***管理人のいきなり闘病日記  その2***



私は数年前に卵巣腫瘍で腹かっさばいてますが、もうひとつの病持ちです。

それが、長いお付き合いを続けている先天性緑内障です。

先天性なので、生まれつきということですが、
「おぎゃあ」とめでたく生まれたその時から、この病を持っていたということですね。
ある意味、大当たり?(笑)

緑内障は、皇后美智子さまも患われた辺りから更に名を知られるようになり、
白内障のように高齢者に多いものと思われているようですが、
(あれ?これは偏見か?)
実は先天性もあるという、原因不明で完治不能な厄介な眼の病気です。

私の場合、原因を占ってもらったら(うわー原始的)、
先祖が馬を殺したタタリだそうです。(馬鹿じゃないの?と思いますが家族は必死)
おまけに名前の画数が悪いから、と、漢字を平仮名に一時変えさせられました。けっ。


後天性の緑内障は簡単に言えば、見える範囲がどんどん狭くなって行く病です。
望遠鏡を覗くと、くっきり見えるけど見える世界が狭くなります。
緑内障にかかると視力はそのままで、見える範囲だけは狭くなる・・・・そんな感じかな?
徐々に視力も落ちる場合も、あるそうですけどね。

先天性緑内障は牛眼病とも呼ばれていて、
その名のとおり、黒目がらんらんと輝いて大きくなります。
少女マンガみたいですよね〜、こう説明すると。
でも、眼球が後ろから押されて前に出てくるので、場合によってはかなり少女マンガには遠いかな?

私もかかっている先天性緑内障は、とっても発見が難しいらしく、
発見された時には既に手遅れなケースが多いようです。

それは、この患者の眼はとても綺麗で、
周りの人達が、生命の誕生の喜びに重ねて、
「まあ〜v なんてパッチリした目なの〜♪」
というように、赤ちゃんとしては可愛いであろうその状態に惑わされている間に一気に進行です。
ある日突然、大きな黒目が真っ白な膜に覆われます。
ここで即行手術をしてくれる眼科医に巡り会えると、めっちゃ幸運。(私のようにね)
大抵は、生後数ヶ月の赤ん坊の眼にメスを入れることを躊躇われて手遅れ。
あっという間に失明します。恐すぎる。

私は幸いに右眼だけ処置が間に合ったので、この世界で生きていられますが、
視神経を壊してくれる病気なので、一度進行した所からは戻れません。

角膜移植とか、そういうレベルで治せる病ではないそうです。
そりゃそーだ。壊れたのは絶対に必要な神経だけだから。

祖父が存命の頃に、よく、
「オレの角膜をやれたらなあ」
と言ってくれたのを思い出します。その祖父は、
「障害を持っているからって、何も恥じる事無く生きるように」
と常に諭してくれましたが、まだ幼少だった私にはさっぱり。

成長して、学校や社会に出るようになってから、この祖父の言葉の重さを実感することになりました。


私の左眼は殆ど見えないので、視点を持てずに、右眼と焦点を結ぶことが出来ません。
こうなると、どんどん黒目が顔の外側に向かってしまいます。
いわゆる外斜視(黒目が顔の外側に向かう)の状態です。

私本人は、生まれた時から右眼だけでしか見えない世界を生きているので、
両眼でモノを見る感覚は一生理解できません。

でも、小学校に上がってから、
私と話をするときに、必ず、お友達は一旦後ろを振り向いて、
誰も居ないことを確認してから、安心したように私と会話をしていました。

その相手の行為が、私にはしばらくの間、不思議でしたが、
「どっち見てるの?」
という突然にやって来た、きっと当たり前の問いかけに、その謎は解けました。
私の両の眼の見ている場所が、相手から見ると、一点に定まっていなかった訳です。
右と左の眼で見つめている場所が異なっていた訳です。

私は見えてる右眼しか自分でコントロールできないので、
左眼が何処を見ているかなんて全く解らないし考えたこともありませんでした。
見えないんだから当たり前ですが。

でも、仕方無いので、その後からは不思議そうな顔をされたと感じたら、
「こっちしか見えないから、こっちの眼を見て話してくれる?」
と、右眼を指して、自分からこう言うようになっていました。
負けず嫌いの自己防衛だったのでしょうね(笑)。


生活の中では、遠近感がとにかく無かったので、段差がわからなくてよくスッ転んでました。
チャリでもよく段差で痛い目にあっていたかな?(笑)
それでも、片眼で見ることが自然になって来ると、段差も予想がつくようになるし、
「片眼を閉じたらバランスが保てませんよー」
という実験や実技でも、何の問題も無く失敗しませんでした。

片眼を閉じて、離れたところから両手にそれぞれ持ったペンにキャップをはめるという実験をさせられましたが、
このくらいのことが普通に出来て当然と私は思っていたので、
周りの皆が、片眼では上手くキャップをはめられないという事実が不思議でたまらなかったです。
「あれ?上手く入らないよー 」とか、
失敗しないと実験にならないのでしょうが、私には既に生きる為に必要なことでしたから。

同じような理由で、青と赤のセロハンを貼った眼鏡で見ると飛び出して見える!
という実験も、周りの子供達との見えない差をあてこすられているようで悲しかったです。

これは今でも体感できなくて悔しいことのひとつかな?
どんな風に立体化して見えるのかな?って想像も出来ないのでね(笑)。


小学校入学前には、「盲学校に入れた方がいーよ!」
という世間体を気にする理解の無い話も親族から出たらしいですが、
両親が堰き止めてくれたらしく、
私は無事に健常者(悲しい言葉だわ)が通う学校を経て社会へ出ました。


障害者という理由で、まず金融会社から最初の内定取り消しをくらいました。
母親に泣かれましたよー。コレは堪えたなあ。
私の病気は誰のせいでもないんだけどなあ。

その数年後、その会社から障害者枠で入社しませんか?と誘われました。
ある程度の職員数が居ると、その数%を障害者枠として雇わないといけないのですね。
あまりにも馬鹿にしていると憤慨しながら、丁重にお断りしました。
一見して障害者とわからない私は、企業には都合が良いそうです。むかつくわ。



学校に通っている間にも、私の病気に負い目を感じる両親が、
少しでも視力を回復してやりたいと、
まださほど普及していなかった針治療を施してくれたことがありました。
大阪での治療で、1週間泊り込み(10日間だったかな?)
背中の神経を直に引っ張って刺激するというモノでしたが、
顔に大量の針を刺すという治療もありました。
これが、麻酔も無く直に皮膚を切り裂いて神経を引っ張るので痛い!
さらに、顔に刺す針が長くてずぶずぶと顔に入って行く長い針が恐ろしい!
刺す時は、やっぱりちょっとは痛かったしね。
そんなこんなで、効果があったのでしょう。
壊れた左眼の視力は少しだけ回復しました。
右眼も0.2くらい回復しました。
視野はどうしようもありませんでしたが。
紙を丸めて細〜い筒にして覗いてみましょう。
それが今の私の左眼が見える世界の全てです。

この時、担当なさってくれた先生は、中国の方で、
まだ片言の日本語をやっと話しておられたかなと思います。
先日、その先生から突然に、退院の時に一緒に撮った写真が送られて来ました。
「あの頃はまだ日本語をきちんと理解できなくて申し訳なかった」と書かれておられました。
お元気でお仕事に専念なさっておられるようで、懐かしく嬉しくなりました。
人の出会いとは本当に不思議なものです。

この辺り(中学生くらいかな?)で、私は急に失明の恐怖に襲われて、
万が一の時のためにと、点字も習い始めました。
が、見えるものを見えない振りして覚えることなどできる筈も無く。
今もマスターしていないままです。
こんなところでもダメ人間パワー発揮中。
今は点字専用に色々な器具も開発されていて、
一点一点を、専用の器具で少し厚めの紙に打ち込んでいたことが夢のようです。
でも、紙に刻まれた点字を指で読み取ることが、どんなに繊細な作業なのかは、
是非いつか体感していただきたいです。
紙の小さなでっぱりで文字を表す点字は、ちょっと強く押しただけでそのでっぱりが潰れてしまうのです。
エレベーター等の中にある、固いモノに表記された点字とは、とってもかけ離れた世界ですね。





成人してから後、
「病気の進行も落ち着いているので、そろそろ斜視の手術をしましょう。」
と主治医が言ってくださったので、正月休みを利用して2週間入院しました。

それはそれは退屈な時の流れで(笑)。
眼の病気だからと、本も読まない悲しい生活でした。
TVも無いしね。当たり前だ。

手術は、個人病院だったので、外来診療の終わった夜に行われました。
午後7時から。
執刀も全て先生おひとり。
部分麻酔をかけられて、左顔面の神経がなくなったところで、手術開始。
これが、想像を絶する程に痛いっっ!
しかもなんか見えてるしっ!!
「痛いですか?」
「痛いです!」
「我慢してくださいね」
こう言われちゃったら我慢するしかなかろー!

30分くらいで無事に手術は終わりました。

その夜。
麻酔が切れるにつれて、信じられない痛みが眼球辺りを襲いました。
まだ大人になっていなかった頃に何度も味わった緑内障独自の痛みとは、
比べものにならない激痛!
思い出しても痛いです。思い出すなよ。

その痛みは翌日まで続きましたが、手術は成功したので徐々に治まりました。

しばらく後、抜糸して退院しましたが、退院してもしばらくは自分の左眼を見ないようにと言われました。

その後の何度かの通院を終えてから、もう見てもいいよ〜と言われて見た時には、
そりゃあもうスプラッタでしたよ。
白眼と黒目と血が溶けて混ざり合っていました。心底気持ち悪かったです。おえ。



入院中に、身内が私宛に届いた荷物を持って来てくれました。
少し離れた町に入院していたので、見舞いはこれ一度だけでしたが。
その時に届けてくれたのが、【Wジュリエット】の全サCDだったのです。
その辺りから、私の【Wジュリ】萌えは身内の知るところだった訳です。
「早く聞きたいと思って」
と、MDにダビングして持って来てくれたことに泣くほど感激したのを覚えています。

これが2001年の1月です。
懐かしい・・・・。この頃面白おかしく構ってくれた看護士さん、みんな辞めちゃったなあ。
眼の手術だったので洗髪もしばらく出来なくて、看護士さんに泣きついて慰められたっけ(笑)。




こんな所でまで【Wジュリ】関連の話ができる自分が笑えますが、
今も昔も周りの気遣いにもたくさん助けられて、幸せな人生を送れています。


この先、呑み過ぎて死んでもいーけど、
飲酒運転の車にだけは跳ねられたくないと思いながら生きてます。
私は呑んだら勿論、呑まなくても運転しません。
免許証は身分証明以外の何の役にも立ってません。高価な証明証だわ。


今の通院は、痛みとか自覚症状が無い限り、半年に一度くらいかな?
ただ、左眼よりも、今見えている右眼の網膜が薄くなっているらしく、
「絶対にぶつけないように。」
「そして、少しでも変に黒い点とかが見えたら即来るように。」
と言及されてます。
網膜の場合は、傷ついたら1日や2日で見えなくなるそうです。
先生ってば温厚なのに、びびらせてくれるなあ(笑)。

この先生は、小学校入学前の手術を執刀してくださった先生のおひとりです。
その頃は大きな町の医大の先生でおられましたが、
家から近い町(それでも片道2時間じゃ)に開業なさったので、それ以来ずっと診ていただいてます。
こんなに優しくていーのだろうか?
と心配してしまうほどに線の細い、それ故に発する言葉に重みのある穏やかな男の先生です。
長生きしていただかねばっ!と診ていただく度に切に願ってしまいます。








なので、私はいつも今日を楽しく。
できれば、明日も楽しく笑っていたいなーと思うのです(*'-'*)。





読んでくださってありがとうございました。

今日が楽しく過ぎて、幸せな明日を導いてくれますように。






(2006.09.14.   管理人拝)

入院期間      【2001年1月】
手術目的       【外斜視強制】
手術内容      【左眼球を右側に寄せて固定】 
手術時間      【30分】
傷跡         【たぶん無し】
追加治療      【点眼&投薬(終了)】


現病         【先天性緑内障】
治療法        【眼圧が上がれば投薬&点眼】
通院         【異常に自覚なければ数ヶ月おき】
            
一生のお付き合いなので、仲良くしておきたいものです。
体も心も健康でありたいですが、自分の味方も敵も自分です。