高校2年の秋。
梓は、部活をやめてしまった。
県大会を目前にした時期のことだった。
学校の方から非常に惜しまれ、説得されたそうだ。
そりゃそうだ、直前の大会で県の記録を出していたのだから。
千鶴は、特に何も言わなかったらしい。
「本人の意思は、堅いようですから…」
それだけだった。
自分には、その意志を曲げることはできない。
言外に、そう言っていた。
耕一としては、どうにも腑に落ちなかった。
先日隆山に行ったときは、ずいぶんとやる気になっていたものだった。
後輩にも慕われていたし… よほどの問題があったのだろうか?
だとすれば…こないだの事件のせいか?
隆山の鬼の事件。
耕一と梓は、それに巻き込まれていた。
二人は、自らを『狩猟者』と呼ぶ男に、半日とはいえ監禁された。
それが、梓が部活をやめたことに関係しているように思えた。
大学は、秋の試験が終わると1週間ほど休みになる。
耕一の最終日の試験は1科目。
終了と同時に教場を飛び出し、耕一はいそいそと隆山に向かった。
隆山に着いたときには、日暮れが近かった。
「こーいちーっ!」
夕闇の迫る中、駅前のあかりの中で。
制服姿の梓が、大きく手を振っていた。
「おう、梓! 元気だったか?
初音ちゃんや、楓ちゃんは?」」
「なんだよー、あたしだけじゃダメなのかよ?」
とたんに、少しうつむいて上目で耕一を見る。
「むくれるなよ。
冗談だ、梓だけでも嬉しいよ」
くしゃっと、耕一は梓の頭をなでた。
「学校は、どうしたんだ?」
「もうとっくに放課後だよ…
部活をやめたからね、時間には余裕ができたんだ。
今日も、夕飯の下ごしらえをしてからあんたを迎えに来たんだよ」
「下ごしらえって… 千鶴さんは、大丈夫なのか?」
隆山に来て早々、殺人料理を食べる羽目になるのか?
耕一の胸を不安がよぎった。
「千鶴姉なら、まだ会社だよ。
大丈夫、後のことは初音と楓に任せてきたから」
それを聞いてほっとしている自分が、なんだか悲しかった。
二人並んで歩いていた。
梓は、自転車を押している。
耕一の荷物は、自転車のカゴに収まっていた。
「いつも思うんだけど…
あんたの荷物って、相変わらず少ないねぇ…」
「男の旅行なんて、そんなもんだよ。
替えの下着と、着替えがあれば充分だしな。
こっちに来るんなら、なおさらだよ」
前回隆山に来たとき、父の残していた服がぴったりだった。
今回も、その服を着るならば着替えはほとんど必要ない。
秋の日は、暮れるのが早い。
駅前の商店街を抜ける頃には、あたりはすっかり暗くなっていた。
「なぁ…
なんで、部活やめたんだ?」
会話の切れ目に、唐突に耕一が尋ねた。
今回の隆山来訪は、梓の一件が気になっていたからだった。
「ん? ああ、飽きたんだよ」
梓は無造作にそう答えた。
横目に見える表情は、何も映していなかった。
「飽きたって… もったいないじゃないか。
今年は調子がいいって、言っていただろ?」
「意味がないよ、そんなの… 前も言っただろ?
柏木の女が本気を出したら、大の男だって敵わないんだ。
勝って当然の試合なんて、出るだけ無駄だよ…」
梓らしくない、無気力な言葉だった。
しばらく、二人の間から会話が消えた。
周囲には、虫の声が溢れていた。秋の虫は、今が盛りだ。
住宅街は、この時間になると行き交う人はほとんどいなくなる。
人の話し声のかわりに、虫の声で満たされるのだ。
その中を、二つの足音と自転車のたてる音が、こだましていた。
「…飽きたっていうのはね」
次に口を開いたのは、梓だった。
「ホントは、嘘。
嫌になったんだ。陸上をやるのが」
低い声で、独り言のように話し続ける。
それを、耕一は黙って聞いていた。
「県大会の前にね…地区予選があるんだ。
結構大きい試合なんだよ。近隣の高校って、結構あるし。
そのときに、結構速い奴がいたんだ。非公式ながら、県の記録を上回ったらしいよ。
珍しく本気になったんだぁ、あたし。県の記録なんて、あたしでもそうそう破れるもんじゃないからね」
どこか他人事のような、冷めた話し方だった。
「本番で、走ってるときにね。周りの声が、みんな聞こえなくなったんだ。
さっきも言ったろ? 結構大きい試合だって…
応援団なんかも来て、さ。結構、騒々しいんだよ。
アスリートってさ、競技の最中はめちゃめちゃ集中しているもんなんだ。
それこそ、ほかのものが見えないくらい… 競争相手しか見えないくらいに。
最初は、それだと思った…」
徐々に、声の調子が強くなってきた。
「でも、違った。
あたしが走り出したら、会場の声がみんな消えちゃったんだ。
それこそ、潮が引いていくように。何かに怯えるように。
後から後輩がさ。『あのときの先輩は、怖かった』って。
そう、言ったんだ…」
いつの間にか、梓の歩みが止まっていた。
耕一は、それを振り返って、梓の話にじっと聞き入っていた。
「それを聞いてね。後から、気が付いたんだ。
『あのときあたしは、本気を出していた』
『柏木の力を、解放していた』って。
…柏木の人間は、ああいう場所にいちゃいけなかったんだよ。
普通の人間には、とうてい敵わないんだよ?
そういうことが、苦もなくできちゃうんだよ?
そんな人間は、ああいう場所にでちゃダメなんだ!」
最後は、息を切らして叫んでいた。
そんな自分に気が付いたのか?
梓は1つ大きく息をすると、うって変わって静かに話を続けた。
「結果は、あたしがぶっちぎりで優勝さ。
でもね。そのときに、思ったんだ。
柏木の人間は、ああいう場所にでちゃダメなんだよ。
あたしも、陸上の練習がどんなに苦しいか、分かっているはずだよ?
でも、簡単に普通の人間を凌駕できるヤツが…
普通じゃない人間が、表に出るのは、間違いなんだよ…」
それは、深い慟哭の声だった。
自分ではどうすることもできないことに悩む、言葉だった。
「おまえは、それでいいのか?」
押し殺した声で、耕一は聞いた。
「よくないよ!
でも、しょうがないじゃないか!
あたしには、どうしようもないんだから。
本気を出さないで… 手を抜いて陸上を続けるなんて、あたしにはできないよ」
涙なんて流していなかったが、耕一には泣いているようにしか見えなかった。
好きなことを泣く泣くあきらめた、そんなふうにしか思えなかった。
「あたしは、今でも陸上は好きだよ。
走るなんて、トラックでしかできないわけじゃないからね。
1人で走るだけでも、あたしは満足だよ」
その言葉だけが、唯一の救いだった。