い出したいという気持ちは、以前よりは強くなっているようだったが、
     どうして思い出したいのかが解らなくなってしまうという堂堂巡りに陥ってしまうのだ。


     糸にとっての真琴は、誰よりも知りたいにも関わらず誰よりも近付き難い存在になっていた。


     違うクラスに在籍する真琴とゆっくり話が出来るのは、この部活の時間が主だったが、
     なかなか思うように話ができなくなってしまった今では気付かぬうちに、
     休み時間や登校時や帰宅時などの短い時間が、糸にとって待ち遠しい時間に変わりつつあった。





     「糸さん おはよう」

     「おはよ 真琴」

     久しぶりに、真琴とふたりきりで挨拶を交わす。
     珍しく、後輩や部員やクラスメートも近くに居なかった。

     待ちかねた筈の真琴とのふたりだけの時間なのに、糸は何故か何を話していいのか解らない。
     しかも、真琴とふたりきりになると、すぐそばに居る真琴の顔を直視できないことに気付いた。
     予想もしなかった自分に動揺していた糸に真琴が話しかけた。

     「・・・・・糸さん なにかあった?」

     少し元気の無さそうな糸の顔を覗き込むように訊ねる真琴。

     ふわっと揺れる金色の長い髪の動きに伴って漂う甘い香りが苦しい。


     「あ いや なんでもないぞ?」

     その真琴の視線に恥ずかしさが最高潮に達してしまった糸は、

     「ごめん 今日当番だから 先に行くな」

     こんな白々しい嘘をついて、真琴から離れて校門へ駆けて行った。

     鼻腔にしがみつく真琴の残り香から、あの言われの無い頭痛を自分の意思とは関係なく呼び寄せてしまった糸は、
     激しく走る振動でその痛みを緩和させているようだった。



     久しぶりに糸とふたりきりでゆっくり話ができると思った途端に自分の前から走り去った糸を、
     真琴は歯痒い思いで見つめていた。
     最近、重なり出した視線の理由。
     そして、何より解らないこと。

     ――――― どうして あの時 糸さんは泣いていたんだろう?


     舞台が終わった後、糸は真琴にしがみついて泣いていた。


     ――――― 舞台が成功したから?嬉しくて?


     ――――― いや だったら糸さんは もっと部員の皆とも抱き合って大声で喜び合いながら泣くに違いない


     糸の性格を周りの他人よりは知っていると自負する真琴は、考えれば考える程に困惑して行ったが、
     ふと、あの時、舞台開演の前に繋いだ手のぬくもりを思い出した。

     ――――― あの手を絶対に離さないと決めたんだ・・・・・・

     立ち尽くす真琴は独りでぐっと手を握り自分の決意を新たに確かめると、糸の後を追うように歩き出した。





     真琴を振り切って教室に入った糸は、早鐘を打つ鼓動を必死に抑えようとしていた。

     真琴の姿を視線を香りを思い出すだけで、胸が締め付けられるように苦しい。
     さっきまで襲われていた頭痛とは全く異なる痛みであることを、糸はまだはっきりと理解できずにいた。

     今までに、こんな息苦しさを感じたことがあっただろうか?
     なかなか治まらない動悸を教室の隅で鎮めようと深呼吸していると、

     「糸さん おはよう」

     登校したクラスメイトが挨拶をして来た。

     「あ おはよう」

     「? なんか顔色悪いけど 大丈夫?」

     「うん 平気 走って来たからちょっと息切れ」

     「え〜? 糸さんがあ?」

     糸の運動神経と体力を知っているクラスメイトがけらけらと笑って返した。

     糸はそのいつもと変わらないクラスメイトの反応に、自分らしさと平静さを取り戻しつつあった。



     ――――― あたしはあたしだ

     ――――― 真琴も真琴・・・・・

     そう思った途端に、糸の脳裏には小さな疑惑が甦る。

     ――――― 真琴は真琴・・・・・なんだろうか?

     そんな疑念を振りほどくように、糸の脳裏には澄んだ笑顔の真琴しか思い描くことは出来なかった。



     ――――― 真琴が男かもしれない

     ――――― しかも それをあたしは知っていた?


     飯塚隆士の刺すような冷たい視線を伴って、冗談としか思えなかったあの言葉を思い出す。

     ――――― 天野真琴は女の子じゃない

     ――――― 君はもうとっくに知っている事だと思うけどね

     鞄から教科書を出している筈なのに、糸は自分が何をしているのか解らなくなっていた。
     まるで、心と体が別々の世界で、それぞれに意思を持って動いているような奇妙な感覚だった。





     「マコトくん」

     昼休み、今朝の様子がおかしかった糸のことが気になっていた真琴が、
     糸のクラスへ向かおうと教室を出たところで、隆世が呼び止めた。

     「隆世ちゃん もう学校に来ていいの?」

     「ええ 熱も下がったから」

     糸のことが気になりながらも、自分を慕ってくれる隆世を嫌っていない真琴は、
     隆世を邪険に扱うことができない。
     しかも、隆世は体が弱くずっと熱を出して学校を休んでいたことも知っていた。
     婚約者として何年も接して来た隆世は、真琴にとってか弱い小さな少女から成長していないのかもしれなかった。

     「マコトくん 演劇部の存続おめでとう」

     「ありがとう 隆世ちゃん」

     邪気の無い隆世のお祝いの笑顔に、つられて真琴も笑顔で応える。

     隆世は演劇から真を引き離して自分の元へ戻したいと思っていたが、
     同じくらい真の夢も叶えてあげたいと考え始めていた。
     真が例え家を継がなくても、自分が真の傍に婚約者として居ることができれば良かった。


     「隆世!」
   
     「お兄さま?」

    飯塚隆士が、隆世を見つけて走り寄って来た。

     「あんまり歩いちゃダメだよ やっと熱が下がったのにまた変なばい菌が付いたら大変だ」

     「もう 大丈夫よ お兄さま マコトくんの顔を見たかっただけなんだから」

     「わかったよ 念のため 熱を測りに保健室へ行こう」

     「大丈夫だってば・・・・・・」

     「ダメだ」

     「もう・・・・・・・ じゃあね マコトくん」

     兄・隆士の強引さに根負けした隆世は、隆士の言う通りに連れられて行く。

     呆れたような疲れたような笑顔で隆世に応えた真琴が、改めて糸の居る教室へ向かおうとしていると、


          「そんな格好をして居られるのも 今のうちだけだよ」


     まるで空耳のような隆士の声が聞こえた。

     「!?」
  
     驚いた真琴が振り返ると、隆世の肩を抱いた隆士が階段を下りて行くところだった。

     ( どういう意味だ? それとも気のせいか? )


     隆士が自分の正体を糸に暴露した事実を全く知らない真琴は、
     隆士の捨て台詞に困惑しながら、ふたりが見えなくなった後をしばし動けずに見つめ続けていた。















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     ===空白のとき===[15]===


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     ===空白のとき===[16]=== へ、続きます。



     お付き合いありがとうございました。

     続きを書く度に、最初から読み直さねば覚えていないくらい長くなってます。
     なんと無責任なことでしょう(汗)。

     申し訳ありませんが、まだ続きます。

     この後も、どうぞ許せる方のみお楽しみください(礼)。



     (2007.04.01)