===空白のとき===[13]===







     「これ 直してみたけど どうかしら?」

     真琴が、ほつれた小道具を綺麗に修繕して戻って来た。

     「おおっ! 完璧!」
     「真琴さんって 本当に器用なのね?」

     糸とその周りに居た部員達に見せて承諾してもらう度に、安心して笑う真琴。
     糸もさっきの出来事は忘れたように、真琴に笑いかけていた。
     その後も、細かい確認と調整が全て終わり、部員の皆が明日の成功を願って家路に着いた。

     いつものように帰路を別つ部員達を見送って、ふたりきりになって歩く糸と真琴。

     「いよいよ明日だね」

     赤い夕焼けを覆うような夕闇がそこまで迫っている。

     「うん」

     「・・・・・・どうかしたの?」

     「え?なに?」

     真琴の話を聞いていなかった糸は自分の発した生返事に気付いて慌てた。

     「ううん 聞いてないみたいだったから」

     「ご ごめん」


     「もしかして今から緊張してる?」

     「そんなことないって」

     「ほんとにー?」

     真琴が意地悪く疑う悪戯っ子のように、無邪気な笑顔で聞き返した。

     糸の答え。

     それは本心だった。
     緊張などしていない。
     明日のことより、あの飯塚隆士とかいう男の話が気になっていたのだ。

     「あのさ 真琴?」

     「なに?」

     にっこりと真っ直ぐに糸に微笑みかける真琴。
     細くしなやかな長い金色の髪を体の動きに合わせ揺らしながら。
     その姿は、眼も眩むような真っ赤な夕映えに溶け込み、輝く一枚の絵のように美しかった。

     そんな夢のような光景をまざまざと見つめてしまった糸は、
     自分の胸がじわじわと熱くなって行くのを感じた。
     目の前の真琴だけが真実だ。

     隆士の言葉が本当であろうとそうでなかろうと、そんな事実はどうでもいいような気になっていた。
     糸は確かめたかった疑問の全てを飲み込んで、いつもの弾けた笑顔を取り戻した。

     「明日 がんばろうな?」

     「うん もちろん!」

     いつもの分かれ道で、糸は真琴と手を振り合った。

     軽やかに歩く真琴の後ろ姿を見送る糸。
     その仕草は、どう見ても自分よりも何倍も女の子らしく見える。

     糸は灯り始めた街燈に照らされる真琴を見つめながら、
     ポケットに仕舞ってあった写真にそっと触れていた。


     結局、何も真琴に問い掛けることはできなかった。



     その夜、明日の本番のために、糸は台本を読み直していた。
     台詞も動きも全て体で覚えているが、とことんまで手を抜かずにやり遂げるのが糸の信念であった。
     明日の成功のために神経を集中して自分のすべきことを確認していたが、



     ――――― そして もうひとつ


     ――――― 天野真琴は 女の子じゃない


     ――――― 本当の君はもう知っている筈だと思うけどね



     突然に通り過ぎる嵐のように、隆士の言葉が轟々と糸の中を乱していた。



          真琴が女じゃない?

          しかも本当のあたしはそれを知ってる?

          本当のあたしって何だよ?


     自分の部屋で独りになった糸は、制服のポケットから出した写真をじっと見つめた。



          真琴が本当は男だっていうのか?

          馬鹿馬鹿しい

          どう見たって女じゃないか?


     自分の知っている真琴は、美しく物腰の柔らかい女性である。
     どう思い出しても、自分の知り得る彼女の姿からは、男性という性に結び付かない。
     むしろ、どう考えても自分の方が男性という性に近い気さえする。
     糸はこれまでに見て来た真琴と、今晩見送った真琴の後ろ姿を思い浮かべては否定し続けていた。



          そもそも、なんでそんなことをする必要があるんだ?


     糸の中にふと新しい疑問が生まれようとしていた。



     それでも、糸にとっては、真琴のことよりも演劇部の存続の方が大事という図式が固く存在していた。
     その目的のためにも、明日は絶対に失敗できない。
     今の糸には真琴という人間が、男であれ女であれ、絶対に必要だった。
     明日の舞台を成功させるために必然のパートナーとして。


     いつしか糸は、その写真の中の見知らぬ真琴も、自分の知っている真琴だと信じて疑うことを止めていた。










     「今日はよろしくお願いします!」

     与四郎が部長らしくはっきりとした口調で言うと、頭を深深と下げた。
     その姿を見ないうちに
     「よろしくお願いします!」
     与四郎以外の部員全員の声が揃って、茜に挨拶をして頭を下げた。

     「こちらこそ よろしくお願いします」
     茜は、その清清しい光景を見ながら、
     この学校から、この演劇部の皆の中から真を卒業させてやりたいと、心の底から祈り願っていた。



     勧誘会当日。

     茜は約束通り、朝から演劇部の手伝いにやって来ていた。

     その手際は紛れも無くプロの技で、あっという間に部員のそれぞれが、
     これから演ずる役と衣装にぴったりの容貌に変身させてもらっていた。


     しばらくしてこれで最後と、糸の番が回って来た。    

     「糸さんのメイクがまた出来て嬉しいわ」

     茜が鏡台の前に座った糸の後ろから弾んだ声で言った。

     以前、茜にメイクをしてもらったらしいが、何も覚えていない糸は、
     楽しそうな茜に申し訳ない気分になって思わず謝る。

     「あの すみません」
     「いいのよ 糸さんのせいじゃないんだから」

     茜がはっと気付いて、手を止めずに糸を慰めるように即答した。

     「私はまたこうしてここで糸さんに会えて嬉しいの」

     糸がどうしていいのかわからない顔で鏡越しに後ろに居る茜に視線を送る。
     糸の不安げな表情に気付いたのか、茜が手を止めて糸の肩を抱くように手を置いた。

     「もし何も思い出さなくても これから何度も会っていれば仲良くなれるかもしれないでしょ?」

     茜の優しくも強い意思を感じられる笑顔に、糸の強張った表情も穏やかな笑顔に解けて行くようだった。

     この人なら信じていいのかもしれない。
     まだはっきりと形になってはいなかったが、茜への小さな信頼が糸の中に芽ばえ始めていた。






     茜に手をかけてもらっている糸から少し離れた同じ部室で、真琴は自分で化粧を終えようとしていた。

     小さな手鏡に映るその眼には決意が溢れている。

     真琴は糸と一緒にいるために、絶対にこの日を成功させようと誓っていた。
     もちろん、糸は演劇部を無くさないために、同じ志を持っていた。
     理由は違っても、目的は同じふたり。

     ただ、真琴には、糸が自分のことを演劇部存続のための理由に数えてくれていないことが悲しかった。
     糸は真琴の父親との賭けの事情を知った上で、この新入部員勧誘会に心を砕いてくれていた筈だった。

     だが、今ではそんな自分に向けられた糸の想いも、真琴の空想でしかなかったような錯覚に陥ってしまう。
     糸は真琴のために、真琴と離れたくないと思ったことが心の片隅に残っていたからこそ、
     この勧誘会に並々ならぬ尽力を注いでくれたのだと、真琴は信じていたかった。


     そんな真琴のすぐ傍で、糸はみるみるうちに美しい白鳥の姫へと変身して行った。
     普段の男の子にしか見えない糸からは想像もつかないような、幸薄い儚げな様相の女の子へと。


     茜は、少し前にも、こんな風に糸に女の子らしいメイクを施したことを思い出していた。
     あの時は、弟である真琴の隆世と糸に対する態度に、
     同じ女性として居たたまれない程の糸の気持ちに賛同したからであったのだが。

     あの時の糸は、本当にただの女の子として、真琴への想いを茜に伝えてくれていた。
     勿論、本人に恋愛相談をしている意識は無かったかもしれないのだが。
     茜は、婚約者を思いやる真琴を目の当たりにしてショックを受けている糸を放っておけなかった。
     真琴が糸に好意を寄せていることを知っていたからこそ、
     糸の前で無意識に見せてしまった真琴の婚約者への態度が許せなかったのかもしれない。

     そういう煮え切らない態度を取った真琴に制裁を加えるかの如く、
     茜は、これでもか!との思いを込めて、糸を華麗に変身させたのだ。

     そして、その変身ぶりは見事に真琴の度肝を抜き、その顔を真っ赤に染め上げたのであった。


     「さ 出来たわ」

     仕上げに被せた長い髪のウィッグを整えて、茜がゆっくりと手を止めた。

     「ありがとうございます」

     「どうかしら?」


     「うわー」

     本人が感想を述べるより先に、部員達が糸の周りに集まって騒ぎ出した。

     「糸さん かわいいー」

     「うん 糸さん超きれー」

     「そ か?」

     「うんうん ちょっと立ってみてっ」

     促されるままに立ち上がった糸は、鏡に映った自分の姿に驚いた。
     すらっと長身の白いドレスを着た女の子が立っている。
     日頃、女装と言われるような制服のスカート姿とは比較にもならない。
     糸は部員達の熱く華やかな感想に、まるで初めてお姫様役を演じるような初初しい気分に照れていた。

     以前に眠り姫を演じたことは忘れてしまっているのだから、
     これが今の糸にとって初めてのお姫様役と言っても間違いではないのだが。

     「じゃ 糸さん 頑張ってね」
     「はい」

     糸は満面の笑顔で茜に答えた。




     部室を出て、ステージへ向かう途中で、真琴が糸を呼び止めた。
     改めて見ると、真琴はよくある外国物語の中に出て来るようなりりしく美しい王子に成りきっていた。
     日本人離れした風貌の何もかもが、白馬の王子様という対象に一致し過ぎている。
     ここまで役に成りきれるのか?
     と見紛う程に、普段の可憐な少女の面影は感じられない。


     ――――― 本当はこっちの姿の方が?


     真琴が男かもしれないという掻き消した筈の疑念が甦るのを、糸は必死に堪えた。



     湧き上がる声にできない感情を顔に出さないようにと抑える糸に、真琴が小さく尋ねた。     

     「糸さん 手つないでいい?」

     「え?」

     真琴のいきなりの願い事に、糸は少しだけ驚いた。

     「いいけど」

     肯定の返事を受けて、真琴は糸の手に触れる。
     緊張からなのか、どちらの手の先もひんやりと冷たくなっていたが、
     徐々にお互いの体温が、お互いの手を温めて行くのが感じられた。


     ――――― この手を絶対に離したくない
 
     ――――― このぬくもりを絶対に離したくない


     真琴は、ぎゅっと糸の手を握ると、その手を優しく引き導くようにゆっくり歩き出した。

     糸はまるで本物の王子様に手を引かれているような気がして、急に恥ずかしくなったが、
     その赤く染まった顔を真琴が振り返ることは一度も無かった。

     着慣れないドレスの長い裾を踏まないようにと、糸も自分の足元ばかりを見つめていた。






     ――――― ねえ わたしのそばに居てくれる?














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     ===空白のとき===[13]===


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     ===空白のとき===[14]=== へ、続きます。



     しつこいですが、フィクションです。
     もう半年も書いちゃってますよ。びっくりです。

     ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
     本当にお疲れ様でございますです。

     この後も、どうぞ許せる方のみお付き合いくださいませ。



    
    
     (2007.02.25)